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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 大島・伯方島・大三島の柑橘(3)

 塩田跡地利用の柑橘園

 大三島の岡山村口総(現大三島町)の塩田(図5-9参照)は、文政年間(一八一八~一八二九)の構築で、昭和三五年まで大島の村上・柳原・小川・泉村の四人が所有し経営した。岡山塩業組合一八・七haのうち、口総浜八・五九haの廃止塩田跡は昭和三八~三九年に柑橘園に転換した。浦戸の田坂忠重ら二二人が、塩田所有者四人から口総塩田跡地約九haを四〇〇万円で購入した。二二人の共同経営で農業構造改善事業の借入資金を基に、昭和三八年から着工して灌排水工事を施し温州みかんを植え付けた。非農家は電気商が一名で個人平均〇・四haに等分し、みかん農家の経営規模拡大をはかった。
 塩田はその表面の高さが満潮時と干潮時のほぼ中間である。そのため、他の用地に転用する場合かなり盛土をしなければならない。第一次及び第二次整備による廃止塩田は、農地に転用された例が多いがなかなか塩分が抜け切れず、あとあとまでも作物の生育に支障があるといわれる。大三島町浦戸の柑橘園に転用した農地化八・六haは全国でも特例である。塩田の農地化の成功例が少ないのは一般に海岸で低平なため、僅かな埋め立てでは塩分が浸透し灌漑用水の便が悪く土地造成には、埋め立てに莫大な金がかかかり農地の地価としては高すぎるからであった。
 口総塩田跡地には、山土を入れて一mのかさ上げをしたので塩害は免れたが、中央部のみかんの木が枯死する被害が発生した。それは凹地のため冬の冷気がたまる冷気湖化現象の気象災害とわかり、送風機をたてて冷気を海上に吹送して防止した。
 しかし、昭和四〇年代後半からのみかん不景気は、収穫樹齢期を目前にして混乱低迷におちいり、県の補助も得られず九haのみかん園は伊予柑に改植したり、成績不良のまま放置状態である(写真5-8)。大三島町は昭和五四年に不良園を買収し、過疎対策事業として緑の村運動広場を建設した。この運動広場はスポーツを通じ、都市と農村の交流を深める目的でつくられた。写真5-9のように、若齢柑橘園に囲まれ一見不釣合いな町民体育館が建ち、面積約三万平方mにわたり野球・ソフトボール・バレーコート・テニスコートなどのある多目的広場に再転用されている。


八朔のトップ産地上浦町

 上浦町の柑橘栽培は昭和三五年頃から急増した。四三年のパイロット事業、四五年瀬戸・甘崎地区の水田埋め立て、四六年上浦南地区の第二次構造改善事業の大規模開発など制度資金を背景に、政策的拡大が怒濤の如く連続的にすさまじく推進展開された。
 昭和三五年の上浦町の経営耕地面積六八九haが、四八年には八五六haに増大した。しかし水田は三五年一八六haあったものが、四八年には僅か七〇ha残っただけで、田畑転換率八〇%というハイペースで田畑転換がすすんだ。特に昭和三五年頃からのみかんブームと、米の生産調整・減反政策とがあいまって水田みかん園が造成されたためで、人為潰廃は一九%にすぎない。
 畑地は昭和三五年の五〇三haが四八年に七八六haに増加した。普通畑二三三haが四八年には六haを残し樹園地に転換した(昭和五五年樹園地率九二・五%)。樹園地を占める果樹面積は三五年二五五haから四八年には七二八haに達し、果樹の中核品種である温州みかんは、三五年結果面積二五五ha・四八年四八九ha・五〇年五三五haと一五年間に二倍以上になった。
 このように急成長した温州みかんも、四〇年代末からの価格低落、生産過剰の慢性的構造不況に抗しきれず他品種への淘汰更新を余儀なくされていく。温州みかんの不況脱出のエース格として台頭してきたのが八朔である(図5-12)。原産地因島に隣接する地理的条件もさることながら、その普及率は極めて盛んで気候・土壌とともに最適とされる上浦町の八朔は、表5-17の如く急増した。昭和五八年の栽培面積一五一haは、愛媛県の一三%、生産量三六一〇トンは一九・七%で愛媛八朔のトップ産地を形成した。

図5-12 愛媛県の八朔の市町村別栽培面積の分布

図5-12 愛媛県の八朔の市町村別栽培面積の分布


表5-17 上浦町の八朔栽培面積と収穫量

表5-17 上浦町の八朔栽培面積と収穫量