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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

六 桜井漆器

 日本の漆器工業の立地

 植生の漆は温熱帯に自生しており、その樹液の利用は人間の文明と共にあるといわれるが、我が国の文献では大化二年(六四六)年漆部司が置かれたことや、大宝律令で上戸に漆一〇〇根以上、中戸に七〇根以上、下戸に四〇根以上を栽培することが課されたことなどが漆器生産にかかわる最も古いものである。その後貴族工芸品や寺院工芸品として育成され、室町期に中国(明)からの技法が多く伝入されると共に地方工業化がすすんでいった。特に紀州根来寺は最も高い技術を持っており、同寺が天正一三年(一五八五)秀吉の兵火にあって僧侶が技法をもって四散し、石川県輪島、和歌山県黒江(海南市)をはじめ各地の漆器工業の創始となったというのが定説となっている。
 藩政時代に入ってからは各藩が殖産工業として保護奨励したので各地に地方工業として立地していった。


 今治市桜井の漆器工業の立地

 漆器工業に必要な原料、材料について簡単に記すと次のようになる。
 まず漆器生産は木工部と塗装部にわかれ、木工部は丸物(椀)板物(重箱等)曲物(部分的いそれぞれに土地の適材を使用する。例えば、弘前・能代・輪島などは板物に「ひば」、「あて」を主に使い、黒江や桜井では「ひのき」専用であり、丸物は前者が「けやき」「とち」が多いのに、後者は「ぶな」や「桜」を加えて使用する。次に塗装部では漆を塗る前の下地工程、漆塗装丁程(写真2―18)、装飾工程としての沈金、蒔絵に分かれるが、特に下地には「しぶ地」と称して柿しぶや、顔料として「とのこ」を使う黒江・桜井や独特の「地粉」を使う輪島等がある。
 漆は明治二三年(一八九〇)の全国使用量は国内産約五五万斤に対し輸人漆は約十分の一の約五万斤とあるように、それまでは国内産漆が中心であり、漆産地との関係は深かった。しかし大正元年(一九一二)には国内産約一五万斤に対し輸入品約一二八万斤となり、ほとんど輸入品となっているから、漆の生産と漆器工業立地とは関係がなくなっている。
 沈金、蒔絵は「美術漆器」などと呼ばれるように、美術工芸に属する工程で、伝統や流派があり、後発地は先進地より技術者を招へいすることが多い。材料の金、銀粉や箔は京都・東京・金沢など特定都市供給であるから特に立地の条件とはならない。
 以上の諸原料、材料について桜井の立地条件をみると丸物材は越智郡山地に自生し、竜岡木地・鈍川木地といわれる木地師が生活した近隣地から供給されていたが、原材がなくなると上浮穴材や高知材に全面的に頼るようになり、板物の「桧材」はほとんど紀州材に依存していた。その他についても「とのこ」の一部や「ベンガラ」が地元供給できる以外、柿しぶは広島、とのこは京都、地の粉は輪島、金・銀粉、箔は京都・金沢、その他の「にかわ」、研ぎ用の炭、角粉に至るまで外来のものであった。
 昭和一三年の統計では全国で漆器生産のない県は千葉一県だけであるように、漆器生産初期の漆供給にかかわる条件を除けば、木工原料の地方色はあるにしても原料立地型産業ではないわけで、他の歴史的、経済的条件に左右されるものである。
 桜井の漆器生産のはじまりは、行商初期に燭台や粗末な重箱に漆をこすりつけたもの(すり漆)を売っていたと伝えられ、『国府叢書』に朝倉上・下村から少量の漆がとれたとあるから何らかの関係かおるかもしれないが確証はない。次に月原紋左衛門(安永元年~天保六年)(一七七二~一八三五)が、天保三年(一八三二)西条藩から指物師・塗師を招いて「櫛指」の重箱を造らせ、これが桜井漆器を本格化させるはじまりになったという説である。文政一〇年(一八二七)産子回船連中が奉献した綱敷天満宮の大鳥居に喜多屋紋左衝門の名があり、月原家は喜多屋と称し回船業を行っており、紀州回航の時に黒江の漆器をとりよせ、行商品に加えると共に、その生産を思いたったと同家に口伝されている(写真2―19)。彼の生年や、回船船主であったこと、桜井の行商創始の年代等から信用するに足ると思われるが、確実な漆器生産の資料は同家に伝わる安政五年(一八五八)に書かれた家屋間取り図である(図2―27)。それには間口八間、奥行一五間の広い屋敷内に「細工場」・「職人部屋」・「上蔵・納屋」、が並んでおり、漆器生産が行われたと信じてよいものである。
 西条藩に塗師がいたことは、紀州藩とその支藩である西条藩との関係からありえることであり、天領地桜井へ招いたのも容易であったと思われ、天保~安政年問に生産が始まったとえてよいものである。なおこの「櫛指法」の重箱は四角を櫛指に木を組む方法で、磯部喜一の「漆器工業論」にも全国の特技製法七例の一に入る細工法と書かれ高く評価されたものである。ともあれ、桜井への立地は回船活動、行商活動発展の過程で取り扱い商品の生産が後発したもので、技術提供も取り扱い商品産地から便宜を受けることができたのである。


