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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

九 伊予桜井の流下式塩田

 桜井塩田の造成

 昭和一八年の戦時中に、波止浜塩田の東北部の38番浜と41番浜を潰して、波止浜造船工場の敷地にした。その代わり戦時中は食塩欠乏を防ぐため、桜井に塩田を造成したという。桜井塩田は入浜式でなく、最初から流下式であった。
 表2―29の如く、採かん地面積・濃縮台面積・枝条架面積が配分されていた。桜井浜は昭和一五年一二月建設と書いた文献もある。記録はあまり残っていたいが、幸い手元に、昭和三三年一月二〇日に撮った写真やフィールドノートがある。専売公社の塩田地図と表と共に、資料としてここに記載する(図2―22・2―23)。
 鹹水を濃縮するため、枝条架を風の当たる桜井沖浦の丘の上に造った(写真2―15)。ところが塩分を含んだ風が附近のみかん園に当たって、葉が枯れる塩害を起こしたこともあった。
 波止浜塩業組合の桜井浜の塩田面積は一万三一五一平方m、燧灘浜の塩田面積は一万一五一平方mと専売公社の昭和三四年の統計には載っている。沖浦の南の桜井浜塩田跡は早く住宅地化された。武田勝一が当時四〇〇万円をかけて湯元ホテル(冷泉加温)をつくり、三年前から二〇〇〇坪で車えびを養殖した。赤潮がくるし、ちぬ(黒鯛)が車えびを食べたりした。
 沖浦の北の燧灘塩田跡は、当時吉海町幸の渡辺市衛・隆弥父子が所有していた。整地、宅地造成の目的で、桜井建材㈱が地ならしをしていた。そして白砂青松の花崗岩の砂利を、月三万トン生コン用に、新泉海運㈱(本社新居浜市西原町、営業所東京・大阪・若松・広島)の船が、阪神の報国生コン・西京生コン・宇部生コンなどへ運んでいた。海岸の砂をベルトコンベヤーで、砂利運搬船に運ぶ施設を、昭和四四年四月に、住友鉱山採石部が一〇〇〇万円を投じて建設した。沖浦海岸は干潮五〇㎝、大潮四m、小潮三mである。
 表の流下式塩田の業者が八つある。①野島は野島耕次郎で三芳駅の近く砂の採取場になっていた。②桜井は北の海岸で、③小松桜井は中央で、経営者が小松と同じであった。④燧灘はその南であった。⑤波止浜は昔からあり、自明の所である。⑥越智は大西町の来島どっく大井造船所の西で、ブロック工場になっていた。⑦小池証は越智房江の西で、遊園地に変わった。⑧岡山は口総塩田のことで、みかん園に変わった場所で波止浜に次いで大きい。このみかん園は冷気湖のため冷害を受けた。

表2-29 今治出張所管内流下式塩田の面積一覧表

表2-29 今治出張所管内流下式塩田の面積一覧表


図2-22 今治市桜井沖浦の燧灘塩田の略図

図2-22 今治市桜井沖浦の燧灘塩田の略図


図2-23 今治市桜井沖浦の桜井塩田の略図

図2-23 今治市桜井沖浦の桜井塩田の略図