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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

九 塩田跡の車えび養殖

 藤永元作博士の車えび養殖の企業化

 藤永元作博士の遺稿『エビに憑かれて四拾年』によれば、藤永博士は、旧制松江高校から、東大農学部水産学科に入学したときから、既に一生の研究に取り組み、実習していた。いや子供のときから、山口県の萩の阿武川で、えび掬いの名人であったという。終戦後、昭和三四年に第三次塩業整備で、瀬戸内海の入浜式塩田は、廃止されることになった。食塩一〇五万トンはイオン交換樹脂膜方式の七企業で賄うことになり、工業塩は主としてメキシコとオーストラリアの天日製塩の安価なのを輸入することになった。
 藤永博士は昭和三四年八月一日、「くるまえび養殖㈱」(資本金三五〇〇万円)を設立し、昭和三五年一月に、高松市の生島塩田跡一一haを購入し、養殖の施設に取りかかった。二年目には四〇〇万尾の稚エビをつくって、その一部を、岡山・香川・三重・山口の四県の漁業組合や生産組合に配給した。香川県と山口県は先進地で、特に成績がよかった。昭和三五年からは、継続的に養殖車えびが市場に出回るようになった。
 昭和三八年四月二〇日に、藤永元作博士は山口県の秋穂町に、「瀬戸内海水産開発㈱」を創立し、初代の代表取締役社長となった。また同時に「日本養殖産業㈱」を設立し、代表取締役会長となった。昭和四二年五月一〇日「日本車えび養殖協会会長」となり、昭和四三年七月二六日「財団法人藤永車えび研究所理事長」となる。昭和四八年九月一二日に死去された。享年七一歳。
 藤永元作は、昭和一七年に「クルマエビの生殖と変態と飼育」の学位論文とともに「日本農学会賞」を受賞された。昭和四八年四月二九日には勲三等瑞宝章を賜っている。「一流の学者必ずしも一流の経営者にあらず」の俚諺の如く、藤永博士も苦労された「車えびの養殖会社」は必ずしも順調でなかった。
 表5-36は一九七五年当時の、日本の車えび養殖場の分布表で、聞きとりによるものである。
 表5-37は越智郡における一九八五年の車えび養殖場の一覧表で、創業年と経営者と経営規模を示す。
 表5-38は愛媛県と伯方島の車えびの生産量の累年統計表である。


