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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 今治市の造船業

 造船業の位置づけ

 本県の造船業は、全国的に高い地位を占める地元海運業と密接な関連をもって発展し、広島・兵庫などと共に全国有数の造船業地を形成している。
 特に中小造船の建造量は全国めトップクラスを占めている。昭和五九年の工業統計によると、輸送機械の出荷額は二一三六億円で、県全体の製造業の六・八%を占め、電機、化学、パルプ、食品に次いで第五位で、本県の輸送機械工業の九〇%以上が造船業であるため、本県製造業に占める造船業の地位は高い。その中心地が今治市と越智郡である。本地域では繊維に次いで輸送機械の出荷額が多いが、県全体の輸送機械に占める今治市の割合は、事業所数で一五・七%、従業者数で二〇・四%、出荷額で二七・八%となっている(表2―38)。本県造船業の歴史は、今治の造船業の歴史であると言ってもよい。


 造船業の発展

 受注産業という造船業の特性から考えて、船舶の需要産業と密接に関連しながら発展するが、今治では地域漁業との関連は薄く、海運業の歩みが、即造船業の発展に結びついてきた(県史『地誌』I参照)。四国の近代的海運業は土佐の岩崎弥太郎により高知~東京間の貨物輸送に始まるとされるが、その後、瀬戸内海を中心に発展した。明治末期には木造帆船に焼玉エンジンをつけた機帆船が、塑戸内海の地形や港湾事情に適した輸送手段として登場し、大正・昭和と発展した。この機帆船は昭和二八年頃から小型鋼船化し、三九年の内航二法の施行に伴いスクラップ・アンド・ビルドの建造方式が制度化され、また船舶整備公団の老朽貨物船代替建造が始まり、これらが引き金となって木造機帆船から小型鋼船へのリプレースが急速に進んだ。特に本県船主の建造意欲が高く、船主の進取の気性と、これに対応した県下の造船所と金融機関が一体となって、本県海運業と造船業の基礎がつくられた。近海船への進出は三三年頃から始まり、四〇年代に本格化した。スクラップ化か不要である点に着目した面もあるが、内航海運でつちかった造船業の基礎があったことも見逃せない。外航船への進出は四五年頃からで、南洋材の輸送を中心とする近海海運業の低迷のため外航船へ進出したものである。この内航→近海→外航への海運の成長パターンは四国では他県にみられない特色で、これに伴って本県造船業も拡大成長した。この発展の足跡を表にしたのが表2―39である。
 この本県造船業発展の中心地が今治市の波止浜湾一帯である。波止浜湾における造船業の起源は明確ではないが、来島を中心とした水軍時代の八幡船の説もある。また天和三年(一六八三)に始まった波止浜塩田の塩を江戸や北陸路に送るため多くの塩買船が出入し、地元にも多くの船舶があり、記録によると、明治九年には五〇石以上の船五三隻とある(『今治市誌』)。明治時代、塩を運ぶ船の他に、隣接する波方を中心に菊間瓦の原料粘土を運ぶ土船が増え、更に大正時代になって石炭を運ぶ船が登場した。これらの船の建造、修理が造船業を発展させた。明治末期から太平洋戦争終結までの当地の造船業は木造帆船に焼玉機関をとりつけた機帆船と漁船の建造、修理が中心であった。それが戦後、経済復興が進むにつれて、スピード化、大型化が求められ、二〇年代後半からは内航船の小型鋼船化か始まった。その初期、二年間くらいは鋼船より安価な木鉄船の時代があったが、三〇年代に本格的に鋼船化した。この転換を容易にしたのは造船所の船の月賦販売方式の採用が大きな理由といわれている。又、技術面ではブロック工法の開発などで工期の短縮とコストの引き下げが図られたことも発展の要因にあげられる。特に今治の主力造船所は、同型船のシリーズ建造方式で受注を伸ばしたことは大きな特色であった。しかし、波止浜湾内の主力造船は、湾内が狭く船舶の大型化に対応できないため、今治市外への立地移動が行われ、大型工場の新規立地が続いた。さらに、四九年以後の石油危機による造船不況で中堅の造船所を中心に経営不振におちいる企業が続出し、企業のグループ化、系列化や、一部設備の改廃等激動期を迎えた。
         

