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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

五 伊予三島市・川之江市の商業

 伊予三島市の商業
 
 明治維新以後、職業が自由となり商業活動も拡大されていく。明治一七年(一八八四)の『宇摩郡地誌』によると、三島村の商業戸数は二五〇戸で、川之江村の六七五戸に次いで多く、川之江に次ぐ商業機能の集中をみており、川之江と共に宇摩郡経済の一中心地であったことがうかがえる。なお、上分村も多くて一二〇戸が商業であった。明治四三年の主要な商工業者を当時の三島商工会名簿から見ると、本町(一八)、浜・川原町(一七)、東町(二〇)に商工業者が比較的多いことがわかる。当時、製品や商品の大部分は船舶によって輸送されていた。また、三島の製紙工場は主として東町・上町方面に分布していたため、工場と港を結ぶ本町・浜・川原町・東町付近が商業地域として発達した。本町筋には大きな問屋が集まり、伊予三島銀行や西条銀行三島支店・第五十二銀行三島支店などが軒を並べて開設され、地域商業の支えとなっていた。
 当時の三島村役場は現在の本町光洋品店付近にあったが、明治三〇年に旧陣屋跡(現伊豫銀行)にあった小学校が真古町へ新築移転したため、旧小学校跡を町役場とした。三島警察署も明治三〇年川之江から三島神社前に移転しており、本町の両側には、真鍋家の屋敷をはじめ石川・前谷・尾崎・合田・石川・吉田・井原・大倉・仁野・住等の屋敷や倉庫群(蔵)が軒を並べていた。
 大正六年(一九一七)九月、三島駅が開設され、初めて交通手段として鉄道が脚光を浴びることとなった。それまで農道にすぎなかった新町道路を拡張し、駅前道路を旧国道まで開通させた。しかし、まだ大正時代の主たる輸送手段は海上交通であり、三島港から各地の港に向けて輸送が行われていた。三島港へ定期的に汽船が運航し始めたのは、明治末ごろで尼崎汽船の幸運輸丸等が一日一回寄港、明治三九年住友汽船の御代島丸が三日に一回、明治四一年から大阪商船の宇和島丸・大野川丸が二日に一回それぞれ上下便が寄港し、乗客や荷物を運んでいる。なお明治二八年からは宇摩汽船が三島と大阪の間を運航していた。大正に入ると、三年に東予運輸汽船の殿丸と、村上汽船の大成丸が上下一便寄港を始め、四年には東予運輸の第五東予丸が上下一便今治と観音寺-多度津間に就航している。したがって、大正時代には毎日上下四便ないし六便の定期貨客船が三島へ寄港し、阪神・高松・多度津・新居浜・今治・門司等へ連絡していたのである。三島港界わいのにぎわいが想像されるところである。
 昭和初期は、大正時代からの延長でたびたび経済恐慌に襲われ、三島の経済界も浮沈変動する者が多かった。本町商店街では、昭和八年ころ鉄骨のアーケードを立て、布製の幕をつけて商店街としての活動を始めていたが、太平洋戦争が始まり、各種の製品が制限されて、せっかく設置した鉄骨アーケードも一八年に供出のため取り除かれた。戦後の新町は、運動具店・靴店・雑貨店・洋品店・楽器店等が散発的に点在していたにすぎなかった。昭和二五年には、三島町で初めて道路の簡易舗装と街路灯の設置を行い、ここに新町商店街という名称を使用するようになった。