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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 鉄道

 四国最初の官設鉄道

 四国の国有鉄道は、明治三九年(一九〇六)山陽鉄道が買収になって、高松・琴平間を営業したのが最初であるが、その後、四五年に鉄道院多度津建設事務所が多度津におかれ、逐次西に延長していった。この多度津以西は、すでに明治二五年(一八九二)公布の鉄道建設法で、四国予定線の一つ「香川県下多度津ヨリ愛媛県下今治ヲ経テ松山二至ル鉄道」として決定されていたものである。なお、この路線は、明治三〇年に四国鉄道が私設免許をうけたものであった。四国鉄道は、明治二八年に三重県一志郡の小河義郎ほか三五名の発起で、讃岐鉄道の多度津と伊予鉄道の松山を連絡するため、松山から堀江・今治・小松・西条・川之江・観音寺を経て多度津に至る延長約一五三㎞の鉄道を、資本金三五〇万円で敷設せんと請願したものである。翌二九年に仮免許があり、会社を松山市において、翌三〇年に免許状を申請し、下付せられた。しかし、金融ひっぱくのため株金の払込みができず、明治三一年に会社は解散した。同鉄道の解散後は私設免許をうけたものはなかった。
 明治四四年衆議院において、多度津・松山間の鉄道敷設に関する建議案が可決され、翌四五年法律第二号で、多度津・川之江間か第一期線に加えられ、大正元年(一九一二)度から五年度に至る五か年継続事業(予算二二〇万円)で着工される運びとなった。建設上、多度津線として大正元年に、ます多度津・観音寺間を起工し、翌二年これを開通させ、ついで五年四月観音寺・川之江間を開業した。これが愛媛県はもとより四国ではじめての官設鉄道であった。


 国鉄敷設の遅れた理由

 県下に伊予鉄道・松山電気軌道・別子銅山鉄道・宇和島鉄道・愛媛鉄道と私鉄の営業が相次ぎ、しかもそれらが好成績をおさめる中で、県内への国有鉄道の敷設は大幅に遅れた。国鉄の敷設がすすまなかった理由としては、次のような点が考えられる。まず第一に、県内の地形は複雑で山地が約四分の三を占めている。このような山がちの地形は鉄道敷設工事に際して多大の困難を伴うこととなった。第二に、全国でも四番目に長い海岸線を持つ本県の沿岸地方では、明治時代から比較的よく海運が発達していたことである。こうした地形的な条件から人々の生活舞台は、海岸の狭小な平野や山間の小盆地に孤立しがちであったが、不自由な相互の交通・連絡のためには海上交通が早くから利用されていた。第三には、明治から大正期の国家体制の中で、四国は国土防衛の見地よりみて、さほど重要地域と考えられていなかったことである。鉄道が軍事上きわめて重要視されていた当時にあって、このことも県下への鉄道敷設をおくらせる要因の一つであった。第四には、鉄道の敷設に当たっては沿線の市町村の間で、つねに経由路線の争奪がなされ、これに政党の利害がからみ、政変によって政党内閣の更迭があると、既定の計画さえくつがえされる状態にあり、線路敷設も非常に遅延したことによる。


 愛媛の国有鉄道

 大正五年(一九一六)四月にはじめて愛媛県に敷設された国鉄は順次西進していった。川之江・伊予西条間は、建設上西条線と称したもので、大正四年第一期線に加えられ、翌五年、まず川之江・伊予三島間を起工し、翌六年九月これを開通、さらに八年九月伊予三島・伊予土居間、一〇年六月伊予土居・伊予西条間か開通した。ついで、伊予西条・松山間か、建設上松山線として大正七年に鉄道敷設法中の第一期線に編入され、翌八年伊予西条・壬生川間の実測に着手、翌九年より着工した。この年、建設事務所は多度津から岡山に移転され、以来岡山建設事務所の所管で工事が着々と進められ、今治までが大正一三年二月、北条までが一五年三月、松山まで全通したのは昭和二年四月三日であった(表2―73)。
 この高松・松山間の北四国海岸線の全通を記念して、沿線各地では多彩な祝賀行事が行われ、松山では全国産業大博覧会が開催された。なお、この間に従来の讃岐線は大正一二年に讃予線と改称されたが、昭和五年四月には予讃線と改められた。以後も予讃線は西に延長されてゆき、昭和一〇年、愛媛鉄道を買収改良した部分も加えて大洲に到達した。八幡浜へは昭和一四年に到達し、卯之町・八幡浜間の開通は戦時下の二〇年六月であった。なお、これより先の十六年に宇和島・卯之町間が開通し、宇和島鉄道の買収線(宇和島・吉野生)と合わせて宇和島線と称した。大正五年に県の東端川之江に列車が入ってから約三〇年の歳月を要してようやく宇和島まで到達したことになる。


