データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 今治平野の花卉と花木

 花弁・花木の地位

 今治市は伊予の商都であり、商才に富んだ市民が多い。都市近郊の農民もまた営利感覚に富んでいる者が多い。今治市近郊の農村に花卉・花木などの生産が盛んであるのは、商都にはぐくまれた営利感覚に富んだ農民が多いことと多分に関連している。
 今治市は昭和三〇年代以降、花卉・花木の生産においては、松山市・宇摩郡の土居町と共に常に県下の三大産地の地位を保ってきた。昭和五八年現在の愛媛県園芸蚕糸課の資料によると、今治市の切花・枝物類の作付延面積は一八・二三ha(県の一七・四%)、生産数量は五五四万本(県の一五・八%)、生産額は一・七億円(県の一七・八%)で、作付延面積、生産頓において共に県下随一の地位を占めている。花木類においては、作付面積二八・五ha(県の一四・五%)、出荷量六八万本(県の二七・八%)、出荷額九三〇〇万円(県の二三・六%)で、作付延面積・出荷額においては土居町に次いで第二位であるが、出荷額においては県下随一の地位を占めている。切花類で高い地位を占めているのは、チューリップ・フリージア・アイリスなどの球根による切花の生産であり、これは関西随一の産地を形成している。また活け花用の枝物類の地位も高い。花木においては、つつじ・さつき・つげ類などを植木として出荷するものが多く、これらはいずれも県下一の地位を占めている(表2―13)。