二九年に道路舗装、翌三〇年にはアーケードを二〇〇万円かけて設置し、名実共に新しい商店街が形成された。戦後になって整備の立ち遅れていた本町商店街も、三一年に八〇〇万円をかけて東予地方一といわれる新しいアーケードを完成させ、三五年には道路のカラー舗装も完備し、面目を一新した。また、中通りも三二年に舗装工事が終わり、街灯を設置し、三九年にはアーケードを四〇〇万円かけて完成させ、商店街としての体裁を整えた。中央通り商店街も三六年に舗装を終わり、三七年に一七〇万円かけてアーケードを設置した。四五年には新町商店街と本町商店街のアーケードが相次いで改装され、面目を一新した。さらに、四七年には新町の舗装も一新され、五五年には中通りもカラー舗装が完成した。こうして市内の主要商店街が形成されてきたが、近年においてはマイカーが著しく普及し、消費生活が向上すると共に生活範囲が拡大された。特に、駐車場の確保と相まって、フジ・ママイ・ダイエー・ディックなどの中・大型専門店が商店街縁辺に立地し、市内の人・物の流れを変えてきつつある。
 以上のような歴史をもつ四つの商店街と駅前商店街の業種構成を示したのが図5-23・写真5-16である。伊予三島市で商店密度が八〇%と最も高い新町商店街は衣料品店が二三店(五二店中四四%)と最も多く、日用雑貨、文具店が七店でこれに続く。新町商店街は駅に近く、路地裏には飲食店が多く歓楽街的要素も多少ながらみうけられる。この新町商店街の西にほぼ南北に約三〇〇mにわたって駅前商店街がある。ここは駅と駅前のトーヤデパートを南の核とし、北には国道一一号をへだててはいるがスーパーフジ三島店が昭和五二年に立地したことにより最も人通りの多い商店街となっている。なお、昭和五七年八月二九日の通行量調査で一番歩行者が多かったのはトーヤデパート前を駅からフジに向かう人で一八一八人、二番は新町商店街を東から西へ向かう人で一二六七人であった。駅前商店街としての特色は駅周辺にみられる飲食店や飲食料品店の立地である。旅館や銀行、生命保険、病院なども目立っている。
 駅前通りの北部を新町に平行に東へ中央通り商店街が約三〇〇m伸びている。東側七〇mにはアーケードの設置もみられるが、ここには飲食料品店が一〇店と最も多く、ついで日用雑貨店の八、衣料品店の五などが目立つ程度である。商店率は七〇%である。
 藩政時代から三島町時代には郡役所や役場などがおかれ、この地方の中心地であった本町商店街は、東西に約二〇〇mのアーケード街を形成している。そして今もかつての繁栄のなごりが、二つの銀行の存在や商店率が七五%もあることにうかがえる。業種構成では衣料品店が九で三〇%を占めてトップで、飲食料品店の五、飲食店、メガネ・時計店各三などがつづいている。
 新町の東側には約一五〇mと短いながらもアーケード街をなす中通り商店街がある。飲食料品店が六店と最も多く、飲食店四、はきもの三、雑貨三などがつづいている。
 なお、昭和六〇年の伊予三島市全体の商店数は八〇五で、小売業六三六店(七九%)、卸売業一六九店(二一%)となっている。この他に二七五店の飲食店がある。年間商品販売額一五〇一億円のうち卸売業七九・七%、小売業二〇・三%で卸売業の販売額が極めて大きい。小売業のなかでは飲食料品店が小売商店数の三六・五%、小売業販売額の三一・九%を占めてウェイトが高い。以下、その他の小売店、衣服・身のまわり小売店となっている(表5-32)。

