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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

七 大島・伯方島の集落

 大島・伯方島の集落立地

 越智諸島の地形は、標高一〇〇m以上の比較的急峻な山地、標高二〇~一〇〇m程度にかけての山麓緩斜面、それに標高一〇m以下の沖積平野の三つの部分から構成されている。
 藩政時代には、大島に一三の村が存在し、伯方島には五つの村が存在していたが、明治二二年(一八八九)の町村制の実施以降は、それぞれの行政村を構成する大字となり、今日も住民自治の単位となっている。集落には一つの集村で大字をなすものと、いくつかの集村が集まって大字をなすものがあるが、その立地点を見ると、山麓の緩斜面に立地するものと、沖積平野の前面の浜堤上に立地するものがある。前者の集落は集落背後の緩斜面を畑として利用し、前面の沖積低地を水田として耕作しているものが多い。一方、後者の集落は浜堤背後の後背湿地を水田として利用し、その後の山麓緩斜面を畑として耕作しているものが多い。集落が山麓緩斜面や浜堤上に立地するのは、耕地に近接している上に、土地が高燥であり、集落立地点として好適であったことによる。


 幸新田

 大島・伯方島は全域が花崗岩山地であり、その風化によって形成された砂礫が、降雨のたびに河川によって運搬され、それが湾入部に堆積し、そこに沖積平野が形成されてきた。両島が島であるにもかかわらず平地が広いのは、このような地質・地形条件と関連する。また平野の前面には干潮時に海底の露出する干潟の形成が良好なところから、近世以降各地で干拓が盛んに行われてきた。そのような干拓集落の代表が吉海町の幸新田である。
 幸新田は藩政時代の仁江村・八幡村の地先に、新田が開発され、さらに元禄六年(一六九三)から同一〇年の間に、海岸ぞいと舫大川ぞいに堤防が築かれてから成立した新田集落である。戸数は寛政四年(一七九二)に三〇戸、明治四年(一八七一)に五八戸、大正四年(一九一五)に八〇戸と増加した。この集落は元来農業集落であったが、大正年間以降は大島随一の商業集落として繁栄する。それは明治三九年(一九〇六)尾道~今治航路の汽船が寄港し、さらに大正一二年(一九二三)本庄扇浜~宮窪間の県道と、昭和三年に亀山~宮浦間の県道が開通し、この地が水陸交通の要衝になったこと、さらには津倉湾岸の塩田を控えていたこと、などによるといえる。
 現在南北に通じる商店街を幸本通りというが、地籍の上からは、この通りの西側が幸新田であり、東側は八幡である。幸新田に比べて八幡の側の市街化は遅れ、明治三八年(一九〇五)頃には三戸の家しかなかったという。その後大正年間にかけて八幡の岡集落の次・三男などが商業を営むために街道ぞいに家屋を新築するが、大正中期には街道の東側の八幡分にはまだ田畑と家屋が相半ばする状態であったという(図5-42)。
 幸本通りの商店街が最盛期を迎えたのは、昭和三〇年代の後半から四〇年代の前半にかけてである。幸本通りの繁栄をもたらした要因としては、昭和二九年渦浦・津倉・亀山・大山の各村が合併し、吉海町が誕生し、その役場が幸新田におかれたこと、昭和二四年津倉・亀山・渦浦・大山の四か村組合立の大島中学校が幸新田に設立されたこと、また島内唯一の県立大島高校が隣接の福田の地に創立されたことなど、島内の行政・文化の中心地となったことがあげられる。
 現在幸本通りには日用雑貨品店などが五〇軒ほど並ぶ(図5-43)。その商圏は吉海町全域と宮窪町の一部に及ぶが、昭和四〇年代の後半からは商業活動は停滞的である。それは昭和三八年大島の西岸下田水に、今治~下田水間のフェリーボートが就航し、大島の海の玄関としての地位を下田水に奪われたこと、フェリーボートの就航によって今治市と大島の間の時間距離が短縮され、顧客を今治の商店街に奪われだしたことによる。幸新田の商店の多くは主婦が兼業として営むものであり、近代的商業経営に欠けていることも、顧客減少の一要因といわれている。