 花卉栽培

 今治市の花卉栽培は、昭和二八年頃馬島の塩見太助によって開始される。馬島は冬の気温が本土よりも三度C程度高く、これが花卉栽培を有利にした。現在も馬島は今治市の花卉栽培の盛んな地区の一つであり、マーガレット・ストック・きんせんかなどが主として栽培されている。今治平野の花卉栽培は昭和三二年に今治市近郊高橋の橋田功によって開始された。彼はアイリスとチューリップの球根を導入し、球根切花の栽培に取り組む。彼に刺激されて、数年後には六~七名のものが球根切花の栽培に取り組むようになった。
 今治平野で花卉栽培が盛んになってきたのは昭和四〇年立花農協が切花の依託販売を行い、それが同四三年から日高農協によって引き継がれて以降である。また同四三年には、今治平野の野菜栽培の先覚者であった桑原荘二郎が野菜から花卉栽培に転換したことも、熱心な指導者を得て花卉栽培が盛んになる契機となった。
 今治地方の花卉栽培農家は今治地方花井園芸研究会を結成している。同研究会には、球根部会・切花部会・花木部会の三部会がある。昭和五八年現在球根部会に所属する農家は二二名であり、高橋地区に六名の農家が集中する以外は、今治平野の各地に分散している。球根切花の代表的なものは、チューリップ・アイリス・フリージャーであり、これらの球根は日高農協によって共同購入される。アイリスとチューリップの球根は新潟県より購入され、フリージャーは沖永良部島・八丈島より購入される。切花も日高農協によって共同出荷される。主な出荷先はチューリップ・アイリス・フリージャー共に、愛媛県内と広島・大阪・香川・岡山・兵庫などの瀬戸内海沿岸の諸県である(図2―8)。チューリップの球根は七月に新潟県より購入し、一四度C程度に二〇日間程度予冷し、それを冷蔵庫で三~四度C程度に五〇日間ほど冷蔵したものが本圃に定植される。作型は超促成栽培(一二月出し)、促成栽培(一~二月出し)、半促成栽培(三月出し)、無冷蔵半促成栽培(三月出し)などがある。定植は一〇月中旬頃から一〇月下旬にかけて行われ、ビニールハウスのなかで無加温栽培されたものが、一二月下旬から三月下旬にかけて収穫される(図2―9)。
 アイリスの作型には、超促成栽培(一〇~一一月開花)、促成栽培(一二月開花と一~二月開花)、半促成栽培(三~四月開花)、普通栽培(四月開花)がある。超促成栽培と促成栽培の球根は燻煙処理されたのも、四〇日~五〇日程度冷蔵され、九月中旬から一〇月中旬にかけて順次定植される。ビニールハウスで無加温栽培されたものが、一一月下旬から二月中旬にかけて順次収穫される。半促成栽培と普通栽培は冷蔵処理されたものが一一月上旬に定植され、三月中旬から四月下旬にかけて収穫される。
 フリージャーの作型には、超促成栽培、促成栽培、半促成栽培、抑制栽培がある。定植は九月上旬から一〇月上旬にかけてであり、ビニールハウス中で栽培されたものが、一二月中旬から三月下旬にかけて収穫される。抑制栽培は二月上旬に定植し、五月に収穫される。
 以上、チューリップ・アイリス・フリージャーの球根切花の栽培は冬季中心の半年間、水田に設置されたビニールハウスのなかで栽培される。切花の出荷後のハウス内は水を張って土壌消毒されるものが多いが、なかには水稲栽培をしたり、後作に露地菊を栽培するものもある。ビニールハウスの移動は経費もかかり容易ではないので、球根切花の栽培は数年間連作される。連作障害は土壌消毒や堆肥の投入などで克服しようとしている。
 今治地方花卉園芸研究会の切花部会に所属するものは、昭和五八年現在二二名である。高橋地区に七名の会員が集中している以外は、今治市域の各地に分散している(図2―10)。栽培作目の主体は露地菊であるが、電照菊・なでしこ・かすみそう・ガーベラ・ばらなどを栽培する者もいる。
 露地菊の栽培は昭和三二年頃から日高地区で始まるが、生産者が増加してきたのは昭和四二年頃からである。露地菊の作型には、六月咲きから一二月咲きまでの七つの作型があるが、親株からさし芽された苗が本圃に定植されるのは、三月中旬から七月中旬にかけてである。露地菊の栽培で多くの労力を要するのは、芽かぎと消毒である。消毒は定植後一〇~一五日に一回程度行うが、花の色が出だすと毎日のように手押しの防除機で消毒してまわる。一農家の栽培面積は平均一〇アール程度であり、一つの圃場に六月咲きから一二月咲きまでの菊が順次栽培されている。同じ月に収穫される菊でも数種類の菊が栽培されており、一〇アールで一〇〇種類程度の菊を栽培する農家が多い(写真2―7)。菊の出荷先は地元の今治市場に個人出荷されるものが九〇%程度であり、他の一〇%程度が広島・呉・松山などに個人出荷される。消費者の要望に応えるため多種類の菊を栽培していることが、個人出荷を主体とさせる要因である。
 菊は連作障害が大きいので、順次栽培圃場は移動していく。菊の栽培農家は稲との複合経営が多いので、一年間菊を栽培した圃場三~四年間稲作がなされたのち、また菊の栽培地になる場合が多い。耕地面積の狭小な農家は自己所有の水田のみでは輪作体系が組めないので、近隣農家の水田を借地して菊を栽培することもある。
 日高地区の高橋は球根切花と露地菊の栽培が盛んな地区である。高尾保幸はその日高地区で球根切花と露地菊の栽培にいそしんでいる。経営耕地面積は水田八五アール、畑一五アールであるが、うち二〇アールの水田に一三二〇平方mのビニールハウスを設置し、そこでチューリップ・アイリス・フリージャーの球根栽培を行っている。球根切花の後作には露地菊が一アール栽培され、他に一〇何の露地菊が栽培されている。稲は五〇アール栽培されている。露地菊の栽培地は順次輪転しているが、そのなかには、近隣農家の借地も含まれている。彼の土地利用形態はこの地区の花卉栽培農家の典型的事例を示しているといえる(図2―11)。


