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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一 瀬戸内海の昔の東西航路

 安芸路乗りと伊予路乗り

 帆船時代は風待ち潮待ちして航行していた。灘は波が大きいので、天候の悪いときは、天候の回復を待つか、島かげを通っていた。一般に冬は北西の季節風が卓越するので、島かげの山陽の安芸路を通り、夏は南風が卓越するので北四国の伊予路を多く利用したらしい。
 延喜元年(九〇一年)一月、菅原道真は太宰權師に左遷された。彼は讃岐守であった関係か、北四国を通って九州に下っている。今治市桜井には綱敷天満宮、松山市久保田町には履脱天満神社があるので推察できる。
 元禄四年(一六九一)二月と同五年三月に、ケンプエルは江戸参府をしており、そのとき彼らは瀬戸内海の次の如きコースを通っている。
 『ケンプエル江戸参府紀行』の「注」に次の如く航路を説明している(上巻二六五・二六六頁)。

昔時は下関より内海を東上するには凡そ二つの航路があった。第一は上ノ関―河室(家屋)―伊予灘―怒和島中島―安居島―斉灘―御手洗―鼻栗瀬戸―岩城の瀬戸―弓削島―鞆―水島灘―播磨灘―兵庫―尼ケ崎―大阪―堺に至る。これを本航路と称す。その二は御手洗から別路となり、来島瀬戸を通って燧灘に出て、それより鞆に至る。第二航路は簡単で便利であるが、来島瀬戸は風波のあるとき難所である。ケンプエルは東航のとき、初めと終わりは第一航路を取り、中程で第二航路を通っている。

 芸予諸島を通る東西の航路は、帆船や機帆船時代には安芸路の交通量が多かった。風待ち潮待ちのために港が開発され地方の下関・上関・鞆・下津井・牛窓・室津などに遊郭も発達した。島方でも安芸路には大崎下島の御手洗・大崎上島の木之江・鮴などの御女郎船の発達した港ができた。御女郎船は夕方日暮れに、碇泊中の船に来て、一夜の妻をつとめる方式で、昭和三四年に赤線区域が禁止されるまで栄えた。御手洗には御女郎船が十数隻もあり、陸地にも若戎子屋など一〇〇人の女郎を収容したといわれている。
 これに対して伊予路には地方に道後の松枝町と三津浜の新地に遊郭があり、安居島と津和地島と上弓削にお茶屋があった。安居島には昭和の初めまで潮待港の名残りの遊女が居た。上弓削の願成寺には遊女の墓が数基あり、昔の港の繁栄を物語ってくれる。『伊予岩城島の歴史』(上巻一〇〇頁)には遊女屋が一三軒を数えたとある。しかし伊予路は、安芸路に比して淋しかった。
 だが、動力船が巨船時代となると、海峡の狭い島が多い安芸路を通らず、伊予路の広い海の燧灘―来島海峡―斉灘―伊予灘の海上交通が活気を呈してくる。
 最近は瀬戸内海の船は定期便・不定期便が増えて輻湊し、来島海峡を通る船数は一日一〇〇〇隻を越える。そのため、ソビエトの大阪―ナホトカ航路など備讃瀬戸や来島海峡を避けて、紀伊水道から土佐沖を回り豊予海峡を通って関門に出る。


 ケンプエルの江戸参府紀行の航路

 元禄四年と同五年、下関から大阪まで一三六里の里程を、数名の舟人からきいて、ケンプエルはその著書に、次の如く記している(上巻二五二頁)。

 下関より上関まで三五里 それより蒲刈まで二〇里 それより御手洗・来島・今治を経て鞆まで一八里 それより室津(播磨)まで三〇里 それより兵庫県まで一八里 それより大坂まで一三里 合計一三四里(呉秀三訳注)。
 衛藤利夫の訳本によれば、下関より上関まで三五里家室まで七里 津和地経由 御手洗まで一八里 鼻栗まで五里 伯方島・岩城島・弓削島経由 鞆まで一〇里 白石まで三里 下津井まで七里 牛窓まで一〇里 室津まで一〇里 明石まで一三里 兵庫まで五里 大坂まで一三里 合計一三六里(独乙の四六哩半)


