データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

二 弓削島の観光

 弓削島の観光資源と観光客

 弓削町は瀬戸内海国立公園の中にあり、弓削島を含む芸予諸島は多島海の風景美で知られる。弓削島の観光資源もこうした恵まれた自然環境によっており、海洋型の観光が主体である。弓削島の最も代表的な観光地は弓削神社周辺の海岸で、法皇ケ原には樹齢三〇〇年以上の老松群が茂り、風光秀麗の地として県指定名勝になっている。この海岸は長さ約三〇〇mの砂浜で松原海水浴場とよばれ、近海随一の海水浴場として知られる(写真6―12)。また海水浴場に隣接して松原キャンプ場が開かれ、駐車場も整備されている。海水浴場・キャンプ場は松原海水浴事務所が管理し、貸テントや貸席などの世話をしている。
 潮干狩は島内の高浜海岸・上弓削海岸・土生海岸・浜都海岸などで行われ、また島内を一周するハイキングコースも設けられている。このハイキングコースにそって「ゆげ島八十八ケ所霊場」があり、一番札所霊山寺にあたる東泉寺大師堂から、途中に一八ケ所の番外札所をはさんで八八番札所大窪寺にあたる久司浦大師堂に至る。弓削島の島四国の成立年代は定かでないが、札所の一つに文化甲年(一八一四)銘の弘法大師石像がある。近年は四月の第三日曜日を「島四国の日」と定め、島をあげて霊場巡拝が盛大に行われている。
 また、南部の長磯ノ鼻や松ケ鼻、北部の大岳ケ鼻などは釣り場として知られる。久司山(標高一四二・四m)の山頂には久司山展望台があり芸予諸島が一望できる。久司山へは県道弓削島環状線から登山道があり、国民宿舎ゆげロッジからは徒歩約三〇分で登れる。
 弓削島の余暇利用施設や宿泊施設は、海洋型の観光資源に対応し、弓削島を訪れる観光客も夏期に集中している。弓削町役場の調べによると、昭和五九年における弓削町の入り込み客の最盛期は七月で客数は約二万一九四〇人、最大日は七月の最終日曜日で約一万五〇〇〇人、その最大時は一〇~一四時で約一〇〇〇人である。また年間宿泊者実績は約六〇〇〇人で、その平均宿泊日数は二日、年間野営実績は一〇〇〇人で、平均野営日数は三日である。
 これらの観光客を受けいれる宿泊施設は、国民宿舎と旅館二軒および民宿八軒である。国民宿舎ゆげロッジは鉄筋コンクリート造り三階建て、収容人員一〇八名で四五年七月一五日に営業を開始した。ゆげロッジは松原海水浴場を見おろす丘の上にあり、海水浴シーズンは予約客が多い。ゆげロッジの五九年度の宿泊客は七二六三人、休憩客は三二八四人、食堂利用客は四三六一人で、合わせて一万六一〇七人である(ゆげロッジ調べ)。宿泊客の月別利用状況をみると、八月が二五五一人で最も多く、次いで七月が一〇九四人で、この二か月で全体の約五〇%を占めている(図6―11)。休憩利用客の月別変化もほぼ同様であるが、一二月・一月にもピークがあるのは、会食利用客がこの時期に集中するためである。
 弓削町の旅館には春月(定員一二~一五名)とみどり屋(同二〇名)があり、民宿は夏期に松原海水浴場の近くで開かれる。八軒の民宿業者は組合を結成し(代表柳田市治)、宿泊料や食事料などを定めている。民宿の宿泊者は五一年には二三〇〇人であったが、五四・五五年には六二〇人に減少している。同時期の国民宿舎の宿泊客は五一年が八六九一人、五五年が八一六〇人であるから、民宿利用客の減少ぶりが目立つ。
 弓削島の観光が産業として発展しにくい第一の要因としては、交通の不便さが指摘されている。弓削島を訪れる観光客の多くは広島市や三原市など山陽方面からの客で、今治市など愛媛県からの客が少ないのも交通事情によるところが大きい。例えば高速船利用の場合、今治からは島回り尾道行(一日八便)で所要時間五〇分に対し、尾道からは三七分、三原からは因島経由で二七分(因島市土生で弓削行に乗り換え)である。またフェリーは、今治から因島土生行(一日一四便)で一時間五五分かかるのに対し、土生からは今治行(同一五便)、下弓削行(同一二便)で所要時間は一五分、弓削島中部の明神行(同二三便)では一〇分の距離である。因島は因島大橋により向島と結ばれ、向島からは尾道大橋により中国本土に通じている。しかし観光客は因島大橋の完成後かえって減少しており、また最近は団体客よりも車で訪れる家族客が主になっている。
 弓削島の観光資源の有効利用や施設の整備はまだ十分とはいえず検討が重ねられている。五七年に出された『弓削町振興計画』によると法皇ヶ原を近隣公園として整備し、松原海水浴場に中央広場や遊歩道などを整備する構想などがみられる。しかし弓削島が単独で観光客を誘致することはむつかしく、因島や耕三寺のある生口島、さらには大三島などと連携した観光ルートの開発が将来の課題である。

          
 生名島の観光資源
          
 生名島は弓削島・因島に隣接し、生名島の立石港と因島土生港とはフェリーでわずか三分の距離である。しかし生名島には観光客というほどの入り客はみられず釣り客が来島する程度である。また宿泊施設も立石港周辺に民宿が二軒あるのみで受け入れ体制も十分ではない。しかし島内には観光資源として開発すれば有望なものもみられる。例えば立石山頂のドルメンや山麓のメンヒルは巨石文化の遺跡として注目されており、山麓は三秀園とよぶ公園になっている。三秀園は今東光の小説『悪名』のモデルとなった因島の麻生イトが私財を投じて築いた別荘の庭園で、メンヒルもその中に取り込まれている(写真6―13)。
 また、元文年間(一七三六~四一)におこった松山藩内紛の一方の責任者として生名島に配流された家老奥平久兵衛の墓が正福寺境内にある。久兵衛は島民に学問や武芸を教えたため、島民から親しまれ尊敬されたという。その徳をしのんで昭和四五年一二月に生名村の森本朝市・大本大徳・村上安治・村上武久の四氏によって石像が建立されている。
 そのほか生名村開発総合センターは立石港近くにあり、歴史・民俗資料館となっている。生名島の観光は従来あまり注目されてこなかったが、新しい村おこしの面からも今後の積極的な取り組みが望まれる。

図6-11 国民宿舎弓削町ゆげロッジの月別利用客(59年度)

図6-11 国民宿舎弓削町ゆげロッジの月別利用客(59年度)