 八 幡

 八幡の集落は幸新田の南に隣接する。元来この集落は八幡山の山麓緩斜面に立地し、山麓緩斜面を畑として耕作すると共に、その前面の沖積平野を水田として耕作してきた。沖積平野が開発されたのは江戸時代初期であり、その時点で成立した新田集落である。江戸時代中期までは八幡新田村ともいった。
 集落前面の沖積平野は、その西方を流れる舫大川の堆積作用によって形成されたもので、天井川化した舫大川の決壊によってしばしば水害に見舞われた。また平野は全般に低湿な一毛田であり、水田の耕起や稲の収穫には不便をかこつことが多かった。昭和三三年地盤変動対策事業で水路が改修され、同四九年湛水防除事業で排水ポンプが導入されるまでは、稲刈りは膝をも没する湿田の中で、田舟を使用してなされた。刈り取った稲は田舟に乗せて畦まで運搬し、そこにはぜ木を立てて、それにつるして乾燥させた。脱穀も水田では困難であったので、オークで担って家に取って帰って脱穀せざるを得なかった。一方田植え以降の稲の栽培期間には灌漑水の不足に悩まされた。灌漑用水は仁江に構築されている江良池と寒風池、それに八幡の集落内にある八幡池に頼ったが、用水が不足勝ちであるので、部落総代が水番を指名し、その水番が順次配水していった。溜池の水が枯渇すると、灌漑水路に溜った水を昼夜を分かたずバケツで汲みあげたという。この集落が灌漑水の不足から解放されたのは、昭和四五年米の生産調整が行われ、水稲作付面積が減少して以降である。
 集落が山麓緩斜面に立地したのは、前面の沖積低地が集落立地には適さない低湿地であったこと、沖積低地の地下水は塩分を含んでおり飲用に適していなかったことなどがその要因である。しかしながら、高燥な緩斜面に立地する集落は一方では飲料水の取得に不便した。昭和初期までのこの集落の飲料水は村井戸といわれた三か所の共同井戸に頼った。共同井戸は山麓緩斜面を流下する侵食谷ぞいや山麓緩斜面の末端にあった。
 この集落では、第二次大戦後集落立地点が山麓緩斜面からその前面の沖積平野へと下りてきている(図5-44)。沖積平野に第二次大戦後建設された住宅は、島内の他集落の住民が、吉海町の中心地に近いこの地に移転してきたものもあるが、それ以外に、旧来の山麓緩斜面に立地していた家が移転してきたり、その分家が創設されたものも多い。集落が沖積低地に移動してきた要因は、第二次大戦後沖積低地に自動車道が建設され、交通が便利になったこと、低湿地の宅地造成が盛り土によって容易になったこと、水道の敷設によって飲料水取得の不自由さが解消されたことなどがあげられる。


