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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

五 湖底に沈んだ村

 金砂湖に沈んだ村

 銅山川の本流ぞいには、上流から別子ダム・柳瀬ダム・新宮ダムがあり、また現在富郷地区に富郷ダムが建設中である。これらのダムは水と電力を新居浜市や伊予三島市・川之江市方面に送り、これら平野部の農業・工業の発展に寄与したが、一方では、そのダム建設のために多くの水没集落を生んだ。そのなかでも昭和二八年伊予三島市金砂地区に建設された柳瀬ダムによって出現した金砂湖は、多くの水没集落を生み、当時湖底に沈んだ村として、哀感をさそった。
 金砂湖の出現によって立退した戸数は一四五、立退き者は八〇一人、水没した土地は、田四・五ha、畑四四・三ha、山林六五・四ha、宅地五・九ha、墓地○・四haであった。ダムによる立退き者八〇一人は、当時の金砂村の人口の二五%程度であるが、佐々連鉱山地区を除くと在来の集落の約半数が水没することであり、それは村の存亡にかかわる大事件であったといえる。
 水没集落は、上流から見ると、富郷村の下長瀬、金砂村の灰原瀬・水丁・平野・押淵・小頃須・安井・川口・上小川・岩鍋・横脈・折坂・信生・柳瀬であった。またダムサイトに近い脇の谷もダム建設の影響で多くの住民が立ち退いた。
 下長瀬は戸数一二戸程度、灰原瀬は戸数八戸、平野は戸数二〇戸余のダムの上限にあたる農業集落であり、半数程度の農家が水没した。水丁もダム上限の戸数四戸の農業集落であったが、川ぞいにあったので全戸水没した。押淵と小頃須は、この地区の交通の要衝にあったが、全戸水没した。押淵は戸数二五戸で、商店・旅館があり、佐々連鉱山の索道中継駅もあった。小頃須は戸数二九戸、日本鉱業の三島索道の中間駅があり、駄馬にて運送業を営む者も数人いた。
 安井は戸数二戸の小集落、川口は小学校・中学校もあったが、戸数七戸の小集落で、共に全戸水没した。上小川は銅山川の支流の上小川の谷底に立地する戸数五〇戸程度の集落であったが、うち半数が水没した。戸数一〇戸余の横藪は金砂村の行政の中心地であり、役場・警察官駐在所、郵便局があったが、上方の二戸を残してすべて水没する。その対岸の岩鍋は戸数一一戸、白滝鉱山と三島を結ぶ索道の中継駅で、索道の原動所もあったが、下方の集落は水没、上方の集落のみが水没をまぬがれた。水没をまぬがれた部分には横藪から役場、郵便局、警察官駐在所が移転してきて、新たに金砂地区の行政の中心地となる。信生は三戸の小集落で全戸水没、柳瀬は戸数八戸、折坂は戸数一〇戸余で、共に農業集落であったが、柳瀬は一戸、折坂は二戸を残して集落の大半が水没した。ダムサイト下手の脇の谷は、戸数五戸、水没はまぬがれたが、ダム建設の影響で全戸立退きをする。
 立退き住民の移転先をみると、銅山川流域の近隣集落に移転しているものと、宇摩平野の諸集落に移転しているものが多く、比較的遠隔の地で新居浜市・周桑平野等であり、他の地区にはほとんど見られない。銅山川流域の近隣集落に移転したものも再度宇摩平野に離村した者が多いので、最終的には水没集落の住民の多くは、伊予三島市・川之江市の市街地の周辺に移転したものが多い(図6―11)。移転後の住民の生業は移転先で農地を求めて農業を営んでいるものも一部はいるか、その大部分は上木建築業に従事したり、工場に勤めたりした者が多い。金砂ダムの立退き住民の移転先は、その後の高度経済成長期の銅山川流域の住民の移転先を先導するものであったといえる。

 富郷ダムに沈む村

 金砂湖の上手、渓谷美で知られる富郷渓谷の上流に、現在富郷ダムが建設中である。このダムは吉野川下流の洪水調節と伊予三島市・川之江市へ上水道用水・工業用水を供給するものである。ダムの堤高は一一一m、総貯水量は五二〇〇万立方mで、県下最大のダムである。このダムの建設によって、ダム上流の松野・寺野・宮城・葛川・城師の五集落が水没し、戸女・折宇の二集落が少数残存集落として住民が離村することになっている。
 ダム建設に伴う水没面積は、山林一〇五ha、田〇・四ha、畑一八ha、宅地五haであり、水没住宅は六二戸である。水没補償は地元住民の結成する富郷ダム建設同志会と建設省の間で交渉され、種別平均価格で、宅地は一平方m当たり二万一一〇〇円、田は一〇アール当たり三〇七万二〇〇〇円、畑は同二四八万九〇〇〇円、山林は同八〇万円で、昭和六〇年同意された。地権者と建設省の交渉はこの基準のもとに個別に行われ、住民の多くは昭和六一年から六二年にかけて随時移転していった。
 住民の移転先をみると、昭和六二年七月現在の移転世帯六八のうち、三六世帯(五三%)が伊予三島市の市街地周辺へ、一九世帯(二八%)が土居町となっており、他に新居浜市七世帯、別子山村三世帯などがある。これてみると、住民の移転先は宇摩郡の平野部のなかで従来密接な関係をもっていた地区であるといえる(図6―12)。世帯ぐるみの移転が比較的近接地になされるのは、移転先の地理的事情に明るく、知人・親戚などが比較的多いこと、転出後の山林の管理に便利であることによるものと思われる。







図6-11 柳瀬ダムによる水没集落の住民の移転先

図6-11 柳瀬ダムによる水没集落の住民の移転先


図6-12 富郷ダム水没集落の住民の移転先

図6-12 富郷ダム水没集落の住民の移転先