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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

七 新田集落、親村・子村

 今治地方の新田開発

 新田開発の全国的な傾向は戦国時代末期から寛文期(一六七〇年代)に至る間、領主や地方土豪が主導したもの(耕地面積が約三倍にも拡大した)と、享保七年(一七二二)以後の幕府財政たてなおしの為の諸政策の一環としての新田開発推進によって造成されたものとに二分される。
 今治地方においても同様で、慶長一四年(一六〇九)から開拓をはじめた孫兵衛作、寛永一七年(一六三四)に開拓を始めた忠兵衛作、今治城域に隣接する、今治村・蔵敷村・日吉村の新田や湿地帯の開拓で有名な大新田、鳥生の将監新田などが前者であり、後者は八町村の川原新田や喜田村の新田、元禄以後の東村の新田、蒼社川ぞいの別名村・高橋村・小泉村にわたる実入・川原新田その他多くの新田がある。
 今治地方は条里遺構がよく残されており、条里の及ばない場所が即新田と考えてもよい程で、主な新田地域をあげると次のようなものがある。
 一、氾濫をくりかえした蒼社川両岸でも特に左岸が典型的な川筋新田で、市内の上流部にあたる前記の実入・川原新田や、中下流の上・下河原・煙草畑・萩畑等多くの新田がある。
 二、浅川下流から北部の大新田村・石井村にかけての低湿で潮害も多かった地域で、特に大新田村は石井村から分村し、一村をなした新田村で、貞享元年(一六八四)には人ロ一二〇人で、九市郎新開・鞆屋新田・中新畑・窪新田・湊新田・大新田などの外三反畑・二反地などの小面積のものも多い。
 三、蒼社川下流右岸から鳥生低湿地地にかけても広く新田開発が行われ、現在の国道一九六号を境に条里と新田が明瞭に区分され、特に龍登川貯木場一帯は低湿地開拓新田が並んでおり最近まで四国一の蓮根生産地帯であった。弥右ヱ門新開・殿様新開・六兵衛新開・大新開・外新開・浜新開などの新田名がある。また頓田川尻に至る、喜田村・東村にも新田が多い。
 四、頓田川流域でも氾濫原を開拓した高市村の新田や、東村の向新田・平助新田などがある。右岸の国分村にも岸井新田や助兵衛新田がある。 五、桜井村には寛永一一年(一六三四)から一七年までに、約八町の干拓新田を開発した忠兵衛新田と、慶長一四年(一六〇九)から元和八年(一六二二)にかけて、長沢村領分の微高地部を開拓し新田村一村をたてた孫兵衛作村があり、土豪主導型の新田である(図2―50)。


 片山・小泉・別名の新田集落と親村・子村

 今治平野の西端に位置し、東西に連なる五〇m前後の丘陵の南麓に旧片山・小泉・別   名の各村がある。弥生時代の片山貝塚跡や古墳群があり、大山祇神社の社家、大祝氏の屋敷があったり、戦国土豪の城砦があったりして、古くから開けていた地域である。
 各村の親村はそれぞれ「本郷」と呼ばれ、戦国期の地方豪族を祖とするといわれる。別名村本郷の長野氏は越智郡桂村(玉川町)瀬尾山城主、長野越中守通秀であると系図にある。新田は蒼社川左岸の特に氾濫のはげしい場所に開拓されており、例えば実入新田では片山村分五反九畝、小泉村分四町三反四畝、別名分八町三反の絵図(享保四年)があるがそれぞれ砂入、川成と記載されている。特に享保七年(一七二二)の氾濫では三村共にそのほとんどを流失している。新田集落(子村)は親村のある山麓と蒼社川のほぼ中間にある県道河野―今治線にそって、それぞれ片山新田・小泉新田・別名新田と並んでおり、各親村から南へ約五〇〇mはなれた氾濫の及ばない場所へ同族分村している。親村の主たる姓は片山本郷は「玉井」、小泉本郷は「豊島」、別名本郷は「長野」で、子村にもそれぞれの姓が明瞭にみられる。片山新田は市街地化がすすみ、子村としての特色はほとんど失われており、小泉新田へ別名本郷の「長野」姓が混住しているのは新しい時代になってからである(図2―51)。