 波止浜迂回と菊間の繁栄

 大正一三年二月に伊予桜井から今治まで開通した讃予線は、同年一二月には大井(昭和三〇年大西町の発足により大西駅と改称。)まで延び、翌一四年六月には菊間に達し、伊予北条へは大正一五年三月に到達している。普通ならば今治から大井へ直通するのが常識であるが、当時の波止浜は塩田による財をなす者が多く、大正二年には四国鉄道速成同盟を組織して四国鉄道㈱を創立し、予讃鉄道私設認可の指令を得て、測量に着手した。第一期工事として松山・多度津間の測定を終了し、株式の募集を行い着々と準備を整えていた。ところが大正三年六月、第一次世界大戦が勃発し、せっかくの計画はやむなく中止の憂き目をみることとなった。この四国鉄道㈱の創設の中心をなしたのが波止浜の財界であり、それだけに政治力も強く、波止浜迂回となった。しかし、当時としては国鉄にも一つの条件があった。それは路線となる波方村の樋口と大井村の九王が同意協力するということであった。波方村は承認の条件として波止浜に対して駅の位置についての申し入れができるのに、何ら要望もせず波止浜財界の思い通りに駅の位置が決められた。つまり、当時の波止浜は、その生命ともいうべき塩田を横切らせたくなかった。そのため波止浜の中心地からも波方の中心地からも離れた所に波止浜駅は決定されたのである。結局は塩田の犠牲をさけたため波止浜駅はホーム自体にカーブがあり、見透しが悪く、加えて上り列車は発車直後に勾配にさしかかるという悪条件下となった。
 なお、波方村は、鉄道が走っていながら住民は大井駅か波止浜駅まで行かねばならない不便をこの後三三年間も続けた。波方駅は昭和二八年に松山・今治間にディーゼル車が運転され始めたのを機会に、今治商工会議所の後援を得て、昭和三五年に樋口に無人駅として設置されたのである。
 大正一四年(一九二五)六月、待望の鉄道が菊間に達した。その喜びを「一、日に進み行く文明の 恵を受けて鉄道は 菊間の里に及びたり げにことしげき人々の 通うも安し西東  二、菊間瓦の名も高く 津々浦々にきこゆれば 遠き近きの隔てなく もとめて来る人々に わかつもやすし汽車の便  三、歌仙の滝や霧合の滝古き名所あととめて 遙々といしそのかみの おちかたびとの汗のあと しのぶも涼し汽車の旅」(津田謄三作詞柚山忠祐作曲)とうたっている。
 讃予線の菊間駅開業により、菊間駅は駅と港湾が至近距離にあり、四国内の鉄道用燃料石炭の陸揚地に最適の地として貯炭場が設置された。貯炭場面積は一四〇〇平方mで貯炭能力三〇〇〇トンであった。九州宮尾炭を伊予石炭合資会社より現物購入し、後に松山機関区へ毎月一〇〇〇~一五〇〇トン、西条機関区へ毎月八〇〇トンを配給した。鉄道開通による町民の恩恵はひとり交通面だけでなく、従来、地場産業である菊間瓦の販売に海上輸送を担当した海運業者が、貯炭場の開設に伴い石炭輸送の大型船に転向し、海運業が一大飛躍したことである。貨物自動車もなかった当時、鉄道輸送による菊間瓦の販路の拡張もまた大きかった。その後、昭和一〇年、鉄道省は西四国に直営の中四国連絡航路を計画した。その航路として菊間~仁方が内定したという新聞報道に全町民は喜んだ。しかし、その後の松山・今治の誘致運動に破れたのと戦時体制突入により、この計画は延び、戦後二一年になって堀江~仁方航路として営業を開始した(昭和五七年廃止)。この時、航路開設後にそなえて旅館の営業許可を受けた家が多く、現在も町の規模や地理的位置の割には旅館が二〇軒(昭和五八年)と比較的多い。
 なお、菊間町内の鉄道路線延長は九一二六mであるが、けわしい地勢のため一〇のトンネルを掘っている。予讃本線には全部で五一のトンネルがあるが、そのうち約二〇%が菊間町にあることになる(表2―74)。


 今治駅鉄道高架計画

 昭和五八年度の予讃本線の営業係数は二七四であった。駅別の乗車人員のベスト10は、高松(一日平均一万四二〇二人)をトップに徳島・松山(六四〇二人)・高知・丸亀・坂出・今治・多度津・阿南・宇和島の順であった。旅客収入の十位までは高松(一日平均一八八八万円)・松山・高知・徳島・今治・新居浜・丸亀・宇和島・坂出・観音寺の順であった。今治・越智地方にあって本四連絡の拠点としてその重要性が高まっている今治駅は、昭和六四年度完成をめざして鉄道高架事業が具体的に動き始めた。この事業は、都市計画法に基づく「都市計画事業」で、今治市蔵敷町二丁目の蒼社川左岸を起点に、同市石井町一丁目の終点まで約二・六一㎞のうち約二・一二㎞の区間の鉄道路線を高架橋にするものである。事業規模は概算一一〇億円で、国庫補助六〇%、国鉄一〇%、今治市と県が一五%ずつ負担する「連続立体交差事業」である。一日に八六回も上下する列車によって通行を遮断される国道一九六号別宮踏切や、国道三一七号常盤町踏切をはじめ平面交差する八路線の踏切をなくし、一五か所程度を立体化する。
 高架によって「開かずの踏切」は「ブレーキ不要の道路」に変わり、分断されていた市街地は一体化が進み、踏切事故は解消される。こうした直接的効果以上に、今治市民が期待をかけているのは、駅周辺や沿線の環境が充実・整備されることである。すでに今治市では関連事業として駅裏の区画整理、駅前広場の再整備、高架下利用や国道一九六号の宮脇・片山線の四車線化、浅川改修との調整などの計画を検討している。

表2-73 愛媛県における国鉄(予讃本線)の伸展

表2-73 愛媛県における国鉄(予讃本線)の伸展


表2-74 菊間町のトンネル

表2-74 菊間町のトンネル