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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 四阪島製錬所の変遷

 四阪島移転計画

 藩政時代の別子銅山は別子の山中で製錬され、その産銅が搬出されていた。しかし明治一六年(一八八二)、燧灘に面した新居郡金子村惣開(現新居浜市)に試験的な洋式製錬所が作られ、翌一七年には中・大高炉が建てられて銅製錬が始まった。その後、明治二一年(一八八八)に山麓の新居郡角野村(現新居浜市)の山根にも製錬所が建設され、さらに同二三年(一八九〇)には山根より南にあった立川の和式製錬工場を廃して惣開に吸収した。こうして惣開は洋式溶鉱炉五座をはじめ、和式溶鉱炉も含んだ大製錬基地となり、二二年(一八八九)には住友の新居浜分店が西町から移って住友の中心地となった。
 惣開周辺では明治二〇年(一八八七)春から麦の立枯れなどの煙害が発生したが、二六年(一八九三)五月に下部鉄道、一二月に上部鉄道が開通して鉱石輸送量が飛躍的に増大した。
 四阪島は燧灘中西部に位置する無人島で、美濃島(三五・二ha)、家の島(二六・八ha)、明神島(四〇・八ha)、鼠島(三・七ha)の四島からなり(図5-25)、西隣に梶島(二一・九ha)がある。行政上は越智郡宮窪村友浦(現宮窪町)に属し、明治一三年(一八八〇)の友浦村の地誌取調書によると、

美濃島ハ家ノ島ノ東南直径六〇間ヲ隔ツ 其ノ間一帯ハ砂礫ニシテ潮水退ク時ハ徒歩ニテ来往スベシ之ヲ州ノタヲト云フ 山上樹木ナシ草山ナリ

とある。昭和七年九月一七日付大阪朝日新聞愛媛版に四阪島の旧所有者は今治市常盤町の竹内豊助で、草しかとれないため友浦村・弓削村・佐島村などの村民に売却したという記事がある。
 売却したのは明治二〇年(一八八七)前後と推定され、製錬所の移転計画が立てられた当時は、美濃島・家の島・鼠島が友浦村民の私有地、明神島は弓削村下弓削及び佐島村(いずれも現弓削町)の村民の私有地で、四島合わせて一二八筆に分かれていた。伊庭はこの四島を彼の個人名義で購入し、二八年(一八九五)一一月二〇日に登記を完了した。購入代金は合わせて九三七三円七〇銭で、三二年(一八九九)にその所有権が住友吉左衛門に譲渡された。なお梶島は戦前は採石場であったが、戦後住友の所有地となった。
 惣開製錬所の四阪島移転は二八年(一八九五)一〇月に発表され、製錬所の建設許可をうけて三〇年(一八九七)初頭から工事に着工した(表5-50)。製錬所の建設には塩野門之助が四阪島設計長として陣頭指揮した。このころ足尾銅山の鉱毒被害が激化し、政府の鉱毒調査会は三〇年五月古河鉱業に対し厳しい予防工事命令を発した。翌三一年(一八九八)五月には住友に対しても一〇か条の改善命令が出された。
 大阪鉱山監督署長名の改善命令の第一項は「四阪島へ製錬所移転ノ折ハ可成的迅速ニ実行スル様努ムヘシ」とあり、早急な移転を促した。また第二項では煙害防止のため惣開での生鉱の焙焼を禁じた。惣開製錬所の対応工事は直ちに進められたが、四阪島への全面移転は当初の三五年末移転完了という計画を二年間延期し、生鉱吹技術導入の可否も含めて移転計画が再検討された。しかし、三四年(一九〇一)一二月一〇日に田中正造代議士が、足尾鉱毒問題を天皇に直訴しようとした事件がおこり、また翌三五年二月の第一六回帝国議会で新居浜の煙害問題がはじめて取り上げられ、四阪島への早期移転を求められた。
 こうした社会的背景や、三五年春から別子で試みられた生鉱吹の実験が実用化に至らないことが判明して、同年一一月に四阪島製錬所の建設工事を再開した。工事は翌三六年(一九〇三)から本格化したが、三七年(一九〇四)二月に日露戦争が勃発して多くの労働力が奪われ、また四阪島へ水や食糧・資材・人員等を輸送していた汽船御代島丸が徴発されて工事は遅延した。そのため三七年八月初旬操業開始を変更し、一部の焼鉱窯(ストール)のみ八月開始とした。


