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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 菊間瓦

 菊間瓦に関する資料と研究

 菊間瓦については、既に三〇点ほどの文献がある。ここに主なるものを紹介する。

(1)四国管内税務署(一九〇九年)調査の「菊間瓦」は一三五~一三九頁 (2)『愛媛県誌稿』下巻(一九一七)の菊間瓦は一〇四〇~一〇四三頁 (3)景浦稚桃著(一九二四)の『伊予史精義』は七四五頁一頁にまとめている。
(4)安藤音三郎著(一九一六)『愛媛県勢誌』には、愛媛県の瓦の製造戸数、職工男女、数量、価額の明治三七年より大正三年の累年統計と、郡市別統計が載っている。
(5)村上節太郎は県立今治高女の校友会誌『学友』三三号に(一八八~一九三頁)、「菊間瓦に関する地理学的考察」のテーマで、一九三六年三月に小論を発表している。昭和八年当時(一九三三)の愛媛県の郡市別、越智郡の町村別統計、明治元年以来の累年統計、安永二年(一七七三)から昭和四年に至る間の主なる販売先とその数量。発達の地理的条件の原料・燃料・労力・歴史的要因について述べている。
(6)須之内光吉は愛媛師範の六〇周年記念『郷土地理論文集』(一九三六年四月)に、「菊間町に於ける製瓦業」(七六~八五頁)の小論を発表している。主として昭和九年の統計で論じている。
(7)昭和五四年四月発行の『菊間町誌』の製瓦業(七八九~八三三頁)の抜刷、『菊間瓦史』菊間瓦工業協同組合・菊間瓦協議会・菊間瓦窯業有限会社・菊間粘土瓦産業有限会社発行の小冊子によれば、明治三八年(一九〇五)に『菊間瓦沿革概況』と題して、浜田松蔵・大野岩造・大野友次郎・吉井儀平・松本良吉・小泉久三郎・寺尾寅蔵・在間品吉・水田定次の九名とともに伊予製瓦組合菊間事務所の越智直視が誌している。以上が戦前の菊間瓦に関する主要資料とされている。

