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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

四 別子山村の集落の変貌

 別子山村の集落の特色

 別子山村は銅山川の源流に位置する。周囲を標高一六〇〇mから一七〇〇m程度の壮年期の山地に囲繞された隔絶山村は落人の村にふさわしく、落人伝説を伝える。別子山村の地名は、鎌倉時代の文治五年(一一八九)近江国北泉の住人近藤平之亟藤原季晴がこの地に来て、その子孫が流域一帯の土地を拓いたこと、すなわち「子を別けた山村」に由来するという。また、寿永年間(一一八二~一一八五)には平家の落人が住みついた村とも伝える。隔絶山村として、落人の伝承を伝えるこの村は、中世の村落支配形態である名がおそくまでみられ、独立百姓である本百姓の数は少なかったという。しかしながら、このような隔絶山村は元禄四年(一六九一)わが国屈指の別子銅山が住友家によって開発されるに及び、その影響のもとに急速に変貌していく。明治年間(一八六八~一九一二)には中世的村落支配の名残はもう完全に払拭されていた。
 明治年間の別子山村の集落は、別子銅山の鉱業集落からなる銅山部落と、弟地以東の土着住民からなる本村部落に区分されていた。銅山部落と本村部落はその性格をまったく異にしており、別子山村はこの異質の二つの社会から構成されていた。また鉱業集落に付随して発生した林業集落もみられたが、これも外来者から構成された集落で、本村部落とは異質のものであったといえる。

 旧別子の鉱業集落

 銅山川の支流足谷川流域は現在旧別子と呼ばれる鉱業集落の廃墟である。ここには元禄四年の別子銅山の開坑以来鉱業集落が成立し、明治年間の最盛期には、鉱山労働者とその家族を合わせると、一万人をこす大集落が現出していた。明治三四年の資料によると、銅山部落は八つの集落から構成され、戸数六三〇、人口四四五〇を数えた。人口は本籍人口一四九二に対して、寄留人口二八五八であり、銅山部落は他地区からの寄留人の多い集落であることがわかる。各種落はそれぞれに職種によって住み分けがなされ、おのずから特色があった。また集落は冠婚葬祭の単位でもあった(表6―12)。
 このような地縁的組織とは別に、明治年間の銅山部落には飯場制度があり、社会的、経済的に大きな機能を発揮した。明治三七年(一九〇四)住友家によって飯場制度の改革が断行されるが、それまで旧別子には一七の飯場があった。飯場には鉱夫、手子・日用の三種類があったが、その主体は鉱夫飯場であった。鉱夫飯場の組織は、飯場頭、その配下の鉱夫、手子、見習から構成され、その成員は一〇〇~二〇〇人にも達した(写真6―20)。鉱夫となるためには、どこかの飯場に入り、見習となって飯場の雑事に従事する。次いで鉱夫の手伝としての手子となり、そのかたわら採鉱の技術を修得し、鉱夫取立式の儀式をへて、はじめて鉱夫となった。取立式では、職親・職兄が指定され、これらと擬制的な親子・兄弟の関係をもつ。飯場頭の勢力は絶大で、鉱区の請負いは飯場頭が行い、賃金も会社から飯場頭に支払われた。
 鉱山集落のなかには、役場、郵便局、小学校はもとより、商店、旅館、料亭が賑わい、銀行、病院、劇場、醸造所もあった。明治一七年(一八八四)設立の住友病院、同一九年設立の私立住友小学校は、共に県下でも最も設備のすぐれたものであったという。また明治中期の小足谷にあった劇場は収容人員一〇〇〇人をこす大劇場で、幅一八mの回り舞台では上方の歌舞伎役者の名演技もしばしば演じられた。別子銅山の鉱業集落は、明治年間には東予のみならず、県下の文化施設の最先端のものを誇った。
 繁栄を誇ったこの鉱業集落も、明治三二年(一八九九)の大水害を契機に衰退に向かう。この大水害では鉱業集落の家屋は倒壊流失し、死者二四一人、行方不明二七一人、その惨状は目をおおうものであったという。大水害後、鉱山長屋や諸施設は復興されたが、同四四年(一九一一)日浦~東平間の第三通洞が完成し、鉱石の銅山嶺北側への搬出が便利になると共に、この鉱業集落は淋れて行き、大正五年(一九一六)採鉱本部が銅山嶺の北側、東平の地に移転していくに及んで、まったくの廃墟となる。

