データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

七 蒼社川その他の水資源開発

 蒼社川
     
 今治・越智地方で最大の河川である蒼社川は高縄山系白潰山(標高一一五九m)付近に源を発して、途中、玉川町長谷で鈍川発電所のある木地川と合流して今治市を貫流して瀬戸内海に注いでいる。昔、この川の沿岸に総社があったので総社川とも書いた。流域面積は一〇二・七平方㎞で、一三の支流を合わせた流路延長は五四・七kmの二級河川である。蒼社川の流域は花崗岩が地下深くまで風化してまさ土となっていて、平野部の山手橋付近に出ると、一部、天井川となり、表流水はほとんどなく、伏流水や地下水となっている。下流にひらけた県下第三の都市今治市は、人口の増加と急速な工業の発展にともない、表流水だけでは足りず、地下水のくみ上げによって水不足を補ってきた。しかし、地下水の量も限界に達し、県では洪水の防止や農業用水、都市用水(上水道・工業用水)などの確保を目的とした蒼社川総合開発事業をおこし、玉川ダムを築造した。


 玉川ダムとその利用

 玉川ダムは、治水(洪水調節)、農業用水(不特定かんがい)、上水道用水・工業用水の確保などの目的をもった多目的ダムとして、愛媛県が昭和三九年に調査をはじめ、四三年に本体工事に着手し、四六年三月に完成した。
 第一の目的は洪水の防止である。蒼社川は、延宝元年(一六七三)から明治二六年(一八九三)に至る二二〇年間に一四回におよぶ堤防の決壊があり大災害を起こした。このため歴代の藩主は、この川の治水に力を注ぎ、宝暦年間(一七五一~六三)には一三年の歳月と莫大な費用を投じて、現堤防を完成したが、その後明治二六年(一八九三)一〇月、死者、行方不明一〇名、家屋流失倒壊二二八戸、同破損二一五戸、田畑の流失一〇〇〇ha、堤防決壊一四か所という大惨事が起きた。近年においても、たびたび洪水の被害を受けている。このため蒼社川上流の野山には、土砂流出防止の抜本的な対策として越智郡旦局村外一三か町村が組合を結成して計画的な植林を実施してきた。なお、蒼社川は中山川の支流関屋川と共に、本県砂防事業の発祥の河川で、明治三九年(一九〇六)玉川町地内へ谷止工・山腹工を施工したのを始め、その後砂防施設を数多く築造した。しかし、全体的な河川改修は実施されてなく、災害復旧工事で一時しのぎしている状況で、抜本的な治水対策の樹立が強く要請されていた。この治水対策としてダムによって二〇〇m3/秒の洪水量を調節し、洪水の根絶によって流域住民の福祉を図るものである。  
 第二の目的は農業用水(不特定かんがい)の確保である。蒼社川沿岸にはこの川によりかんがいされている水田が一三〇〇ha(今治市一〇九三ha、玉川町二〇七ha)あるが、昭和九年の大干ばつを始めとし、年々の用水不足を溜池の開発および地下水のくみあげなどで補ってきた。しかし、近年の河床低下により地下水の貯溜源が喪失したこと、さらにみかん畑の急増によるかん水量の増加などで農業用水の安定的確保が困難となってきた。そこで、ダム建設により一八〇万トンの水を確保し(かんがい日数一一七日)、水田やみかん園の経営の安定を図るものである。
 第三の目的は都市用水(上水道用水・工業用水)の確保である。今治市は、東予新産業都市圏の西の玄関にあたり、タオル製造業を中心とする繊維工業や造船業、それらの関連産業の発展に伴い、工業用水の需要は年々高まる一方である。また、人口の増加や生活様式の近代化によって生活用水の需要も急激に増加した。そこで、蒼社川筋の玉川町大字三反地地内の都市用水取水堰(玉川取水堰)から取水して、今治市小泉の市民の森(標高五三m)の今治浄水場まで約六㎞を内径一二〇mの導水管で導き、ここより工業用水日量六万立方mと上水道用水日量四万立方mを供給し、今治市民の生活を支えている。
 この玉川ダムの位置は、玉川町大字鍛治屋で、陣が森・北三方が森・伊之子山・白潰山・東三方が森・楢原山・丸山などを連ねた分水嶺に囲まれた蒼社川本流が支流木地川と合流する手前のもっとも川幅の狭くなったところで、母岩の花崗閃緑岩が露出している部分である。この位置(基礎岩盤)は標高一〇四mで、それに高さ五六mのダムが造られているから堤頂標高は一六〇mである。ダムは直線越流型重力式コンクリートダムで(写真3-9)、ダム諸元は表3-18に示したごとくである。
 このダムの建設によって、竜岡小学校(八一年の校史を閉じる)・竜岡農協・竜岡保育所・玉川町公営住宅・天神社・玉川町避病舎・玉川町診療所・玉川町役場竜岡支所・墓地など一八の公共施設や一般家屋(住家七八戸、非住家一二三棟)、土地(田畑約四〇ha、山林約三〇ha)、道路(旧主要地方道松山今治線三六三〇m外)などが湖底に沈んだ。水没した公共施設や道路のうち農協・公民館・保育所・町営住宅・天神社などは上部へ移転したが、住民の多くは町内の鴨部団地や今治市内の桜井団地へ移転し、ダム上流地域の過疎化に拍車をかけた。