 戦後の論文資料には次のようなものがある。

(8)『愛媛経済総覧』(一九四七)に菊間瓦(二〇五~二一二頁)について、菅野義・樋口光久の執筆がある。
(9)森野敏治が一九五〇年に、『菊間製瓦誌』を執筆した七三頁の集録が、菊間製瓦組合に保存されている。
(10)愛媛労働基準局給与課が、一九五三年一一月に、『菊間粘土瓦製造事業の実態』B5判八三頁を出している。
①緒論は調査の目的・方法・範囲 ②総説は瓦の種類・瓦の規格・菊間町の素描・菊間瓦の特徴 ③生産 ④労働⑤経営 ⑥組合などの目次がある。もちろん経営では価格の推移・原価計算・金融関係などを、組合では業者団体・労働者団体・組合の性格・作業内容・労働契約・賃金引き上げをめぐる争議の経緯などを取り扱っている。
(11)一九五六年に菊間小学校社会科研究グループが、『郷土のありさま』という当時としては実に立派な、B5判三七七頁の印刷物を出版している。その中に小池正行の「瓦工業の発達」(一三五~一六八頁)の力作がある。
①菊間町に於ける瓦の占める位置 ②菊間瓦の立地条件 ③瓦工業の起こり ④明治以後の発展 ⑤瓦工業の実態 ⑥労働賃金 ⑦同業者合 ⑧製造方法の変遷 の項目で、貴重な資料を誌しており、菊間瓦に関する第一の文献である。
(12)愛媛大学教育学部地理学研究会が、一九五八年巡検記録として、『短報菊間瓦の研究』B5判三三頁の報告書がある。当時の学生の共同研究として立派な業績である。
(13)『愛媛県史概説』上巻(一九五九)に、村上節太郎が菊間瓦について、四一七~四一九頁にまとめている。
(14)愛媛県商工観光課が一九五九年に、『菊間瓦産地診断報告書秘』B5判六五頁を出している。
(15)青野春水は一九六六年に、『新居浜高専紀要』の第二巻に、B5判二七頁の「瓦株仲間における生産と流通-松山藩の場合-」の立派な学術論文を発表している。目次は、まえがき・①藩の商工政策 ②瓦株仲間の性格・支配組織・仲間規約 ③生産工程・労働者・経営者 ④流通・統制・市場・輸送 ⑤瓦生産と村落、むすび、より成る。菊間瓦に関する論文のうち、最も学術的で、注で資料を一〇一もあげており、力作である。
(16)村上昭男は一九六八年に、『伊予史談』明治百年記念号(二一五~二二三頁)に、「菊間瓦略年表」を発表している。
(17)愛媛県中小企業団体中央会・菊間瓦工業協同組合が、一九七八年に、「昭和五二年組合等直面問題調査研究資料・流通ツステム化問題」として「菊間瓦・北条瓦-その現状と地域主義への対応-』B5判一三二頁を出している。執筆者は松山商大の井上幸一と辻悟一、窯業試験場長の但馬明の三人である。目次は、①粘土瓦製造の概況 ②菊間瓦の歴史 ③調査企業の概況 ④菊間瓦・北条瓦の経営概況 ⑤生産 ⑥販売購買・物的流通 ⑦労務 ⑧提言より成る。
(18)「菊間町誌」(一九七九)の第五章産業史の第三節に、製瓦業(七八九~八三三頁)として立派な記事がある。この分だけ抜刷にして、『菊間瓦史』と題し、菊間瓦工業協同組合など四団体から出版して便利である。内容も資料を明記して、非常に良心的な学術的な町誌である。
(19)菊間町窯業協同組合から一九八三年に、「地域産業活路開拓促進事業」、昭和五七年度の報告書として、「菊間瓦』-産地基盤の強化と販路開拓-B5判一二一頁の印刷物が出ている。目次は①菊間瓦業界を取り巻く経済環境②生産と技術の現状と問題点 ③菊間瓦の販売-問題点と課題 ④設備近代化計画と製造原価分析 ⑤菊間瓦への提言 より成る。執筆者は愛大の吉田亮三・松山商大の中山勝己・窯業試験場長の但馬明・高砂工業の鈴木猛などで、全国的立場から論じている。一九八〇年の生産は愛媛が兵庫・愛知・埼玉に次いで第四位である。
(20)岩橋勝が愛媛の生活文化の立場から「菊間瓦」を『文化愛媛』一三号(一九八六)に三二~三九頁にまとめている。


 製瓦者の分布と特色

 図(4-6)は菊間瓦の製造業者の分布図の中心部分である。遍照院より西は西海岸と称し、古く藩政時代に開け、瓦株二七軒の立地した所である。遍照院から北の浜の海岸は新しく、明治維新後に創業した業者の地域である。
 表4-14は明治元年以後、最近までの業者と生産額の累年統計である。昭和五〇年と五一年で、二四軒も差のあるのは、昭和五〇年までは旧菊間町の統計であり、五一年からは旧亀岡村分を合併した大菊間町の統計である。すなわち葉山・種・佐方・高城などが旧亀岡分である。
 表4-15は菊間瓦(粘土瓦)の製造業者の名簿である。六七軒のうち、旧式なダルマ窯がまだ一〇軒ある。もっとも①の吉井昭二や④の光野公平は鬼師(鬼瓦専門)で、道具ものをつくり、大量生産ではない。
 創業年をみると、明治以前すなわち江戸時代が、一〇軒であり、明治時代が二七軒、大正時代が二〇軒、昭和戦前が四軒、昭和戦後が七軒である。この表は筆者が組合に依頼して調査し作成してもらった資料である。