 桜井漆器工業の発展

 今治市桜井の漆器生産年表を次にかかげておく。
  
一、天保三年(一八三二)月原紋左衛門、櫛指法考案
一、この直後、大三島より藤原道作という指物師が来て改良を加えた。
一、天保七・八年(一八三六・三七)頃西条藩の蒔絵師茂平を招く。
一、安政五年(一八五八)月原紋左衛門家の間取図に漆器製造細工・職人部屋の記載がある。
一、明治五年(一八七二)『地理図誌稿』、桜井村に漆器生産四〇〇〇円とある。漆器行商航海日誌『肥後降一条有無日記』書かれる。
一、明治九年(一八七六)漆器製造卸商田村只八、輪島より沈金師高浜儀太郎を招き品質向上する。
一、明治一一・二年頃(一八七八・一八七九)横田美代治、黒江より漆工宮崎藤蔵を招く。
一、明治一三年(一八八〇)桜井漆器生産二万八〇〇〇組、二万五〇〇〇円を産す(「越智郡地誌」)。
一、明治一五~一九年頃(一八八二~一八八六)福井県山中より下岡松太郎・岡野平蔵・高本与三吉等・また、広島県宮島より稲田政吉・魚谷勝蔵・金子定吉等の「ろくろ師」を招き、丸物(椀)の生産を始める。
一、明治二〇年頃(一八八七)横田小十郎、黒江より職工加藤文七・児玉久太郎ら十数名を呼び、また蒔絵師笠原金之助も来て生産品質共に躍進する。
一、明治二二年(一八八九)生産額約一〇万円  一、明治二九年(一八九六)伊予国桜井漆器業組合設立、又指物工養成工場設立
一、大正五年(一九一六)漆器組合丸物部結成
一、大正一一年(一九一二)桜井漆器同業組合設立、また桜井漆器原料㈱設立
一、大正一二年(一九一三)生産六八万五〇〇円、製造戸数六〇戸、職工数三六二名となる。この頃地元漆器行商者四○○名をこえる。
一、昭和一六年桜井漆器統制組合となり生産縮少する。製造戸数三六戸、職工七〇名。
一、この間、明治一〇年(一八七七)生まれの名沈金師村上市五郎や田村右左夫・高浜幹五郎(写真2―20)、蒔絵師の渡辺助男らの桜井生まれの名工を輩出した。

 以上をみると、明治二〇年(一八八七)頃までに輪島・黒江から技術者が多数来地し著しい技術の向上がみられ、特に蒔絵、沈金のほどこしていない漆器は漆器にあらずといわれたが、その技法も伝えられて本格的生産が推進された。先進地から多数の技術者が来地し、住みつくということはその生産の拡大が見込まれてのことで、これは行商者による販売量が急増していることと相関するものである。
 明治三〇年(一八九七)以後は生産業者の組織化が行われ、大正期後半に最盛期となり、当然に漆器行商の最盛期と合致するものであった(表2―43)。

         
 現在の生産活動
 
 戦後は昭和二三年では製造戸数三四戸、技術者は総計一六四名。生産個数八万五〇〇〇個、生産金額三五〇〇万円と復調の気配をみせた。しかし生活様式の急変、インフレ生活、漆器の原料入手難等の悪条件に加えて、行商活動の項で述べるように、都市部を中心に始まった衣料品月賦販売活動の労力に行商者及びその後継者達が吸収されてしまい、販売を行商者に全面依存した漆器生産は急速に減退していった。 昭和六一年現在の漆器生産技術者は、角物三名、丸物師二名、下地師三名、上塗師八名、蒔絵師七名、沈金師四名の計二七名であるが七〇歳以上の高年令者が多く、製造を休止している人々もいる(表2―44)。昭和四九年(一九七四)には伝統工芸品振興法も施行されたが、若者の定着は皆無といった実態であり、種々の悪循環により伝統の灯は風前の感がある。現在桜井には漆器卸小売店が一〇店あり、うち三店が製造卸商店である(表2―45・2―46)。純然たる卸商のなかには輪島等で生産依頼をする店もあり、これも時代の流れといえる。

図2-27 安政5年(1858)の桜井の漆器工房間取図

図2-27 安政5年(1858)の桜井の漆器工房間取図


表2-43 桜井漆器生産統計

表2-43 桜井漆器生産統計


表2-44 今治市桜井の漆器工芸技術者(現存)

表2-44 今治市桜井の漆器工芸技術者(現存)


表2-45 今治市桜井の漆器製造・卸小売業者

表2-45 今治市桜井の漆器製造・卸小売業者


表2-46 今治市桜井の大正11年の漆器製造・販売業者

表2-46 今治市桜井の大正11年の漆器製造・販売業者