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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

四 銅山川流域の林業

 林業の地位

 法皇山脈の南を西から東に流れる銅山川流域は、東予の林産資源の豊庫である。この地域は三波川系の結晶片岩の風化した沃土と一七〇〇㎜に達する年降水量に恵まれ、すぎ・ひのきの美林を生んだ。しかしながら、この地域は林業の発達では、同じ東予でも加茂川流域に大きく遅れをとった。その最大の要因は、銅山川が徳島県に流れ下り、木材の流送路として利用しがたく、木材を三島・川之江方面に搬出することが困難であったことに求められる。
 銅山川流域の木材の生産が多くなったのは、昭和一一年に掘切峠に自動車道が通じ、さらに同三五年に法皇トンネルが開通して以降である。同六〇年の銅山川流域三市町村―伊予三島市・別子山村・新宮村の素材生産量は三万一八四六立方mで、県の四・四%を占め、東予随一の素材生産量を占めるに至っている(写真6―8)。このうち民有林材が九三・五%、国有林材が六・五%を占めている。同地域のしいたけの生産量は、昭和六〇年現在、三六〇五㎏であり、県の〇・四%を占めるにすぎず、しいたけの生産地としては、その地位はきわめて低い。

 林業の発達

 銅山川流域の林業の発達が遅れたのは、一に交通の不便さに起因する。銅山川流域の山村と川之江・三島などのある宇摩平野を結ぶ交通路は法皇山脈を越える峠道の険阻な山道であった。これらの山道は西から峨ぞう(やまかんむりのくら)越(一ニ五二m)、寒川越(七九六m)、翠波越(六九七m)、掘切峠(四九四m)などの峠道があったが、標高五〇〇mから一〇〇〇m余にも及ぶ険わしい峠道を荷物を背負って越すには、片道四時間から六時間も要し、木材の搬出は容易ではなかった。
 明治年間から大正初期にかけては、銅山川流域の木材の搬出はもっぱら駄馬と仲持といわれる担夫に頼った。仲持に従事するものは、男女の別はなかったが、男は負子で、女は負縄で三椏・楮・木材・木炭を搬出した。壮年男子では二〇貫を背負うのが一人役と見なされたが、なかには三〇貫余を背負う壮者もいた。木材はできるだけ重量を軽減し運搬を容易にするために、山中で長さ一間の板に挽いたものが搬出された。板材の加工は木挽によって鋸でなされたが、大正年間になると水車動力を利用する製材、さらに大正末年になると石油発動機を動力とする移動製材も普及していった。
 銅山川流域を主体とする宇摩郡の明治三八年(一九〇五)の用材生産量は、丸材及び角材二〇万才(県の一・四%)、挽材二・三万坪(県の七・三%)、杉皮一〇五五坪(県の〇・四%)であり、隣接の新居郡などと比べると、その生産量はきわめて少ない。銅山川流域の木材生産が盛んになったのは大正年間以降であるが、その契機となったのは、銅山川による木材の流送と、索道の普及であった。