 菊間瓦の発達要因

 ①気候 冬でも粘土平水が凍らず、温和な気候の菊間地方は、年中作業ができる。その点、奥羽地方や上浮穴郡などは不利である。
 ②地形 菊間は波静かな瀬戸内海の海岸港で、水陸の便がよく、原料製品の置き場も良い。③原料 今は讃岐土(丸亀土)、地元の五味土、大和建設の大和土を使用している。讃岐土は大正年間から入れるようになった。これをどのくらい、入れるかで品質に差がつく。当初は地元の粘土を使用したが、払底したので、広島県の吉名土・大崎島土、越智郡波方の馬刀潟、大三島の野々江、松山の久米土を使ったこともある。
 ④燃料 松葉大束は今でも仕上げに少し使用する。製材所の屑材、営林署の残材、石炭を使った時代もあるが、今は重油か、大部分はプロパンガスである。瀬戸内海の禿山は、瓦や塩たきの燃料に使ったためもある。
 ⑤販路需要 昔は兵舎や紡績工場建設などで大量注文があった。瓦船で遠方へも送った。明治一七年(一八八四)に皇居御用瓦を納めたことは、「沿革と販路」の項で詳述する。大阪へは昭和四〇年まで出した。今は公共ビルは粘土瓦は用いず、需用は専ら高級民家である。室戸台風で民家の屋根瓦が吹き飛んだので、注文が多く菊間瓦は当時不況を脱することができた。
 ⑥輸送 瓦船は昭和四八年まで動いた。昭和三八年からトラック輸送が始まった。国鉄菊間駅の貨物扱いは昭和四六年一一月までであった。戦前は鉄道よりも船を主に使った。粟井や久米からの粘土は馬車で運んだ。讃岐土を運ぶ帰り荷に、丸亀円扇用の伊予竹を積んだ時代もある。
 ⑦労力 低賃金で専業である。地元の労働力でもっている。大正九年・同一五年・昭和九年・同一一年、戦後二五年と二八年にストライキをしたこともある。⑧技術の伝統と集団性 菊間瓦は良質で一枚一枚磨く手工業で、機械化・近代化は淡路や碧南市に比して遅れている。ダルマ窯からガス窯化も遅れ、生産費は他産地に比して高い。菊間は量よりも質を重んじ、良質を特色としている。
 ⑨政策補助 江戸時代には二七株に制限し、粗製濫造を防ぎ良質を保った。県や町も保護奨励し、昭和四七年から原料は組合で共同購入し、製品販売は自由である。県は昭和五五年から、菊間瓦を「愛媛県伝統的特産品」に指定し、毎年、瓦の「伝統工芸士」を表彰し、松山のデパートや大街道で一一月に「県産品まつり」を指導している。
 ⑩今後の対策 他産地に比して、共同化・協業化・合理化・機械化・生産費低下がおくれている。品質をおとさず、近代化すること。「世界の瓦を菊間で見よ」のテーマの如く「瓦博物館」をつくり宣伝することが肝要である。皇居御用瓦の見本や史料を展示し、活性化をはかるべきである。今治~松山間に位し、交通が便利なので、車のパーク場のある瓦博物館を建設し、観光と販売に力を入れ、砥部焼を参考にするとよいと思う。


 菊間瓦の沿革と販路

 菊間瓦の研究資料は多いので、これをまとめるため、表4-16の如き年表を作成した。
 少し冗長の感があるが、例えば加藤嘉明の瓦納入の古文書など、所有者束本米子など具体的に記載した。資料として価値があると思ったからである。

図4-6 菊間町菊間の製瓦業者の分布図(昭和61年村上作成)

図4-6 菊間町菊間の製瓦業者の分布図(昭和61年村上作成)


表4-14 菊間町菊間瓦の業者・生産額の累年統計

表4-14 菊間町菊間瓦の業者・生産額の累年統計


表4-15 菊間瓦製造業者名簿(1)(1985年6月現在)

表4-15 菊間瓦製造業者名簿(1)(1985年6月現在)


表4-15 菊間瓦製造業者名簿(2)(1985年6月現在)

表4-15 菊間瓦製造業者名簿(2)(1985年6月現在)


表4-16 菊間瓦の沿革と販路(1)

表4-16 菊間瓦の沿革と販路(1)


表4-16 菊間瓦の沿革と販路(2)

表4-16 菊間瓦の沿革と販路(2)


表4-16 菊間瓦の沿革と販路(3)

表4-16 菊間瓦の沿革と販路(3)


表4-16 菊間瓦の沿革と販路(4)

表4-16 菊間瓦の沿革と販路(4)