 展開とその構造

 表2―38によると、現在今治市の輸送機械は一九社となっているが、海運局資料によると、その内一一社、五一四名が造船関連企業となっているので、造船業は八社である。これを分布図に示しだのが、図2―26である。市内砂場の大浜漁港に近接する西造船を除くと、波止浜湾の東西両岸に七社の造船所が集中し、さらに湾内の隣接する波方町に小型造船所が三社分布している。写真2―17のごとく、同湾岸はクレーンの林立する造船の町である。
 八つの造船所を規模別にみると、一万五〇〇〇トンの建造船台をもつ今治造船を筆頭に、波止浜造船・浅川造船の二社が五〇〇〇トン以上の建造能力をもつ。これに次いで西造船と桧垣造船が四九九九トン、太平工業波止浜分工場が四八〇〇トン、繁造船所が一〇〇〇トン、矢野造船所の六九九トンの各船台がある。これらはほとんどが木造船からスタートした歴史をもつが、鋼船建造は昭和三〇年代前半の開始が多く、約三〇年間に急成長をとげ(表2―40)、繊維に次ぐ今治の基幹産業になったもので、共通点が多い。その一つは、資本的に地元資本中心に発展した点である。最も古い波止浜船渠(現・来島どっく)は明治三五年(一九〇二)に波止浜塩田の一角を埋めたてた所に創業した。昭和五年には旧呉海軍工廠の下請指定工場となり、一五年には住友の資本参加をえて拡張し、甲種造船所の指定を受け、戦時標準船D型船の建造を行った。また、越智郡の旧大井村(現在の来島どっく大西工場の場所)に新造船所の建造途中で終戦となり中断した。三六年にこれを再開したが、住友資本は現在の地元資本に引継がれて新工場は完成した。一時的にせよ、県外の大手資本が入ったのはこれのみである。
 これに対し、伊予木鉄造船と今治造船は共に昭和一八年に創業した。戦時中の曲折を経て、前者は閉鎖機関産業設備営団から全設備の払い下げを受けて鋼船工場となり、二五年に現在の波止浜造船となったが、石油危機による経営不振により、現在、常石造船(本社、広島県)の支援を受けて再建中である。後者は三〇年に鋼船建造の施設を完成し、内航鋼船の建造を開始した。いずれも地元資本で発展したもので、以上の三社が今治市のみでなく、本県造船業の中核をなす。又、地元資本と共に人的交流、結合も企業の発展に影響大なることは、今治造船関係の企業などに多く読みとれる。
 三〇年代後半の大手造船所の再編成と中堅各社との提携、及び五二・五三年の造船不況による経営不振の企業の多発に伴う系列化、グループ化で、現在、本県の企業は前記三社を中心に、表2―41のように系列化され、生き残る努力をしている。そのための新工場建設は、先述の来島どっく大西工場に次いで、今治造船が四五年に香川県丸亀市へ、波止浜造船も四八年に香川県多度津町に進出し、各社の中心の造船所になっている。これに伴い、波止浜湾一帯は修繕船基地に変わりつつある。
 六〇年からの今回の不況は五三年の不況に対し、より構造的要因が強く、従来、大手造船所が手を出さなかった中小型船部門へ進出し、中小造船所の多い本地域は特に影響が大きい。現在、中小造船所の建造する船の約六〇%が鋼材関係の貨物船で、これに次いで各種石油製品輸送のタンカーが多い。波止浜湾の造船業は、この構造的不況に苦しむ中小造船所と、成長期に拡大した準大手が同居した状況で、周辺の海運業と関連しながら、中小型船の修繕基地的傾向を強めつつ、脱波止浜を図っている企業が増えている。本地域はこのような変化の中で従来から多くの下請関連産業を抱えており、これからの再生が地域経済の大きな課題である。

表2-38 今治市の輸送機械工業(昭和59年)

表2-38 今治市の輸送機械工業(昭和59年)


表2-39 愛媛県造船工業史年表 1

表2-39 愛媛県造船工業史年表 1


表2-39 愛媛県造船工業史年表 2

表2-39 愛媛県造船工業史年表 2


表2-39 愛媛県造船工業史年表 3

表2-39 愛媛県造船工業史年表 3


図2-26 今治市の造船所

図2-26 今治市の造船所


表2-40 今治市の造船業の推移

表2-40 今治市の造船業の推移


表2-41 愛媛県造船企業のグループ・系列

表2-41 愛媛県造船企業のグループ・系列