 四阪島製錬所の銅製錬

 明治三七年八月一日、工事の一部竣工を期して焼鉱窯の初吹式が行われた。まず別子で当時最古であった寛政谷第四七号窯の火が火縄に移され、それを四阪島に運んで新しい焼鉱窯に点火された。焼鉱窯の試験操業に続いて同年一〇月には溶鉱炉の試験操業も始まった。翌三八年(一九〇五)一月から本格的な操業に入り、惣開の溶鉱炉や製錬施設及び別子の焼鉱窯などが順次撤去された。
 塩野門之助が設計した四阪島製錬所は、家の島を工場地区、美濃島を住宅・事務所地区とするもので、両島間の幅約一〇〇mの浅い瀬戸は埋め立てて陸続きとした(写真5-23)。家の島は階段状に周囲を区切り、各段に焼鉱窯を配置した。別子の銅鉱石は船で運ばれ、埋め立て地の埠頭で荷上げして巻揚機で各段の焼鉱窯に入れられた。焼鉱窯で焙焼した焼き鉱は溶鉱炉で鍰と鈹に分け、焼鈹窯、キューポラ炉、当吹反射炉を経て粗銅となり、精製反射炉で精銅(KS銅)に加工された(図5-26)。各窯や炉の排煙は一本の煙道で家の島西端の御住崎に集め、そこの大煙突から排出した。
 溶鉱炉は明治四〇年(一九〇七)に四号炉が増設され、四四年(一九一一)五号炉、大正元年(一九一二)六号炉、同二年七号炉、同四年八号炉、五年に九・一〇・一一号炉が相次いで火入れされた。また生鉱吹の試験操業を明治三九年(一九〇六)に開始し、四二年(一九〇九)には焼鉱窯からしだいに鍋焼に転換して明治末年には焼鉱窯を全廃した。
 転炉は大正四年に実験設備が作られ、同一〇年(一九二一)から塩基性転炉操業となった。そのため錬銅炉・精銅炉を廃止し、精銅炉設備は新居浜へ移転した。塩基性転炉で得た粗銅は新居浜の電錬工場で電気精銅し、以後四阪島での銅製錬は粗銅生産までとなった。また大正一〇年四月に工場内の生産設備の大改修に着手して合理化を進めた結果、同年一二月末の工場在籍者は、前年同期の一七一〇人から一挙に七四二人へと五七%も削減されたが、大正一一年(一九二二)に新工場が完成し竣工式を挙行した。
 大正一四年になるとグリナワルト式焼結工場が完成し、銅精鉱の焼結吹が開始された。これは、別子の銅鉱石(品位二~三%)を濃縮して二〇~三〇%の精鉱にして精錬するもので、鉱石は新居浜の星越で浮游選鉱し、そこで得た精鉱を四阪島へ輸送した。昭和二年には微粉炭工場が完成して全溶鉱炉を微粉炭吹とし、また翌三年には湿式製錬試験設備が完成して試験操業に入った。
 新居浜平野における煙害を避けるために移転した四阪島であったが、製錬所が操業を開始するとその排煙は風向きによって越智郡から宇摩郡まで飛散し、各地で激しい煙害闘争をひきおこした(『愛媛県史』社会経済編「別子銅山の発展と社会問題の発生」参照)。しかし昭和三年一〇月にペテルゼン式硫酸工場が着工され、翌年九月に竣工して陸地部の煙害は克服され、さらに一四年七月には中和工場が完成して煙害問題の完全解決をみた。
 戦後は二一年一月に全国で最初に溶鉱炉が再開し、二六年には銅溶鉱炉半生鉱吹の試験が開始された。二七年には生鉱吹起業のため焙焼炉が二炉とも休止し、二八年に生鉱吹切替工事が行われた結果、翌二九年一一月に銅製錬は生鉱吹製錬法に全面転換した。これは精鉱直投生鉱吹とよばれ、焼結工場・中和工場が廃止された。
 四阪島製錬所における粗銅生産は昭和三〇年代後半から急激に上昇し、四〇年には銅製錬日量三〇〇トンから三八〇トン溶解に増強され、四二年には銅製錬日量三八〇トンから五〇〇トン精鉱溶解に、四三年にはさらに日量五三〇トンに増強された。こうして四四年には粗銅生産が六万三八五七トンのピークに達した(図5-27)が、四六年に新居浜・西条市境の磯浦に東予製錬所ができたため四阪工場での製錬をしだいに減らした。五〇年に東予製錬所が安定操業に入ったので、五一年末に四阪島の銅製錬は廃止され、七一年間にわたる銅溶鉱炉の火が消えた。
 四阪工場では銅製錬以外にも硫酸亜鉛や鉛インゴットの製造(昭和二五~三一年)やニッケル製錬(昭和一四年操業開始)などが行われたが、五〇年にニッケル製錬が廃止され、五一年には濃硫酸製造も廃止された。こうして五二年四月からは新居浜からの通勤体制に移行し、ほとんどの住民が離島した。現在は酸化亜鉛製造とニッケル焙焼などを主な業務とし、美濃島の定住社員は七世帯一四人(六〇年一〇月現在)となっている。

図5-25 宮窪町四阪島の地形図

図5-25 宮窪町四阪島の地形図


表5-50 四阪島製錬所の施設の変遷 1

表5-50 四阪島製錬所の施設の変遷 1


表5-50 四阪島製錬所の施設の変遷 2

表5-50 四阪島製錬所の施設の変遷 2


表5-50 四阪島製錬所の施設の変遷 3

表5-50 四阪島製錬所の施設の変遷 3


図5-26 明治38年銅精錬系統略図

図5-26 明治38年銅精錬系統略図


図5-27 四阪島製錬所の粗銅生産の推移と明治・大正期の精銅生産

図5-27 四阪島製錬所の粗銅生産の推移と明治・大正期の精銅生産