 枝物栽培

 活け花用の花木を枝にして出荷するものを枝物という。今治地方花弁園芸研究会の花木部会はその枝物生産に従事するものによって構成されている。花木部会の会員は昭和六〇年現在一一名であるが、うち六名が今治市南部の長沢地区に集中しており、長沢地区は県下最大の枝物産地として知られている。
 長沢地区で枝物栽培が開始されたのは昭和四〇年であり、地区在住の芥川勤か愛知県稲沢から、朝鮮まき・大王松・くじゃくひば・ゆきやなぎなど十数種の枝物の苗を導入したことに始まる。出荷は昭和四三年頃から始まるが、彼に刺激された近隣農家が昭和四五年頃から盛んに花木の苗を導入し、今治市内で二三名程度の栽培者を数えるまでになる。昭和五〇年代になると栽培農家の経営規模は拡大するが、栽培農家数は次第に減少していく。
 枝物の栽培地は当初は山腹斜面の普通畑や、みかん園の転作地に栽培されていたが、のちには水田転作田の利用も増加する。長沢地区には現在七ha程度の枝物の栽培面積があるが、うち畑に栽培されるもの四ha、水田に栽培されるもの三ha程度である。やなぎ・まさきなどは水田に主として栽培され、ぼけ・もも・さくら・ゆきやなぎなどは主として畑に栽培される。
 出荷はすべて個人出荷であり、各農家で荷造りされたものが、軽四トラックで松山・新居浜・今治などの市場に出荷される。出荷時期は枝物の種類によって異なる。やなぎは九~一一月、まさきは五~一〇月が主な出荷時期であるが、ぼけ・もも・さくら・ゆきやなぎなどは、枝切りされたものが温室内で霧を吹きかけられて加温され、人工的に開花されたものが出荷される(写真2―8)。このふかしの技術は大阪府下から導入されたものである。温室は各農家の軒先にあり、この温室と栽培圃場の近くにある切り水用の水槽が枝物栽培地の耕作景観の特色といえる。
 枝物を栽培する農家は一戸平均一ha程度の枝物を栽培しているが、大部分の農家は稲やみかんとの複合経営の一環として枝物を栽培している。栽培農家の最大の悩みは兼業化の進展と共に若い後継者が少ないことである。
      

 植木栽培

 今治市の新谷を中心とした地区は県内最大の植木の生産地である。新谷の植木の生産は明治中期にまでさかのぼり、大正中期には一〇名程度の植木栽培者がいたという。新谷の植木栽培が盛んになってきたのは昭和三〇年代になってからであり、昭和三五年頃植木の生産販売の組織として今治植木組合が結成されたころより栽培農家と栽培面積は飛躍的に増加する。栽培面積かピークに達したのは昭和四八年頃であり、栽培農家数は周辺地域も合わせて一八〇戸も数えた。しかしながら同年の石油ショックを契機に需要の落ち込みから販売が伸び悩み、栽培農家数・栽培面積共に減少し、昭和五八年には栽培農家七二戸、栽培面積二八・五haになっている。
 新谷地区に植木生産が集中したのは、第二次大戦前から庭師が多く、それとの関連で植木生産が見られたこと、背後の丘陵地が植木栽培に適する赤土でおおわれていたこと、丘陵地の全面に広がる水田が粘土質で野菜栽培には不向きであり、農家が現金収入源として水田に植木を積極的に栽培したことなどに求められる。
 この地区で栽培されている植木には、つげ・さつき・つつじ・さざんか・かいずか・くろまつ・やまももなどがある。くろまつとやまももは自然木を荒木として購入し、それが育成されて出荷されるが、他は挿木によって栽培されるものが多い。くろまつは一〇年程度で出荷されるが、つげ・さつき・つつじなどは三~四年程度で出荷される。挿木や接木の技術は香川県の鬼無や、広島県の己斐などから学んだものもあるが、新谷地区で開発されたものも多い。
 植木の流通は、生産者から地元の植木仲買人に出荷されるもの、直接松山市の卸売市場に出荷されるもの、生産者から他地区の仲買人に出荷されるもの、直接消費者に販売されるものなど種々である。昭和五六年までは、今治植木組合の定期市で販売されるものも多かったが、組合解散後は定期市は消滅した(図2―12)。
 植木の栽培農家は一戸平均四〇~五〇アールの栽培規模の者が多く、一つの圃場に多種類の植木を栽培しているのが通例である。多くの農家は稲作との複合経営を営んでおり、連作障害を回避するために、数年ごとに植木の圃場と稲作の水田を輪転するようにしている。経営規模の大きい農家は借地によって規模拡大をはかっている者が多い。

表2-13 今治市の花卉・花木の生産量

表2-13 今治市の花卉・花木の生産量


図2-8 今治地方の切花の出荷先(昭和58年度)

図2-8 今治地方の切花の出荷先(昭和58年度)


図2-9 今治平野の球根切花の作型

図2-9 今治平野の球根切花の作型


図2-10 今治地方の花卉栽培農家の分布(昭和58年)

図2-10 今治地方の花卉栽培農家の分布(昭和58年)


図2-11 今治市高橋の高尾家の経営耕地と花卉の輪作

図2-11 今治市高橋の高尾家の経営耕地と花卉の輪作


図2-12 今治地方の植木の流通

図2-12 今治地方の植木の流通