 銅山川の木材の流送は、大正初期ころから開始される。元来、銅山川では木材の流送は行われていなかったので、木材の流送にたずさわる流材師は徳島県の山城村あたりから出稼ぎに来る者が多かった。木材の流送は銅山川の本流では別子山村の保土野あたりから随所で行われた。支流では落合川・猿田川・中ノ川・馬立川などでも行われたが、水量の少ない支流では、材木と苔で水を堰き止める鉄砲堰を作って流送することもあった。銅山川は急流である上に、岩礁も多く、木材の流送には適していなかったので、筏流しは行われず、もっぱら管流しが行われた。木材は徳島県の川口あたりまで流送されるものもあったが、途中の富郷橋・岩鍋・新宮の渡しなどの地点でアバといわれる網で堰き止められ、それが陸揚げされ、索道や仲持によって三島・川之江方面に搬出されるものも多かった。
 索道は大正八年(一九一九)高知県大川村の白滝鉱山の鉱石運搬用のものが、白滝から三島の金子まで架設され、その中継駅が銅山川の山村の各集落に設けられた。その駅を上手からあげると、城師山・葛川・松野・藤原・下猿田・豊坂・下長瀬・小頃須・岩鍋などであった。これら中継駅からは、木材・木炭・三椏などの山開部の物資が積み込まれ、三島に搬出され、仲持に代わって、林産物の重要な搬出機関となった(図6―3)。索道の架設後、仲持は中継駅までの物資の輸送を分担するようになるが、昭和初期より単線索道が普及すると、山元からの本材の搬出は索道にとって替わられ、仲持は次第に消滅していく。
 銅山川の木材生産が特に盛んになるのは、昭和一一年に掘切峠に自動車道が通じ、同三五年に法皇隧道が貫通して以降である。特に後者は富郷・金砂地区の林業発展に人きな刺激を与えた。法皇隧道は、昭和二九年銅山川流域の富郷村と金砂忖が伊予三島市に合併し、さらに同三一年富郷・金砂の両森林組合が伊予三島森林組合と合併したことを契機に、嶺北と嶺南を結ぶ幹線ルートとして建設が計画された。トンネル掘削は、伊予三島森林組合が農林漁業金融公庫から資金を借り入れて行われた。昭和三二年に着工された工事は、途中断層破砕帯にともなう湧水などで難渋しながら、事業費二億七千力円を要して同三五年完成した。この隧道の完成によって、富郷・金砂・別子山方面の木材は、トラック便にて伊予三島方面に搬出されるようになった。
 銅山川流域の植林は部分的には藩政時代にさかのぼるものもあるが、その多くは明治末年以降である。富郷地区で植林熱が明治末年から大正年間にかけて高まったのは、藩政時代に植栽されていた下猿田の杉材が樋材としては最高級品との評判を得て、明治末年奈良の大桶師に高価に買い取られたこと、また同時期に銅山川の木材の流送が始まったこと、さらには大正八年(一九一九)土佐白滝鉱山から三島への鉱石運搬用の索道が架設されたことなどに刺激されたものである。猿田地区で富郷村の村有林一〇〇町歩が植林されたのも大正年間であった。また新立村では、明治三二年(一八九九)に村長石川理吾郎が奈良県吉野におもむき、その技術を導入し、植林を奨励したので、明治末年五万本以上の植栽をしている林業家が三〇戸程度も存在した。
 しかしながら植林事業は植栽してから伐採するまで長期の投資を要するので、輸送条件の十分にととのわない銅山川流域ではやがて下火になっていく。植林事業が本格化したのは、法皇隧道の貫通した昭和三五年前後からである。同五五年現在の伊予三島市の民有林の人工林齢級構成をみても、その七一%は二五年生以下の若齢級となっている。

