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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

第一節 概説

 自然

 瀬戸内海の中央部に位置する島々は芸予諸島(芸予叢島)とよばれ、広島・愛媛両県にまたがる。愛媛県に属する島々はすべて越智郡に属し、地域的には越智諸島と上島諸島に分けられる。このうち越智諸島は県内最大の大三島をはじめ、大島・伯方島・岡村島などから成り、大三島町・上浦町・伯方町・宮窪町・吉海町・関前村の五町一村がある。これに対し上島諸島は、弓削町・岩城村・生名村・魚島村の一町三村から成る。
 芸予諸島は瀬戸内海という沈降帯に位置し、高縄半島から広島県の沼隈半島にのびる北東-南西方向の地塁山地の様相を示している。大三島の最高所は鷲ケ島山(四三六・八m)で、大島では念仏山(三二八・一m)、伯方島では宝股山(三〇四・二m)である。標高一〇〇m以上の山地は概して高度の割に急峻で、高位急斜面を形成している。それより下位は山麓の緩斜面と標高約五m以下の沖積平野面に分けられる。
 高位急斜面は硬い岩石が削り残されてできたドーム状の地形で、大三島によく発達している。大島・伯方島には硬岩層の分布がみられず、高位急斜面と中位緩斜面との区別は不明瞭である。山地の主な植生は松林であるが、一般に下草が少なく裸地が目立つ。この裸地は悪地とよばれ瀬戸内海の島しょ部に広く分布する。
 山麓には七度~一五度の勾配をもつ緩斜面があり、主に柑橘園に利用されている。花崗岩質の土壌は真砂土とよばれ、腐植はすくないが果樹栽培に適している。しかし土壌層の厚さにむらがあり、保水性に乏しいので旱ばつの被害をうけやすい。
 標高五m以下の低地は湾頭などに発達した沖積低地で、中小河川が搬出する土砂が堆積した地形である。また臨海の低地は江戸時代から干拓・埋め立てにより拡大し、水田や塩田として利用されてきた。花崗岩質の表土は雨水の侵食に弱く表土の流出が著しい。そのためほとんどの河川が天井川化しており、大三島の宮浦本川や井口本川では道路が河床トンネルになっている。
 越智諸島の気候は典型的な瀬戸内式気候で、降水量は一二〇〇mm内外であるが、少ない年は九〇〇mmを割ることもある(昭和一一年に津倉で七八一mmを記録)。海洋性のため冬でも零度C以下に下がることは少なく霜害も稀である。風は冬季の北西の季節風が顕著で、柑橘園には防風林が施されている。冬の季節風は梅雨期の海霧とともに海上交通に支障をおよぼすこともある。また台風が瀬戸内海の西側を通過する場合は東風が強くなる。夏は陸風・海風が発達し、朝夕には無風状態の凪が生じる。


 歴史と産業

 越智諸島の歴史は古く、縄文・弥生時代の遺跡や古墳の分布がみられ、大三島では後期旧石器も発見されている。特に弥生時代中期後半の高地性集落の遺跡が多く、その分布は越智諸島・上島諸島に広く及んでいる。
 源平時代から戦国時代末期にかけての瀬戸内海では村上水軍が活躍し、南北朝以降は能島・因島・来島を本拠地とした。これを村上三島水軍といい、島々に多数の支城を設けて帆別銭・櫓別銭などの通行料を徴収した。こうした水軍の勢力は天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の四国征伐により平定された。藩政期には越智諸島のうち大島・伯方島が今治藩領で、大三島・岡村島・大下島・小大下島は松山藩領となり、それぞれの島方代官所に属した。
 大島の西岸は遠浅の津倉湾で、元禄一〇年(一六九七)に幸新田が開かれ、水田に乏しい島しょ部では貴重な穀倉地帯となっている。また津倉塩田は元禄一三年(一七〇〇)の前堀塩田に始まり、さらに後堀塩田・向堀塩田が成立して今治藩の重要な財源となった。また江戸時代中期以降は綿業や漁業も発達し、特に大島の宮窪では網漁業、椋名では一本釣り漁業が発達した。
 近世の伯方島には木浦・有津・伊方・叶浦・北浦の五か村が成立し、島の中心となった木浦港は風待ち、潮待ち港として知られた。また文政二年(一八一九)に瀬戸浜で塩田が造成され、さらに古江浜・北浦にも開かれた。この三浜の塩田面積は八二町歩に達し、最盛期には浜子が五〇〇人以上に及んだ。
 大三島では一三の小村が成立し、大山祇神社のある宮浦村では松山藩の商業保護政策により三島市とよばれる市や富興業が許され、門前町として発展した。関前村は松山藩主の命で移住が始められたが、貞亨年間(一六八四~一六八八)以前はまだ無人島に近い状態であった。中心の岡村島は斎灘の海上交通の要地で、沖乗り帆船航路にあたるため観音崎には元文五年(一七四〇)に灯台が築かれた。
 明治四年(一八七一)四月には松山藩・今治藩を廃して松山県・今治県とし、同年一一月に合併して松山県となった。これにより二藩に分かれていた越智諸島は上島諸島と共に越智郡にまとめられた。明治二二年(一八八九)の町村制施行により大島には亀山・津倉・大山・宮窪の四村、伯方島には東伯方・西伯方の二村、大三島には岡山・宮浦・鏡・盛口・瀬戸崎の五村が成立した。また岡村と大下村が合併して関前村となった。
 越智諸島の農業は水田に恵まれず麦とさつまいも(甘藷)が中心であったが、大正時代に黄色種葉たばこと除虫菊の栽培が始まり換金作物として普及した。岡村では明治時代中期から広島県大長村民によるみかんの渡り作に刺激されて柑橘栽培熱が高まり、大正期にはみかんの島としての地位を築いた。
 伯方島は塩田と機帆船の町として発展し、昭和三七年頃までは石炭輸送を中心に約四〇〇隻の機帆船が活躍した。また昭和三三年には伯方造船㈱が創立され造船業が活況を呈した。越智諸島の塩田は四六年の塩業近代化と前後して消滅したが、木浦の伯方塩業会社ではメキシコなどから輸入した海塩を精製している。宮窪町は石材業が盛んで良質の大島石として出荷される。また宮窪杜氏は、西宇和郡の伊方杜氏と共に県内の代表的な杜氏として知られる。
 越智諸島と今治市や広島県の都市を結ぶ交通の中心はフェリーで、高速艇や水中翼船も就航し、一部には渡海船ものこっている。瀬戸内海大橋は五四年に大三島橋、五八年に因島大橋が開通し、さらに伯方・大島大橋が五六年に着工して六二年度には完成する予定である。架橋と関連して島内の道路整備も進んでおり、善根宿の風習を残す大島の島四国や大山祇神社に加え、大三島橋は新しい観光資源となっている。