 川之江市の商業

 昭和六〇年の川之江市の商店数は七三五で、小売業六一四店(八三・五%)、卸売業一二一店(一六・五%)の割合である。その他に二〇二店の飲食店がある(五七年統計)。年間商品販売額六七三億円のうちわけは卸売業五五%、小売業四五%で伊予三島市の割合ほど片寄ってはいないが、卸売業の占める割合が多い。小売業のなかでは飲食料品店が小売商店数の三七・八%、小売業販売額の二九・二%を占め最もウェイトが高い(表5-33)。
 川之江市の小売店舗の集積地区は川之江地区ではJR川之江駅通りとそれに接続する栄町商店街、国道一一号沿いの港通りや栄町と国道一一号を結ぶフジ川之江店付近と旧国道一九二号沿線、それに旧川之江小学校跡地の栄町駐車場付近などである。また、国道一一号沿線は自動車利用の消費者を対象に北へは八幡神社方面に、西へは井地から伊予三島市との境界付近に小売店舗の分布がみられる。東へは川之江高校前に新しい商店が立地している。この川之江地区は鉄道、バス交通のターミナルに近接し、川之江市の人口の三分の一の集積をみる。なかでも駅通りと栄町商店街にはあわせて一二六店舗があり、川之江市の中心商店街となっている。ここは本市唯一のテント式アーケードを持つ商店街で、駅通り商店街は川之江駅から国道一一号までの約四〇〇mに店舗数四七店、図5-24に示すごとく駅より栄町商店街との接点までは飲食店が多く、それより西側へは衣料品店を中心に各種店舗が混在している。店舗率は六七%である。この駅通りにT字型に約六〇〇mにわたり南へ延びる栄町商店街は店舗率も八八%と市内で一番高く、川之江市で最もまとまった商店街といえる。業種構成をみると北の駅側には文化品、衣料品店が多く、南側には飲食、サービスの比率が高い。ここは車両通行を禁止していることや中央部西にフジ川之江店、東には市営駐車場、南には旧国道一九二号や川之江高校・四国中央病院へ通じる市道、金融機関等も多く顧客の吸引要素が大で人通りも最大である。旧川之江小学校跡地は各種催物会場としてよく利用され、体育館南には飲食店を中心に歓楽街的要素もみられる。またフジ川之江店の周辺部にも商店が集中しかけている。なお国道一一号沿線はガソリンスタンドや駐車場が多く金融や飲食料品店も多いが、商店密度は三八%とまだ低い。
 川之江地区の南に金生川を越えたところには市役所や郵便局などの公共施設に近接立地をみる金生地区の商店街がある。この金生地区の中心は市役所西の旧国道一九二号沿線の住吉とその東側に並行する旧土佐街道の大道から春日にかけてである。ここは市役所や病院といった顧客の吸引要素はあるが背後は中小の製紙工場や紙加工場の多い、どちらかといえば生産的要素が大である。
 この金生地区の南に接続する上分地区は、旧土佐街道沿いの古い商店街と旧街道沿い及び旧国道一九二号沿いの三本の商店街が低密度ながら形成されている。なお、国道一九二号バイパスの完成にともなって、その沿線にスーパーマーケットや自動車関係店、飲食店等の立地がみられる。この上分町は、金生町の下分とともに金生川河岸に沿った土佐街道の街村として発展した。図5-25は明治時代末の上分の中心地区を示したものである。旅館、呉服商、紙問屋、薬屋や菓子、タバコ、酒製造所等がみられ商業、サービス機能が集積し、上分地区のみならず、宇摩地方全域および徳島・高知方面とも深くかかわり、谷口の街村として交易の中心的役割を果たしていた。今も一部の旅館や酒造、金物屋には明治期のなごりをとどめている。
 現在、上分地区の商業の中心は旧国道沿い延長約六〇〇mほどの新町商店街に移った。新・本町合わせて八〇店舗あり、その業種構成をみると飲食料品店二一(二六%)、飲食店・理美容などのサービス業一四店が目立つ。小売業では川之江地区に次ぐ地位を保っている。しかし、買回り品店の比率は低く川之江地区や三島地区などへ流出していると思われる。ここでは旧国道一九二号沿いへの新しい商店街の形成はおくれている。それは新町と国道とが六〇~七〇mしか離れていないことと、小学校、製材所、病院、製紙工場などに広い用地を占められていたためである。むしろ、旧国道一九二号を越えて、一九二号バイパス沿いへの飲食店などの立地が目立ちはじめている。








図5-23 伊予三島市 中心商店街の形態と業種構成

図5-23 伊予三島市 中心商店街の形態と業種構成


表5-32 伊予三島市の産業分類別商店数・従業者数・年間販売額

表5-32 伊予三島市の産業分類別商店数・従業者数・年間販売額


表5-33 川之江市の産業分類別商店数・従業者数・年間販売額

表5-33 川之江市の産業分類別商店数・従業者数・年間販売額


図5-24 川之江市中心商店街の形態と業種構成

図5-24 川之江市中心商店街の形態と業種構成


図5-25 明治時代末の上分町の中心地

図5-25 明治時代末の上分町の中心地