 筏津の鉱業集落

 筏津は別子山村役場のある弟地の東方にある鉱山集落であった。別子銅山の一つである筏津坑は明治一一年(一八七八)に開坑、同三四年(一九〇一)休山したが、のち大正年間に再開されたものである。この鉱山集落は銅山川の谷底から山腹斜面にかけてひな段状の集落が形成されていた。鉱業集落は一般的には職制ごとに住宅団地を構成するというが、明治四八年閉山する以前の筏津の場合もそれは見事に具現されていた。北斜面に立地する筏津の集落は、石垣でもって階段状の集落となっていたが、上段が職員住宅、下段が鉱夫長屋となり、集落構成前職階性を反映していた。最上段に居住するものは筏津の責任者である一級社員(課長代理)で、その下にニ級社員(旧呼称主任、坑外に一人、坑内に三人)、三級社員(旧呼称担任、坑内五人)が居住し、最下段の鉱夫長屋に五級・六級職員(旧呼称労務者―鉱夫・支柱夫・運搬夫)が居住していた。住宅の規格も上段ほど大きく、一級住宅は五部屋で延べ二九畳、二級住宅は四部屋延べ二一畳、三級住宅は四部屋一八畳であるのに対して、鉱夫長屋は三部屋一二畳にすぎない。棟割長屋の鉱夫の住宅には、炊事場と便所はなく、屋外に共同の炊事場と便所があった。四級職員(旧呼称職長)の住宅は少し離れた陰地にあるが、かつては鉱夫長屋の中にあり、鉱夫長屋は、かつては仕事上の責任者である班長を中心に構成されていたという(図6―10)。
 筏津の鉱業集落には、映画館、病院、配給所、理髪店もあり、これらの施設は住友の社員のみでなく、ひろく別子山村の住民も利用できた。鉱業集落の社会組織は、職員と鉱夫では別々に組織され、それが冠婚葬祭の単位であり、税金徴収や公報配布など行政の末端組織としても機能した。筏津の鉱業集落は、昭和四八年別子銅山が閉山するに及んで撒収され、その廃虚には、別子山村によって宿泊施設の筏津山荘が建設され、鉱山展示場となった筏津の廃坑と共に、別子山村の観光センターとして生まれかわっている。

 林業集落中七番

 昭和四八年、別子銅山閉山時の別子山村の林野は七〇〇〇haであり、うち国有林が五八〇〇ha、住宅林業の社有林が七八〇haであった。国有林の大部分は住友林業の借地となっていたので、別子山村の林野の六〇%は住友林業の支配するところであった。住友林業は山林経営を直営から請負へと移行させ、昭和四八年現在では別子山村に在住する住友林業の社員は、わずかに三名であった。他は請負師の手によって、その経営がなされていた。請負師は昭和三〇年ころには中七番に三人、葛籠尾に二人、竹ヶ市に一人、伊予三島市富郷地区の城師に一人いたが、同四八年には、中七番に一人、竹ケ市と城師に各一人の計三人に減少していた。このうち請負師のもとに純林業集落が形成されていたのは中七番であった。
 中七番の集落の起源については詳かにできないが、すでに明治中期には集落が存在していた。大正八年(一九一九)には三回、九七人の集落があり、同九年には旧別子の小足谷から小学校の分教場がここに移動してきている。この集落は集落成立の当初より住友林業の林業集落としての性格を持続していたといえる。
 昭和四八年三月現在、中七番には二二世帯二七人の林業労務者が定住し、通勤労務者五人を合わせて三二名の林業労務者が存在した。これらの林業労務者は請負師Yの配下に、伐採組・搬出組・除伐・手入組・間伐組を組織する。それぞれの組には仕事の責任者として班長がいるが、この集落の社会・経済上の実権はYに集中している。林業労務に要する資材はすべてYの負担であり、Yが住友林業からの請負高は林業労務者には明らかにされない。賃金は伐採班・搬出班は平等割であり、Yより直接支給されるが、除伐・手人班・間伐班は出来高払であり、それぞれの班長の手をへて支給される。生活に必要な食料・燃料等はYが一括購入し、各自に支給される。賃金は各月ごとに概算払いされ、年一回現物支給しかものを差引いて清算される。この集落では、請負師Yは親方と呼ばれ、林業労務者は下子とよばれ、それに従属する。
 林業労務は小グループによる共同請か多く、請負責任者は世話役的な性格に転化するなかで、中七番の林業集落は、旧来の親方―子方的な性格を温存している。飯場頭を中心とした鉱業集落の前近代性が、形態をかえて住友林業配下の林業集落に温存されていると見ることができる。
 請負師Yが美川村から中七番に林業労務の仕事で入山したのは昭和二八年であった。彼は当初四国林業(現在の住友林業)の索道架設のために入山したが、四国林業にすすめられ、翌年より中七番で林業請負師となる。彼は下子を旧来の仕事仲間や、知人を通じて集める。昭和三〇年当時には中七番にはYを含めて三人の請負師がいたが、同三三年と四〇年に他の二人の請負師は下山した。Yは下山した請負師の下子も吸収し、一つの林業労務集団を結成したという。Yの配下の林業労務班員の中には、親子・兄弟・親戚・知人などの関係が濃密であり、このことが寄せ合い世帯からなる中七番の集落組織を強固にしているといえる(表6―13)。
 昭和六〇年中七番の集落を再訪してみると、請負師Yは健在であったが、林業集落の規模は著しく縮小していた。Y配下の林業労務者は伐出班五名、除伐・手人班三班一五名から成っていたが、中七番に居住するものは、Y夫妻以外には伐出班のうち四名と、除伐・千人班のうち一班三名のみであり、他は別子山村の本村部落に在住するものであった。昭和四八年当時の林業労務者の大半は離村し、空屋のみの目だつ淋しい林業集落にと変貌していた。