  鈍川発電所

 我が国に初めて電気が点灯されたのは、明治一一年(一八七八)東京市京橋区であった。愛媛県においては、伊予水力電気株式会社の設立した湯山水力発電所が、明治三六年(一九〇三)、出力二六〇kwをもって松山地方に送電を開始したことに始まる。今治・越智地方の電気については、その発生の地は玉川町大字長谷で、明治四〇年(一九〇七)一二月に出力一八〇kwで発電を開始した長谷発電所がその起源である。この長谷発電所は、明治三八年(一九〇五)頃、今治市出身の京都電灯会社技師長広川友吉が帰省した際、電気会社設立を奨めたのに始まる。その発企者は阿部光之助・八木春樹・桧垣大三郎ら一二名であった。この時設立されたのが今治電気㈱で、資本金五・五万円で明治三九年(一九〇六)九月であった。その後、今治電気会社は明治四四年(一九一一)に西条水力電気会社と合併して愛媛水力電気㈱(阿部光之助社長)を設立した。この愛媛水力電気は大正七、八年頃には発電量が不足し、大正九年(一九二〇)に鈍川発電所を蒼社川水系木地川に開設し、発電機二台で出力八〇〇kwをもって送電を開始した。これにより長谷発電所は廃止され、大正一一年には愛媛水力電気は伊予鉄道電気㈱に合併され、中予の山間地域の水力電気が東予方面に送電されるようになった。
 設置当時、愛媛水力電気の主力をなした鈍川発電所は、取水口を玉川町木地とし、一五〇〇mの水路やトンネルで水槽に水をため、水槽から五〇〇mの水圧管が伸び、有効落差一三八mを得ている。昭和二九年からは発電機を一台とし、同五二年からは無人化して今治変電所から遠隔制御を始めた。さらに五五年からは松山系統制御所から遠方制御している。


 朝倉ダム

 今治地方第二の河川である頓田川は七つの河川をあつめ、朝倉村を南から北へ貫流し、今治市南部を東流して織田ケ浜と唐子浜の境で燧灘へ注いでいる。その流路延長二五・四七㎞、流域面積三九・一平方㎞である。この頓田川上流の黒谷川に建設された朝倉ダムは、一般県営かんがい排水事業の一環として建設され、現在建設中の総延長二八・四㎞のパイプライン、開水路と相まって、朝倉村や今治市南部の頓田川沿岸の田畑、樹園地に農業用水を供給するものである。ダムは黒谷川の谷をせき止め造られたもので、堤高四七m、堤長二五三m、有効貯水量一三〇万立方m、総貯水量一四〇万立方mの中心コア型フィルダムで、昭和四七年四月から工事を始め、五六年五月に完成した。同ダムからは、中央部・北部・南部の三幹線水路と四本の支線水路(延長二八・四㎞)が六〇年度末までに建設され、頓田川流域の水田五八三ha、輪換畑一〇三ha、樹園地三三〇haの田畑をうるおす予定である。水稲・きゅうり・葉たばこ・みかんを中心に今治市の近郊農業に生きる朝倉村の水ガメの完成は、進行中の圃場整備事業(六〇〇ha)と共に将来への期待が大である。


 歌仙ダム

 今治・越智地方では蒼社川・頓田川につぐ河川である菊間川は、流路延長一〇・八五㎞、流域面積二四・二平方㎞の河川である。この菊間川の支流霧合川の上流に、昭和三七年に菊間町によって企画され、県営畑地かんがいダムとして四四年~四九年にかけて築堤されたのが歌仙ダムである。中心コア型フィルダムで堤高四二m、堤長一二〇m、満水面積三万四〇〇平方m、総貯水量三六万トンである。ダムから水をひくため幹線パイプを六㎞にわたり地下に埋設し、さらに各樹園地へ縦横に延ベ一○四kmの支線水路を張り、五か所のポンプ、三一二四か所のスプリンクラーにより松尾・川上・池原地区などの柑橘園一九五haをかんがいするものである。しかし、五一年の台風一七号で幹支線パイプが寸断されたことや、農家のみかん経営形態が温州みかんから水のあまりいらないいよかんへ変わったこと、施設規模が大き過ぎて運用に小まわりがきかないこと、維持費が高くつくことなどで現在は十分活用されていないのは残念である。

表3-18 玉川ダム藷元

表3-18 玉川ダム藷元