 愛媛県の塩田跡の車えびの養殖

 表5-36の如く、愛媛県の塩田跡の車えびの養殖業は、香川県や山口県に比して、約一〇年遅れている。『北木水産㈱の会社案内』によれば、赤瀬林市・赤瀬光政兄弟の経営する北木水産が、伯方町大字北浦の塩田跡に、愛媛県で最初に、車えび養殖場一万八〇〇〇平方mを開設したのは、昭和四六年一〇月である。
 ①北木水産の会社の創立は昭和四九年七月一日で、北木の名称の由来は、赤瀬取締役らの祖父や父親が、岡山県の北木島で、石材を採掘販売しながら、郷里の伯方島で製塩業を営んでいたからである。昭和四七年四月に着手し、車えび稚魚五〇万尾を初めて移放養殖した。次いで経営規模を拡大し、昭和四九年五月には北浦養殖場を三万三〇〇〇平方mにした。昭和五三年四月には古江浜に四万六〇〇〇平方mの養殖場を開設し、事務所と作業所を新設した。昭和五四年四月には古江浜に更に一万八〇〇〇平方mの養殖場を増設した。昭和五七年二月には北浦に孵化場を設け、車えびの種苗生産を始めた。同年古江浜に三〇〇〇平方mの養殖場を増設した。同年一一月には北浦に孵化用作業場、古江浜に倉庫を増設した。昭和五八年八月には北浦に本社の事務所と従業員宿舎を新設した。同六〇年一一月には北浦に蒲鉾工場を新設し、練製品の製造を始めた。また北浦と古江浜の養殖場に「ひらめ」の養殖施設を新設し、活気を呈している(五章二節の図5-21参照)。
 車えびの生産量も累年増加し、昭和四七年の六トンが、昭和五七年には四〇トン、六〇年には五〇万トンに増加している。
 ②四国興産㈱大三島事務所 昭和四八年、大三島町宗方の旧塩田跡の三浜分五万四〇〇〇平方mで、車えびの養殖を始めた。当時「エサ」は西条からあさり・二枚貝・ばか貝・小えびをとりよせ、配合飼料では採算がとれぬといっていた。貝類のエサ一㎏が二〇円、歩留まりが身一五%。冷凍えびで一kgが八〇円で、生産費の五〇%~六〇%がエサ代であった。車えびの販路は昭和五〇年三月当時、東京五トン、大阪三トン、京都三トンで、主に寿司やテンプラ用であった。一kgで平均四〇匹、ダンボールのオガクズの中に入れ、酸欠で死なないよう注意し、航空便で送っているのは、一〇年前と大差はない。東京市場で一kg五〇〇〇円であった。
 松山空港を午後六時に積めば、翌朝の東京の中央卸売市場に出すことができる。表5-39の如く昭和六〇年の統計では、瀬戸内・九州の品は、冬よりも七・八・九月に主に出荷されている。天草や鹿児島・沖縄が競合地である。台湾からは親えびを購入する。以前は出荷期は冬が主で、三月にはビニールを底に敷き清掃していた。
 ③藤田車えび水産 藤田建次(先代藤田政雄)の経営する藤田車えび水産は、日本で第三位の大規模なものである。池の面積は北木が一〇万平方mに対して藤田は一七万平方mであり、従業員は北木が二五人に対して藤田は二八人である。全国一は大分県姫島で三〇万平方mであり、次が山口県秋穂の二〇万平方mである。藤田水産は北木水産より三年おくれて、昭和五〇年から発足した。
 藤田水産の車えびの販路は、昭和六〇年五月調査では、東京五〇%、関西四〇%、地方一〇%であった。
 車えびの日本の生産高は約二〇〇〇トンで、うち愛媛県が約二〇〇トンである。昭和五九年の世界の養殖えびの生産量は、日本一九〇〇トン、中国四八〇〇トン、台湾一万八〇〇〇トン、比島九〇〇〇トン、インドネシア九八〇〇トン、タイ一万二〇〇〇トン、インド一万五〇〇〇トン、エクアドル二万六一〇〇トン、パナマ一八〇〇トン、ペルー一四〇〇トンである。一ha当たりトン数では、台湾と日本が四トン以上であるのに対し、他は一トン以下で、格段の差がある。なお養殖えびにも種類があり、車えびは日本・中国・台湾・ブラジルに多い。


 車えび養殖の立地条件

 ①越智郡の島の塩田跡は安い土地でしかも潮の流れのある、砂地を利用し、立地条件に恵まれている。②島方で付近に住宅や工場が少ないので殺虫剤や汚水などの公害がない。高松市の生島や本島はその点赤潮の害がある。③干満の差が大きいので、海水をポンプアップする必要がない。④気候的に温暖でえびが大きい。北限界の佐渡島は寒いので、えびが小さい。⑤北木水産も藤田水産も経営者が若く、施設が新しく進歩的である。その点本島や仁尾や鳴門などは施設が古い。東予市の河原津や天草のは小規模である。⑥空港までの所要時間が問題。秋穂から福岡空港まで四時間かかる。姫島は大分空港か福岡空港に出す。伯方島の北木水産や藤田水産は松山空港まで二時間で行ける。欠点といえば濃霧と暮や盆にフェリーが気にかかる。そのうち来島海峡に橋が架かればすべて解消する。⑦生産力の向上。一〇年前には車えび一ha当たり二~三トンであった。五年前から四~五トンに向上した。伯方島では将来は一ha当たり七~八トンに向上する可能性がある。

表5-36 日本の車えび養殖場の分布

表5-36 日本の車えび養殖場の分布


表5-37 越智郡におけるクルマエビ養殖の概況

表5-37 越智郡におけるクルマエビ養殖の概況


表5-38 愛媛県内および伯方島の車えび生産量推移表(暦年)

表5-38 愛媛県内および伯方島の車えび生産量推移表(暦年)


表5-39 月別車えび業種別の東京都中央卸売市場築地市場入荷量

表5-39 月別車えび業種別の東京都中央卸売市場築地市場入荷量