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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

五 鈍川温泉

 奥道後・玉川県立自然公園

 松山市石手川流域を中心とし、北条市高縄山系及び玉川町楢原山付近一帯を含む地域は、昭和三七年三月九日愛媛県立自然公園に指定された。東西約二〇㎞に及び、その面積は約七七五〇haである。
 奥道後・玉川県立自然公園の一画にあたり、今治市の南西約一一㎞、道後温泉から東北約二〇㎞、今治からバスで約三〇分の谷間、今治市に注ぐ蒼社川玉川渓谷沿いの高台に鈍川温泉郷が展開する。周囲を緑の山に囲まれて、わずかに開けた山間いっぱいに温泉旅館があり、大衆娯楽場、国民宿舎がある。
 渓流を流れる清流には、あめのうお・ますなども泳ぎ、峡谷を埋める緑は秋には紅葉となる。近くには鈍川渓谷、国宝館がある。春は桜と山菜料理、夏はかじかの声する清流、秋は錦おりなす紅葉の渓谷、冬はいのぶた料理に舌鼓をうつ四季おりおりの観光客が多い。
      

 温泉開発

 鈍川温泉のある玉川町楠窪は遠い昔から温泉が湧出し、湯野谷とよばれていたそうであるが、藩政時代には石垣があり、里人が湯桶を馬の背に積んで持ち帰り、病気に効くといって沸かしていた。明治四年(一八七一)旧藩主が山渓を開拓し、浴場開発に着手したのが契機となり、大正一〇年(一九二一)には鈍川村の有志越智重太郎・越智直三郎・正岡太八・小林豊三郎の諸氏が発起となって、地方文化の開発と村経済の支援を目的に鈍川温泉の開発に取り組んだ。村内一戸一株以上の加入で一株二〇円、約六五〇株資本金一万三〇〇〇円の会社組織で、大正一四年(一九二五)九月一八日に温泉場の落成式を挙行し、鈍川温泉組合(組合長越智重太郎)経営の鈍川温泉が発足した。
 開業当初は会社直営で役員が交互に出向いて執務していたが、後に今治の業者に入札で年限を切り経営させた。
鈍川温泉本館のほかに旅館・店屋など四、五軒が営業して、一時はかなり繁昌したが、第二次大戦により寂れた。
 昭和二七年四月には瀬戸内海運輸㈱と瀬戸内海汽船㈱が株を買収して観光ホテルをつくり、鈍川温泉観光㈱を設立して本格的な開発が行われ、渓谷の一部を利用した遊園地や浴場などが建設された。
 国鉄周遊地の指定を受け、道路の改修整備が行われ、一日二六往復のバス便ができ、内湯つきの近代的な旅館が次々と建設、営業するようになった。
 昭和三四年遊園地内に三か所、三七年下木地に一か所のボーリングが行われた。基盤は花崗岩で、泉質はアルカリ性単純泉でフッ素イオンとラドンを含んでいる。約二〇度の冷鉱泉が湧出する。

       
 温泉旅館街
       
 温泉旅館街は左岸の道路沿いに形成されている。国民宿舎玉川荘、六軒の旅館とその別館、料理屋、みやげもの店が並び、ますの釣り堀もある。旅館街の上流には国宝館、鈍川渓谷があり、静かな散策の場である(図2―71)。
 温泉センターは昭和三五年に一号館を四〇〇〇万円で建てたが、行楽シーズンには一日一〇〇〇人以上も殺到したので収容できなくなり、昭和三七年四月に二号館を四〇〇〇万円で増築した。他の旅館もカドヤ別荘の二九の状況が形成されたようである。なお、国民宿舎玉川荘の建設は昭和三六年一〇月である。
 温泉センター、鈍川温泉ホテル、別館美賀登は遊園地内にボーリングした温泉センターの湧泉を使用するが、他の旅館や寮、料理店は、上流二㎞に町が行ったボーリングによる鉱泉を使用している。
 昭和五三年から五九年にかけての観光客の動向をみると、年間一〇万人から一一万人の入り込みがあって、そのうちのほぼ四分の一が宿泊客である。うちホテル・旅館の利用者はほぼ二万一〇〇〇人前後で、五〇〇〇人余りが国民宿舎を利用している。
 近くに玉川ダムがあり湖岸の散策も楽しい。また、桜やつつじで美しい玉川渓谷に沿って南へ行くと、昭和一六年一二月一三日に国の名勝に指定された、かつての桜の名所千疋峠を経て楢原山がある。
 鈍川温泉にある国宝収蔵館は昭和四二年九月に完成したもので、昭和九年に楢原山頂で出土した品々が収蔵されている。昭和四五年六月二四日に「伊予国奈良原山経塚出土品一括」が東京国立博物館より、銅宝塔一基が九月に奈良国立博物館より返却されたものである。

図2-71 鈍川温泉のホテル・旅館街(有馬原図)

図2-71 鈍川温泉のホテル・旅館街(有馬原図)