 ケンプエルの江戸参府紀行の伊予に関係ある部分抜粋

 元禄四年二月二〇日(旧暦正月二三日)火曜日 朝早く風なく天気静かで、擢をすすめて吾等は欲するままの方向に船を進め得て、沖ノ家室に達す 人家四〇 正午頃津和地島に達す 島には一つの湾ありて東南に開け、岸は半月の如き丸みをなしたり。二百戸許りの人家あり。舟人のため安全なる港の用をなす。その後の山は階段状に山の頂まで一段一段の畝に耕したり。
 午後に至り軟風起こりければ、帆をあげて蒲刈村に至る。夜に入りて数里を経て有名な御手洗港に至る。ここにて他の多数の船の間に入りて暗夜に碇を投せり。此日の航海は日本の一八里。右手に四里を隔て伊予の国を望み、左手に安芸の国を見、双方に高き雪の山々聳えたり。
 二月二一日(旧暦正月二四日)水曜日 日出前一時間、天気静かかるうちに御手洗を発し、四国に一里の距離に近づきたり。それより二時間の後に四国の最外角に(中略)来島を見たり。その付近なる九島(小島・津島・中渡島・馬島・小虫島・大虫島・平地島・小平地島・比企など)もともに其所領なり。それより日本の二~三里に、建築見事にして数個の高き塔のある今治の城と其町とを望む。
 それより五里行きて狭き水道あり。左手の海岸に鼻栗村あり、そこにてあたらしき水を取入るるために一時間近く止まりたるが、その間に数多の船舶は我が傍らに帆を進めたり。此村は人家六〇戸ばかりにて、山の麓にあり。鼻栗とは鼻ノ穴ということなり。
 ここに藁を粗末に積みて丘の如くに見ゆる小屋九個あり。その中にて海水より塩を製するなり。そこより遠からず海岸になお数個の小さき漁村あり。鼻栗より一里にタラノミと云う村あり。此両村の間に一個の水中より聳ゆる保畳あり(甘崎城のこと)。
 数里(此間二里一八丁)ゆきて左手にある岩城村に達す。凡そ八〇戸あり。島の上にあるか陸地の海岸にあるか確かにすることを得ず。此近海の土地は至るところに於て海水に穿通せらるるが故なり。その近くに樹木を負いたる高き岩礁の上に寺社ありて階段にて上るべし。岸辺に立てる相重なれる二個の門(英訳本には鳥居とあり)は其入口なることを知るべし(注=亀山八幡のことで岩城八幡大神と称す)。昔は源頼義が伊予守なりしとき勧請せる七社の一にして、明徳三年(北朝一三九二)村上修理亮敬吉ここに居城を構えたることあり。神社にして城砦を兼ねたる所にして、亀山城又は八幡山城と称えた。中古時代には海戦の根拠地とも称すべく、村上備中守吉安此処に居り、
此に属する要塞も多々ありて、此辺通行の船舶より帆別銭を徴収せしなりという。
 更に進めば我等が通過したる海路の両側には多数の山々あり、その麓には二~三の良港もあり、小さき村々もあれど、特にあげて説くに足らず。その中に塩屋村は、我航路の右手(衛藤本には左舷とある)なる島の上にあり。百戸ばかりの村にて、多量の塩を製するを以て世に知られ、その故に此名あり。
(注=西園寺源透の報告 塩屋村とは伯方島北浦又は古江の塩田を云いしならん。此地は人家多く今も塩業盛んなり。岩城島にも古へ塩田ありしこと古歌に見ゆ)
 それより遠からず弓削という小さき村あり。住民みな富める農民なるが、中に一個の美しき領主(庄屋)の邸宅あり。(注=岩城島は松山藩に対して、弓削島は今治藩に属し、その内中浦と云ふ地(今は上弓削)に、その頃田  頭浄貞という大庄屋ありて、種々の功労あるにより、禄二百石を貰い、宅地一町歩余を無税地とせらる。其邸宅は海岸にありて高塀を廻らし、中央に藩主の別館を置けり。此地は今治を去る海上八里にて、藩領の東北端なれば、藩主が江戸参勤の往復に立寄り、且薪水を舟に取れり。海上より望めば今も凡そ五〇間余の高塀あり。藩主の別邸は今はなきも、昔は定めし宏壮であったろう)
 これより更に我航程を進むなれば、風も廻りて我等に甚だ幸よくなり、水面より高く金字塔の形して挺ける小島  は我等が目を惹きたり。(注=燧灘と水島灘との界にある百貫島のことで、今は灯台を設く)右舷には広き海ありて、四国の北の二国なる伊予と讃岐との間に打開けて、深く陸地に入込み、一望その際涯を極め得ぬなり。左舷には本州の上に色々の村落あり。遠からず左舷に有名なる鞆の港と村とを見たり。

 松山藩主や宇和島藩主が、参勤交代に瀬戸内海のどのコースを通ったかについては、伊藤義一の「伊予松山藩主の参勤交代」地方史研究協議会編(昭和五八年)『瀬戸内社会の形成と展開―海と生活―』雄山閣発行(二一四~二二六頁)の論文がある。