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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

第一節 南予の区域


 南予は中予・東予に対応する用語であるが、愛媛県の南西部に位置し、青い海と温暖な気候に恵まれ、将来の開発に大きな期待がよせられている地域である。
 愛媛県は行政上、生活経済圏として六地区に区分している。愛媛県史地誌Ⅱの「南予」の区域は、八幡浜大洲生活経済圏(八幡浜市・西宇和郡・大洲市・喜多郡)と宇和島生活経済圏(宇和島市・東宇和郡・北宇和郡・南宇和郡)を合した地域に相当する。
 八幡浜市および宇和島市と、東西南北の宇和四郡を南予に入れることは、誰も異論はあるまい。問題は大洲市と喜多郡を南予に入れるか、中予に入れるかである。大洲喜多地区は中予と南予の漸移地帯で、双方の地域性を有する地域で、歴史の過渡期に当たる。
 喜多郡の中央に位する大洲町は近隣一〇か村を合併して昭和二九年九月に市制を施いた。そのため喜多郡は川下の長浜町と、川上の肱川町・河辺村と内山の内子五十崎(いかざき)地区の二つに分断された。
 喜多郡はもと宇和郡の一部で、当初は宇和郡の北方にあるので北郡と書いた。『日本三代実録』の貞観八年(八六六)一一月八日の項に、「宇和郡を分けて宇和喜多の二郡とす」とある。
 昭和九年村上節太郎は「中予地方の農業地誌」の論文を発表している。そのときは喜多郡(大洲を含む)を中予に入れて論述している。昭和四四年青野寿郎・尾留川正平編集の二宮書店の『日本地誌』でも、大洲喜多地方は松山地域(中予)に入れている。昭和九年当時は東予も一市四郡(今治市と宇摩・新居・周桑・越智郡)、中予も一市四郡(松山市と温泉・伊予・上浮穴・喜多郡)、南予も一市四郡(宇和島市と東西南北の宇和郡)で、今よりも人口のバランスがとれていた。その後東予・中予に対し、南予の宇喜五郡の人口は著しく減少した。昭和五八年一二月一八日調査の衆議院議員選挙の有権者数をみると、第一区(中予)四二万五一六七、第二区(東予)四〇万二六六二に対して、第三区(南予)は二七万四六一八人である。したがって大洲市喜多郡を南予地域に入れたが、それでも南予の人口は少ない。
 南予は面積においては愛媛県の五六六九・九平方キロメートルに対し、二三八三・六平方キロメートルで、県の四二%を占め、その過半に近い広さをもつ。しかるに人口においては、県の一五一万余に対し三七万余で(昭和五七年一〇月一日 愛媛県統計調査課調)県の四分の一に相当する二四%を占めるにすぎないという実情である。