 別子銅山と製炭業の発達

 木材輸送に不便であった銅山川流域は、用材の生産では県内他地区に遅れをとったが、木炭の生産では、明治年間県下の重要な地位を占めていた。明治三八年(一九〇五)の愛媛県統計書によると、銅山川流域を主体とした宇摩郡の木炭生産量は二四・六万貫に達し、県下の五・五%を占めていた。この生産額は南北宇和郡・温泉郡・越智郡・喜多郡に次ぎ、銅山川流域が当時県下の主要な製炭地域であったことがわかる。銅山川流域に早くから木炭生産が盛んになったのは、その源流地帯に開発された別子銅山との関連であったといえる。
 別子銅山は元禄四年(一六九一)に開坑されたが、銅の製錬には焼鉱用の薪と熔鉱用の木炭を大量に必要としたので、薪と木炭を得るために銅山備林が設定された。薪は重量が重いので、銅山近くの備林に求めたが、木炭は下流域の富郷地区や、遠くは土佐の本川村・大川村方面にまで求めた。製炭業に関係した集落については、天明六年(一七六八)の記録に「炭中宿、弟地他ニケ所」とあり、慶応四年(一八六八)には、炭山として、桑之川・中之川(高知県本川村)、坂瀬(高知県本山町)、小麦畝(高知県大川村)、炭中宿として、桑瀬(高知県本川村)、筏津(別子山村)、落合(伊予三島市富郷地区)が記録されている。明治・大正年間も、別子山村・富郷村の各地では製炭が盛んに行われ、その木炭は駄馬に積んで別子銅山まで運ばれた。
 製炭業に従事する者は、製炭夫のみでなく、その手伝や運搬人(仲持)などおびただしい数にのばった。文化元年(一八〇四)の覚書『予州別子立川両銅山仕格覚書』によって、諸働人のうち山林関係稼人をみると以下のごとくである。炭焼一三〇人、炭焼手伝一九〇人、炭山中持二四〇人、鍛冶炭焼三八人、炭中持一四四人、商薪伐五八人、山師家内一三三人、焼木伐一九〇人、日雇九〇人、計一二一三人となっており、この数は銅山稼人全体の三九%にも相当する。
 富郷地区の落合は、銅山川の支流を城師から二㎞さかのぼったところにある住友林業の管理人の居住する小集落である。ここは高知県方面からの木炭輸送の中継点であると共に、製炭業の盛んな一集落であった。昭和ニ九年に通じた林道沿いに墓石が四○~五〇基ほど乱立しており、墓の銘文には、天保・文政などの年号がかすかに読みとれる。これらの墓碑は、山中で製炭に従事した者を葬ったものと思われる。近くには記念碑が建っており、次のような碑文が刻まれている(写真6―9)。「明和元年申年十月幕府代官所より別子銅山御林炭山に御渡被下、爾来製炭の為め数度伐採をなす。大正一三年以来伐採地に植栽を開始し、昭和八年十月之を完了(昭和十一年建立碑文)」。
 落合は昭和一〇年ころまで、銅山用の木炭生産の行われた集落であった。製炭者は地元集落の者もあったが、その多くは高知県や宇摩郡出身の入稼者であり、鉱山会社直属の請負人「親方」に率いられて製炭に従事した。彼等は山中に家族ぐるみで小屋掛で生活する者が多く、米・麦、味噌・醤油などの食料は親方から前渡しされ、それを月々の炭焼き賃で清算した。炭焼き賃は親方の言うままであり、製炭者のなかには、借金をいつまでも持ち越したまま、山から山へとさながらジプシーのごとく、移動生活をしいられた者もいた(写真6―10)。

 住友林業

 銅山川流域に属する伊予三島市・新宮村・別子山村の三市町村の林野所有形態は、国有林一二七八ha(四・三%)、森林開発公団有林五二八ha(一・八%)、公有林二八五〇ha(九・六%)、私有林二万四九一六ha(八四・三%)となっている。これを県全体と比較してみると、国有林の比率が低く、私有林の比率が高いといえる。その私有林のなかでも特筆されるのは、住友林業の社有林の面積が高い比率を占めていることである(表6―6)。住友林業は別子銅山の銅山備林に起源する。別子銅山周辺の山林は銅の製錬用の薪や木炭を得るために、幕府から銅山付として払い下げられ、永年借用の特権を受けた。明治維新以降は期限付借地となり、昭和二七年その期限が満了し、国有林に返地することになっていたが、その大部分は昭和三二年住友林業の石鎚事業区の山林と営林署の間で交換が成立し、今日に至っている。
 住友林業による本格的な造林事業が始まったのは明治中期からで、明治二七(一八九四)最初の造林計画が施行される。明治三二年亜硫酸ガスで荒廃した銅山周辺の禿山は大水害にあい、旧別子の鉱山集落はひとたまりもなく崩壊流失した。この事態に遭遇して住友家の代理人鈴木馬左也は治山の急務を説き、造林事業を推進した。同三七年施業案が編成され、以後近代的造林技術の導入によって、林業経営が推進される。銅山川流域では、上流の別子山村から造林事業が推進されていくが、それはこの住友林業の山林経営に始まるものである。
 別子山村には昭和五九年現在四二六二ha(村の六〇%)の住友林業の社有林が存在するが、そのうち八七%が立木地、一三%が無立本地となっている。立木地のうち六八%にあたる二五四三haが人工林となっているが、その樹種構成をみると、ひのき二〇四六ha(八〇・五%)、すぎ三六二ha(一四・二%)、まつ二四ha(〇・九%)、その他針葉樹一一一ha(四・三%)となっており、ひのきの比率が圧倒的に高いのが特色である。それは、住友林業の用材が、銅山の坑木として利用され、それが主として、ひのき材であったこととも相関連する。
 また別子山村における住友林業の齢級構成をみると、五〇年生以上の人工林が二七%も占め、早くから人工造林が進展していたことがよくわかる。現在五〇年生以上の大径材は優良建築用材として、高価に販売されている。別子山村の住友林業の木材は、従来別子銅山の輸送施設を利用し、昭和二三年からは新たに架設された日浦~遠登志間の長距離索道を利用して、新居浜方面に輸送されていた。現在の木材輸送は、法皇隧道を経由するトラック便で伊予三島・新居浜方面に輸送されている。