 本村の集落

 別子山村の弟地以東の集落は、別子銅山開坑以前の成立になる集落であり、銅山部落に対して本村部落と呼称されてきた。本村部落には、西から弟地・瀬場・床鍋・保上野・肉淵・芋野・小美野・瓜生野・大湯・谷・横道・大本・竹ヶ市・大野の諸集落があった。これらの本村部落は通常の山間集落とは性格を異にし、鉱業集落に隣接した奥地ほど近代的要素を多分にもっていた。それは銅山に近接した集落ほど、その影響のもとに、旧来の山村の性格を喪失していったものとみることができる。
 弟地は本村部落の最西端に位置し、旧別子にも近く、また大正年間再開された筏津坑にも隣接する。いわば本村部落と鉱業集落を結ぶ接点に立地する集落である。大正五年(一九一六)旧別子が廃墟になってからは、その地にあった公共施設―役場、警察官駐在所、郵便局など―が移動してきて行政の中心となった。銅山に近接しているところから、その影響のもとに、集落の変質は著しかった。集落周辺の林野はすべて住友林業の社有林である。自家菜園程度の常畑しか所有しないこの集落では、自営農林業の成立は不可能である。大正四年二五戸の集落は、昭和四八年には四二戸に増加していたが、それは別子銅山筏津坑に働くものや、住友林業の林業労務者、それに役場、郵便局等の吏員の増加によるものである。昭和四八年の四ニ戸のうち、住民の由来をみると、明治以来存続している家は二五戸に対して、大正以降転入してきた家が一六戸を数える。住民の生業の主なものは、住友林業六、住友鉱山六、公務員一〇、出稼ぎ六などである。住民の移動が激しく、自営農林業が皆無であるところからもわかるように、山間部にありながら、旧来の山村の姿をまったく失った都市的集落であった。昭和六〇年の集落規模は世帯数三六、人口七三である。
 保土野は本村部落のほぼ中央に位置する。小学校と中学校があるので、教員世帯もあるが、それを除けば昭和四七年の戸数は一六であり、大正四年の一四戸とさしたる変動はみられなかった。しかしながら、この集落も明治年間の戸数がそのまま存続しているのではない。住民によって土着戸と認められているのは六戸であり、他は明治以降の転入戸である。住民の新陳代謝はかなり激しいといえる。この集落には一二名持の共有林が存在するが、それを所持するのは、ほとんど士着戸である。この集落は山林・耕地を所有し、農林業に生活の基盤をおく土着住民と、林業労務など賃労働に依存する転入戸より構成されている集落といえる(表6―14)。
 谷・横道・大元・大湯は別子山村の東方に位置し、別子銅山との関係は比較的稀薄である。集落は部分的には旧来の姿も温存している。明治二二年の土地所有の構成によると、住民間に土地所有の格差が大きいこと、それを補うかのごとく共有林が広いことが特色といえる。共有林は明治年間には、焼畑の造成や薪炭生産に利用されていたが、大正年間までに私有地に随時分割されていった。その過程に多くの林野が住友家に売却されていった。
 これらの集落では、田畑三~四反、山林四~五町歩が一家督をなし、集落ごとにほぼ戸数が決まっていた。谷と大湯はそれぞれ三戸前、横道と大元はそれぞれ二戸前の集落であり、明治から大正にかけては、戸数の変動はまったくみられなかった。その間も家の転退はあったが、それらは転入戸によって常に補充されていた。戸数が減少してきたのは昭和になってからであり、昭和四九年現在は谷二戸、横道二戸、大元一戸、大湯一戸となり、昭和六〇年現在も、そのままの戸数が継続している。住民は生業を農林業においている点が、前記の集落とは異なる。ただし住友との関係が皆無であったわけではない。昭和の初期の一〇戸の生業を復元すると、住友鉱山に働くもの四戸、住友鉱山に納入する木炭を生産するもの一戸を数える。このように住友との関係はあるが、常に農地・山林を基盤とした生活であった点が前記の弟地・保土野とは異なる。なお谷・横道の四戸は、五町歩程度の共有林を割山形態においていまだに保存している。









表6-12 明治34年の別子山村銅山部落の戸数・人口・集落の特色

表6-12 明治34年の別子山村銅山部落の戸数・人口・集落の特色


図6-10 別子山村の鉱業集落筏津の集落構成

図6-10 別子山村の鉱業集落筏津の集落構成


表6-13 別子山村の林業集落中七番の住民構成

表6-13 別子山村の林業集落中七番の住民構成


表6-14 別子山村の農業集落保土野の住民構成

表6-14 別子山村の農業集落保土野の住民構成