 北 浦

 北浦は伯方島北部の集落であり、昭和三〇年伯方町に合併するまで西伯方村の役場の所在地であった。集落は南に山を背負い、山間地から流れ出る大川原が谷口に扇状地を形成し、ここに集落の主要部が立地している。川はここから北方に流れて海に注いでいるが、かつての深い入り江を砂礫で埋め立てて低湿な沖積平野を形成している。沖積平野は北西の方向にも細長く分岐しているが、この平地も大川原の堆積作用によって形成されたものと考えられる。低湿な沖積平野は水田として利用されているが、この水田のなかには江戸時代に開発された新田が多い。明治四年(一八七一)の『畝高人員戸数取調帳』では本田畑三四町余に対して、新田畑三三町歩余と、その面積はほぼ相半ばしている。
 北浦は伯方島では最も水田面積の広い集落であるが、灌漑水には不自由をした。灌漑水は大小一一の溜池と河川の水に依存した。一つの溜池には一人ないし二人の樋守がおり、この樋守が池がかりごとに上の水田から下の水田へと順次水を配水(あてる)していった。
 北浦の集落の主要部は扇状地上と大川原の自然堤防上に立地している。ともに高燥な地形が集落立地点に選ばれたものである。飲料水は共同井戸と個人井戸に依存したが、古くは共同井戸が主要な水源であったと思われる。新田開発の対象となった沖積低地は、集落立地に不利な低湿地であったこと、地下水は塩分を含み飲用に適さなかったことなどによって、第二次大戦前には住宅は皆無であった。しかしながら、近年はこの低湿地への住宅進出が著しい(図5-45)。低湿地への集落立地をうながした要因は、県道に面しているので交通の便利か良くなったこと、盛り土によって宅地造成が容易になったこと、さらには町の上水道の敷設によって飲料水の取得の制約がなくなったことなどである。


 友浦大崎の集落移転

 大島の南岸には北東から南西に向かって直線状の断層海岸が走る。急峻な山地が海に接するこの海岸線は、平坦地に乏しく集落立地点としては恵まれていない。宮窪町の友浦はその断層海岸の北部を領域とする。友浦は藩政時代の村であり、明治二二年(一八八九)以降は宮窪村の大字であった。海岸ぞいにはまとまった平地はなく、小平坦地が点在するので、そこに二〇~三〇戸程度の小集落が立地する。集落の立地条件に恵まれないこの地は、開発も一般には新しく、久米・赤部・大崎・海老渡などはいずれも江戸時代の開拓集落である。明治四年(一八七一)の『畝高人員戸数取調帳』では、本田畑一七町歩余に対して、新田畑が二七町歩余もあり、近世の開拓になる新田畑の方が広いことがわかる。
 友浦を構成する一集落である大崎は、背後に吉海町境の急峻な山地がそびえ、その前面になだらかな傾斜地がひらける。海岸は砂浜海岸となり、そこに浜堤状の微高地もみられる。住民の生業は農業を主とし、一部は漁業を兼業とするものもいた。農業は第二次大戦前は山麓緩斜面の畑作と侵食谷ぞいの水田耕作であったが、杜氏として出稼ぎするものも多かった。戸数は明治二二年(一八八九)には二七戸であったが、昭和六〇年には一八戸に減少している。
 明治二二年現在の集落立地点を地籍図によって復元してみると、集落は急峻な山地が緩斜面に移行する傾斜変換線と浜堤上に立地していたことがわかる。これを現在の集落立地点と比較すると、上方の山麓ぞいの家屋がほとんどなくなっており、また浜堤上の家屋も少し背後にしりぞいていることがわかる(図5-46)。上方の家屋が移動しだしたのは昭和初期以降であり、ある家は海岸ぞいに移動し、ある家は今治市などの他地区に転出した。上方の山麓ぞいの家屋が下方の浜堤上に移動したのは、海岸ぞいに道路が開通し、海岸ぞいが子供の通学や農産物の搬出に便利になったことによるといわれている。浜堤上の家屋が減少したのは、昭和二九年に台風時の波浪で家屋が流されたことが最大の理由である。山麓から海岸に移動した家のなかには、また浜堤背後の内陸に再移動したものもある。大崎の集落移転は社会条件の変化や自然災害が集落の立地移動をうながした事例といえる。

図5-42 吉海町幸新田の市街地の拡大

図5-42 吉海町幸新田の市街地の拡大


表5-43 吉海町幸新田の店舗構成

表5-43 吉海町幸新田の店舗構成


図5-44 吉海町八幡の集落立地地点の移動

図5-44 吉海町八幡の集落立地地点の移動


図5-45 伯方町木浦の集落立地

図5-45 伯方町木浦の集落立地


図5-46 宮窪町大崎の集落立地の移動

図5-46 宮窪町大崎の集落立地の移動