 過疎の進行と林業経営

 銅山川流域の林業の核心地は伊予三島市の富郷地区である。この地区で昭和三五年の山林保有規模別林家数をみると、五~三〇haの中規模な山林所有者が五一・九%を占め、東予の代表的林業地域である西条市の加茂川流域と比べると、中規模林家の比率が高いのが大きな特色であった。これらの中規模林家は農業のかたわら林業を経営する農家であり、主として自家労力にて林業経営を営んできた階層である。一方、三〇ha以上の比較的大規模な林野所有の農家は、山村内の比較的零細な林野所有者の労力を活用し、林業経営をしてきた(表6―7)。この場合、第二次大戦前には、大山林所有者は零細山林所有者に山地の一部を焼畑用地として貸与し、その反対給付として植林を義務づける焼畑小作によって、容易に人工造林地を増加することもできた。
 銅山川流域の山村のなかでも金砂地区や新宮村の新立地区などでは、不在地主の山林が比較的広く、一方で零細な山林所有者の比率が高かった。これらの不在地主の山林経営は、地元の住民を山番に任命して行われるものが多かった。山番の仕事は境界の見回りや、地元住民を雇用して造林や保育を行うことであった。
 その銅山川流域は、昭和三五年以降の高度経済成長期に伊予三島市や川之江市の市街地方面に住民がなだれを打って離村し、西条市の加茂川流域などと共に、東予の典型的な過疎地域となった。過疎の進行は山村における労働力の不足をまねき、従来のような林業経営に変革を迫った。在村の比較的所有規模の大きい山林地主も、また山番によって山林経営をしていた不在地主も、共に林業労務者の確保が困難となる。そのような時点で新たに林業労務を担当したのは、林業組合の労務班であった。伊予三島市の林業労務班は過疎の進行しだした昭和四五年ころから活動を活発化するが、昭和五五年現在には、五〇人の労務者が九班に分かれて、造林、保有に従事していた。作業班は班長のもとに同一集落または近隣集落のもので構成される例が多かった。
 過疎の進行は中規模の山林所有者の離村を多数うながす。彼等は離村にあたっては、山林を資産としてそのまま山村に残しているものが多い。離村先は伊予三島市・川之江市方面の市街地であるので、彼等は山林の管理を日曜日などの通勤林業でおこなっているものが多い。しかしながら、木材価格の低迷する今日、人工林の保育作業などはおろそかにされ、住民を失なった山村の森林は次第にその荒廃を強めているといえる。









図6-3 銅山川流域の昭和初期の交通路

図6-3 銅山川流域の昭和初期の交通路


表6-6 銅山川流域の林野所有形態

表6-6 銅山川流域の林野所有形態


表6-7 銅山川流域山村の保有山林規模別林家数

表6-7 銅山川流域山村の保有山林規模別林家数