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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

八 越智諸島の一本釣りと瀬戸貝

 地域水産業の構造

 越智諸島の町村別水産業の現況を示したのが表5-33である。来島海峡や燧灘の豊かな漁場を控えているにかかわらず、各町村に大きな差異があるが、宮窪町・吉海町が中心であることはよみとれる。この二つの町は今治市にもっとも近い大島に位置するが、その漁港別の水揚高を示したのが表5-34である。漁業種類別にみると、宮窪漁港の「その他の漁業」(潜水漁法)による瀬戸貝やうに、さざえの漁獲、吉海町の志津見漁港ののり養殖業、椋名漁港の一本釣、延縄によるたい類の漁獲が多い。この内、志津見は明治三六年(一九〇三)漁業組合を結成以来、初期のたい網から専漁的傾向が強く、網漁集落であるが、中心のたいは大正末期をピークに減少し、のり養殖などに変わってきた。一方、余所国(宮窪町)・泊・津島(共に吉海町)は水揚高はきわめて少ないが、余所国のように石材加工に依存したり、津島のように宗教的理由によって水産業に背を向けたりしているためで、海運など海とのかかわり方は深いものがある。本項では漁業を中心にする水揚高の多い宮窪と椋名をとりあげて越智諸島の水産業を分析してみる。


 宮窪・椋名漁業の歴史的背景

 越智郡島しょ部は燧灘や来島海峡の漁場に恵まれて、古来漁業が盛んであったが、現在の漁法や漁場の使用などの慣行の基礎は近世に確立されたと言われている。これについて斉藤の報告(『伊予史談』二五六号)に詳しいが、弓削島近海では鎌倉期にすでにたい網漁が成立しているが、村浦とその沖合海面の領域の確定は室町期以後の郷村制の進行と関係が深い。近世の大きな特色は、今治藩も含めて人口停滞が一般的であったが、表5-35のごとく漁村は例外で、宮窪・椋名などの人口の伸びは、出稼ぎ、特に船稼ぎや行商などにもよるが、中期以降の網や延縄などの漁業の発展によるとみられている。近世初頭には漁場は功績の特に大きな者に藩主から与えられることが多い。椋名村二代庄屋は寛永一二年(一六三三)に初代定房が大島廻領中、同家に宿泊した際、領内の鱸網代を拝領した。また、漁村の成立にも新漁場が開かれて新浦に取り立てられることも多い。椋名村漁民による大島の名駒・馬島・津島の開発はその例である。漁場は村持ちの地先海面と、各村の入会が原則の沖合に分けられる。燧灘は藩内一般の共用漁場であったが、網漁業の発展により平等関係がくずれ、網代使用権を得た有力漁村や漁民の専有漁場化した。地先の漁業では、いわし地曳網が重要であり、沖合では焚寄漁や八つ手網が行われ、なま又は素干しが一般的食品であったが、魚肥の需要増で漁獲が急増した。椋名では七か所のいわし網代が九か所と増えたが、次第に細分化された。しかし漁場そのものは共有で、交替して平等に操業する仕組みである。宮窪の能島いわし網代を例にとると、寛政七年(一七九五)に庄屋と漁師で折半したが、不漁のため庄屋分の半株は休養とした。
 燧灘のたい漁は魚島周辺を中心に有名で、宮窪では友浦で元和元年一六一五)にたい網をはじめたが、昭和一〇年頃漁獲の減少で消滅した。また近世中期には五智網など網も多様化した。網漁で多いのは宮窪のちぬ網(七帖)、ぐり網、魚島の鰈網、叶浦村の打瀬網(八帖)などで、延縄釣も普及した。椋名・宮窪を中心とした増加は著しく、文政以後縄数の増加で、はも・たい・さば・たこ・ふぐ縄なども使用され釣漁師と争った。


