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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 魚島の観光

 離島ブーム

 燧灘中央部の魚島諸島は離島であり、かつ人口も五〇〇人に足らないので会社の定期便開設は難しい。村営事業で魚島~弓削間を一日四往復している。そのほか今治~魚島間を「天狗丸」という渡海船が一便運航している。魚島をおとずれる観光客も少なく、旅館も一軒を数えるのみである。孤島性、稀少価値といったところが地域をクローズアップさせるのか、新聞やテレビがよく魚島のことを紹介している。
 魚島が昭和三二年「離島振興法」の第六次の適用を受けてより、大学生を中心とした共同調査が頻繁に実施されている。そのほとんどが魚島の離島性に着目したものである。瀬戸内海という幹線交通路の中で隔絶性の強い魚島は、人口規模、集落のまとまりなどからいって格好の調査地域となるのであろう。ややもすると調査公害がおこりがちなところであるが、自治体や住民はいたって好意的に接している。次に生徒・学生による主な共同研究を列挙する。

  ①愛大附属農高郷土研究部「あゆみ」(昭和三五)
  ②開成学園社会科研究部「(足編に従)跡」(昭和四二)
  ③国学院大学離島研究会「離れ島」(昭和四三)
  ④関西学院大学地理研究会「魚島・見島」(昭和四七)
  ⑤愛媛大学民俗研究会『魚島民俗誌』(昭和四九)
  ⑥愛知学院大学『瀬戸内海離島の実態』(昭和四九)
  ⑦瀬戸内海研究同好会「瀬戸内海」(昭和五一)
  ⑧大阪教育大附属高校「風土記(七)」(昭和五二)
  ⑨松山西高校『越智郡魚島村』(昭和五四)
  ⑩一橋大学「ヘルメス」(昭和五五)
  ⑪日本福祉大学ワングル部『うおしま』(昭和五六)
  ⑫東京大学地文研究『魚島』(昭和五九)


 民俗芸能テンテコ

 詳しくは愛媛県史『民俗(下)』に記述されている。篠塚伊賀の守が魚島に落ちのびて、再起を期して行った訓練の名残りといわれるもので、毎年八月一五日、海岸の砂浜においてくりひろげられる踊りである。東西に分かれた両軍が太鼓や鉦に合わせて「テンテコ、テンテコ、テンテコヤー」・「ヤーコラサー、コラサー」と左右に飛びながら練っていく一方、波打際でダイバンニ人が六尺棒と笹で立回りを行い、東西両軍が出合った時ダイバンの一人が交代し、陣屋へ練り込んで終わるという単調ではあるが、それだけに男らしい勇壮なものである(写真6―14)。昔は部落中央の砂浜で行っていたが漁港の整備後は、砂浜を求め部落のはずれで行っている。残念なのは、宿泊施設も少なくお盆の帰省客や地元の住民中心で島外の一般観光客が見物するチャンスは少ない。
 このほか魚島には村上水軍の墓所であったとされる所を篠塚公園として整備しており、近くには国指定重要文化財の法篋印塔が建立されている亀井八幡神社がある。奉納された絵馬や燈寵によって、かつて魚島が鯛網で栄えた往時を偲ぶことができる。
 昭和五九年に開設した新居浜~福山を結ぶ「三福高速ルート」は魚島~新居浜間を四七分、魚島~福山間を五五分で結ぶことになった。もはやそこには離島魚島のイメージはない。高速船のキャッチフレーズ「瀬戸内に残るふるさと」・「釣り人のメッカ」はよく的をえた表現である。
 魚島を訪れる釣り客が多くなっており、自然豊かな海を利用した観光漁業の有り方を模索している。人の素朴さ、心の豊かさこそ大きな観光資源であるという自治体の姿勢は、佐伯村長の「日本一の村づくり」というユニークな離島振興・過疎対策となってあらわれている。