 新田立村の孫兵衛作村

 孫兵衛作村は近世初期の土豪開拓村としての典型的な事象が多い。
 長野孫兵衛通永は『河野分限録』にある河野一八将の一人である正岡右近大夫(幸門城主)の旗本衆長野越中守通秀の三男に生まれたと長野系図にある。前述の別名村の親村長野一族の一人なのである。
 土豪として天正一三年(一五八五)秀吉の四国征伐に対し西条市氷見の野々市原の戦に参加、敗れて別名に帰り、大祝の古館にちっ居、帰農した。後に長兄の通勝は国府城主福島正則に仕え、孫兵衛は「手の者一八名」を連れて長沢村に属した猪追山(匡王山)山麓の開拓を始めたものである。
 この時期新城主達は帰順した有力土豪を巧みに用いることが多かったので、孫兵衛の兄が福島に召しかかえられた機会に、領主主導型新田の開拓指揮者として彼が選ばれたのであろう。
 開拓は寛永一五年(一六三八)から始められ、孫兵衛の死後(承応三年(一六五四)没)も続けられ寛文二年(一六六二)に終わったと記録されており、この間に古い開拓村である周桑郡黒谷村(東予市)の長井甚之丞と親交し指導を受けたと記録されている。
 孫兵衛作村は三〇m前後の微高地で灌漑用溜池の造成が必要であり、匡王池は寛文二年(一六六二)に完成したとあるから孫兵衛の存命中は開拓の半であったのである。
 彼の事業はさきの長井甚之丞の次男又四郎実能を孫兵衛の婿養子として迎えて引きつがれ、寛文二年に長沢村より分村独立して孫兵衛作村となり代々庄屋を勤めた。慶安元年(一六四八)の伊予国知行高郷村数帳には、耕地一八町五反三畝、石高六一石一斗一升とある。
 集落はもと西側の山麓に密集し、耕地をへだてた東側の山頂に孫兵衛を祭る細埜神社を建て、「権現さん」と呼んで崇拝し、同族一村の地域社会をつくっていた(写真2―35)。大正一〇年(一九二一)予讃線や国道が山麓を通過する際、その一部を残して耕地内に移転分住した。住民の姓は約七〇%が長野・長井・野間・越智姓を名のり、長野は開拓者の一族、長井は孫兵衛の養子が旧姓をつがせたもので長野と同族、野間・越智も別名村よりかつて同行した長野縁者の子孫である(図2―52)。
 新田村であり地味も悪く、匡王池造成その他隣村の長沢村の協力を得ることが多かったが、これは親村である別名村と一〇㎞以上も離れた子村であったためでもあるが、領主指導型新田としての下命によるものと思われる。


 親村・子村

 大新田村は石井村の分村で貞享元年(一六八四)には立村していた。山麓にある石井村から離れて新田の中に塊状に集住し、明治一三年(一八八〇)には六四戸であった。
 現在は、ドーナツ現象の影響で、新興住宅地として家屋の建築がすすみ新田の面かげはない(写真2―36)。
 矢田地区は谷あいの矢田村であるが、谷頭は「奥矢田」中央部は「矢田」、国道に面して「矢田口」と称し、平地部へ下る親村・子村の関係があり、同じく阿方地区の「阿方」と国道に面した「阿方店」・「延喜」と「延喜店」にもそれが認められると共に、「店」の地名に子村の集落機能の変化がよみとれる。旧宅間村宅間からは峠を「一山越えた」内方に分村し、内方から更に宮浦池へと小規模分村し、一部は再び親村へ帰るという微小生活圏での集落移動もみられる。椋名村(吉海町)から馬島へ二戸の新田入植などもその例である。

図2-50 今治市内の旧村新田面積(単位町)

図2-50 今治市内の旧村新田面積(単位町)


図2-50 今治市内の旧村新田面積(単位町)

図2-50 今治市内の旧村新田面積(単位町)