 宮窪の一本釣と瀬戸貝漁

 宮窪町の宮窪漁港は、能島城跡を前面にした避難港として昔から栄えると共に、沿岸漁業の中  心港として昭和二六年に第一種漁港、同四三年に第二種漁港になった。現在越智郡島しょ部最大の水揚げをほこる漁港である(写真5-17)。
 この宮窪の水揚高の第一位が表5-34のごとく潜水漁法による瀬戸貝採取漁である。瀬戸貝は正しくは胎貝と呼び、潮の速い、深さ二〇~三〇mの岩礁に生棲するくさび形の二枚貝で、宮窪瀬戸・有津瀬戸が主要漁場である(図5-17)。
 漁船統計(五八年)によると採貝藻を行う潜水漁の漁船は宮窪全体で八八隻の内、瀬戸貝採取船は現在八隻で、前述の漁場へ潮流のゆるやかな所や、干満の変わる潮流の弱い時をみて一日二、三時間から、七、八時間潜水をくりかえす時もある。潜水船の年間作業状況をみると、主漁日数一五〇~二〇〇日で、その内一一月一〇日頃から三月一五日くらいまでが瀬戸貝漁である。三月中旬から一一月中旬まではさざえ・なまこ・などの潜水専業が四隻(なまこ漁は四、五月は禁漁期)、他に敷網(袋網とも言い、いかなご漁を行う)や、さわら漁のながせ網を行ったり、他の漁船の手伝いで乗り組んでいる者もいる。瀬戸貝採取漁は六人、二隻で編成されたものが普通で、潜水夫(一名)、船頭(一名)、綱持ち(一名)、雑作業(三名)から成る。漁法は最初、樫の木を継いだ二〇mくらいの熊手で、かんに頼って操業したが、大正一四年(一九二五)に潜水具が導入された。初期は鳴門海峡で瀬戸貝をとっていた徳島県阿南市伊島の潜水夫が来ていたが、昭和二二年に宮窪の漁夫が潜りはじめ、現在は海洋作業の優秀な潜水夫を多く出すまでになった。この間、潜水作業の機器が進歩し、三五年頃からコンプレッサーが手押しから機械化し、イヤホーンが登場し、四五年頃からは水中作業に電灯をつけ安全と能率向上に役立っている。水揚げされた貝は港の作業場で主婦の手で身抜き作業される(写真5-18)。主な出荷先は今治・松山や阪神市場で、直接出荷されるが、現在この貝殻の処分方法が課題になっている。
 瀬戸貝以外の潜水漁の約八〇隻は一〇月~二月は前述のごとくさざえ・なまこ・うに・あわびなどの漁中心で、三月~九月は刺網や小型底曳を組み合わせて周年操業が行われている。これに併せてなまこなどの加工場も操業している。
 次に漁船数の多い一本釣は、たい・ちぬ・かさごなどを中心とするもので、約九〇%は専業であるが従事者の高齢化が著しく、後継者がほとんどいない。一本釣以外は四〇歳以下が多く後継者もいるのに比べて大きな相違である。一本釣の詳細は次項で述べる。


 椋名の一本釣延縄漁業

 椋名は大島の南西部、吉海町のほぼ中央に位置し、その地先は来島海峡に近く潮流の激しいところとして知られている。多数の島に囲まれた海で、渦浦漁場と呼ばれて古来釣漁業が発達していたが、現在も一本釣と延縄が盛んである。明治から大正初期にかけては「椀ぶね」と呼ばれる船を利用した桜井漆器の行商が盛んであった。明治四五年(一九一二)の戸数二四三戸(津島・馬島を含む)の内、農家五五戸、漁家六〇戸に対し漆器販売商家六〇戸となっている(『渦浦村郷土誌』)。現在は約一九〇世帯、六〇〇人で、下田水のフェリー港に近いため、今治などへの通勤者が増えている。
 椋名漁港は第一種漁港で、漁港は集落の北端に位置し、漁家は中央部に集中するため(五章五節の図5-32参照)、漁業従事者は一般に車や自転車で漁港に通い、漁獲物は下田水のフェリー基地まで仲買人を通じて個人出荷する場合が多い(写真5-19)。
 第七次漁業センサスで渦浦漁協の地域の漁業種類別経営体数をみると、合計五二経営体の内、一本釣三二、延縄一七で、他に底曳網・刺網が多少あり、いずれも個人経営である。底曳網はいわゆるえびこぎ網で四阪島周辺から菊間町沖に出漁し、渦浦漁場では操業しない。刺網は大島周辺の岩礁海域で周年操業する。
 一本釣は椋名の中心になる漁業で、三トン未満の小型船に一人で乗り、潮流を利用する流し一本釣である。これは漁場で漁船のエンジンをかけたまま潮流にまかせて釣糸を入れ、釣れそうなポイントをうまく通過するよう漁船を操作する。潮流を下ると漁船を再び潮流の上手に移動し、この操業を何回もくりかえすのである。この主要漁獲物の漁期を図5-18に示したが、最も重要なたい釣は四月中旬から翌年の一月まで行われる。八月中旬から九月上旬までは水温の上昇で漁獲が減少するので休漁するか、キュウセン(ぎざみ)釣やあじ釣などに切り替える場合が多い。九月末から一月まで再び釣れるが、十一月末になると季節風で休漁する場合が多い。その場合、宮窪の瀬戸貝の潜水漁業へ出稼ぎ雇用されたり、酒造業の出稼ぎに行ったりするので、冬季も操業する一本釣漁船は一〇隻前後である。
 次に延縄漁業が一本釣に次いで多い。漁獲対象はイソと呼ばれる浅海部の海底の岩礁に棲息する魚種が中心で、なかでもほご・たもり・あなごが多い。いずれも周年漁獲されるが、一一月から翌年四月にかけてはほごが、五月から一〇月にかけてはたもりとあなごが多い。延縄漁師は前者をほごなわ、後者をたもりなわとして区別している。ほごは昼行性、たもり・あなごは夜行性であるため、魚の習性に伴ってその操業時間帯もほごなわは早朝から昼間、たもりなわは早朝か夜間に行われる。しかも延縄は潮のトロミの時間帯に操業しなければならないので、他の漁業に比べ操業時間の制約が大きい。一七隻の延縄漁船は、その大部分が配偶者又は親子など家族内成員や近親者を乗せる二人乗組で構成されている。初期は漁獲をあげるために三人乗組のオオナワと呼ぶ延縄漁船があり、一~二名で操業するコナワと区別されていた。現在、オオナワと呼ばれる延縄漁船は一回の操業で多くのナワバチ(縄を入れる容器で、一ハチの長さは一五〇m前後)を使用する漁船、すなわち一回の操業での漁獲量が多い漁船を意味し、従って、二人乗のオオナワもある。操業は二一ある延縄漁場のいずれに出漁してもよいが、各延縄船の出漁する漁場には片寄りがある。
 操業時間も周年操業のものと休漁期のあるものに分けられるが、一月~三月の休漁期のあるものは酒造業への出稼ぎや造船業のパート勤務、みかん栽培を主とする農業従事などを行っている点は一本釣と類似している。

表5-33 越智諸島の町村別水産業の現況(昭57年)

表5-33 越智諸島の町村別水産業の現況(昭57年)


表5-34 大島地域漁港別の業種別、主要漁業種別陸揚高

表5-34 大島地域漁港別の業種別、主要漁業種別陸揚高


表5-35 今治藩の主要浦方の人口増加

表5-35 今治藩の主要浦方の人口増加


図5-17 大島地域漁船漁業漁場図

図5-17 大島地域漁船漁業漁場図


図5-18 椋名の一本釣漁獲対象物の漁期カレンダー

図5-18 椋名の一本釣漁獲対象物の漁期カレンダー