データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

四 鉄道交通の発達

 四国初の官設鉄道
 
 愛媛県における鉄道の建設は私鉄によって始められた。明治二一年(一八八八)の伊予鉄道が我が国最初の軽便鉄道として松山-三津間を開業、同二五年(一八九二)には住友鉄道が新居浜-惣開-端出場間を開業した。隣の香川県でも明治二二年に丸亀-多度津-琴平間を開業し、同三〇年に更に丸亀-高松間を延長した讃岐鉄道があった。日清・日露戦争後、政府は国をあげての軍事輸送と、戦勝によって膨らんだ国内の輸送に対処するため、国内の幹線の一本化を必要と考え、明治三九年(一九〇六)、鉄道国有法が制定され、全国の大手私鉄は国に買収された。讃岐鉄道はこれより先の明治三七年に、山陽鉄道に吸収されるほうが、四国の交通発展のためによいという大局的見地から山陽鉄道に買収された。そして、同三九年に山陽鉄道は鉄道国有法によって国有鉄道となった。この年が四国の国鉄の始まりであり、以後八〇年余り予讃・土讃・高徳の各線を軸に地域社会に寄与するのである。
 四国の国有鉄道は、明治三九年山陽鉄道が買収になって、高松-琴平間を営業したのが最初であるが、その後、全国的に幹線の整備と地方連絡線の整備が行われた。同四五年に鉄道院多度津建設事務所が多度津に置かれ、多度津から西へ延長されていった。この多度津以西は、すでに明治二五年公布の鉄道敷設法で、四国予定線の一つ 「香川県下多度津ヨリ愛媛県下今治ヲ経テ松山に至ル鉄道」として決定されていたものであり、また同三〇年には四国鉄道が敷設免許の許可をうけた線路であったが、同鉄道の解散後は敷設免許を受けたものはなかった。この四国鉄道とは、明治二八年、三重県一志郡の小河義郎ほか三五名の発起で、讃岐鉄道の多度津と伊予鉄道の松山を連絡するため、松山から堀江・今治・小松・西条・川之江・観音寺を経て多度津に至る延長約九五哩(約一五二km)の鉄道を資本金三五○万万円で敷設せんと請願したもので、翌二九年に仮免許がおり、会社を松山において翌三〇年に免許状を申請し、下付せられたが、金融ひっぱくのため株金の払い込みができず、三一年に会社を解散したものである。
 ところが、明治四四年衆議院において、多度津-松山間の鉄道敷設に関する建議案が可決された。翌四五年、多度津-川之江間が第一期線に加えられ、大正元年(一九一二)度から五年度に至る五か年継続事業〔予算二二〇万円)で着工される運びとなった。建設上多度津線として大正元年一〇月まず多度津-観音寺間を起工、翌二年一二月これを開通、ついで五年四月観音寺-川之江間を開業した。これが四国ではじめての宮設鉄道であった。この区間には箕浦・余木間には予讃線初めてのトンネル工事があり、また川之江町の塩谷では掘割り工事があり、難工事で、その建設費は約一六五万円であった。
 川之江-伊予西条間は、建設上西条線と称したもので大正四年(一九一五)第一期線に加えられ、翌五年まず川之江-伊予三島間を起工、翌六年九月これを開通、さらに、八年九月伊予三島―伊予土居間、一〇年六月伊予土居-伊予西条間が開通、建設費は約三一四万円であった。道路が未整備で、交通・運輸手段の多くを海上に求めていた東予地方において、この鉄道敷設は陸上交通を飛躍的に発達させた。鉄道の西進と共に沿岸航路は次第に廃止され、三島-土居間を走っていた馬車なども鉄道にとって代わられた。その後、昭和八年に伊予寒川駅が開設された。
 一方、川之江・阿波池田間の鉄道建設は、愛媛、徳島両県を結ぶのみならず、近畿・四国・九州を結ぶ最短路線として、時間的にも距離的にも重要な意義のあるものであった。四国の豊富な森林資源の開発、特産物資の集散、文化の交流、国土総合開発に甚大な効果をもたらすものとして、大正三年以来度々国に請願し、敷設促進の運動をしてきた。その結果、大正一一年、「愛媛県川之江より徳島県池田付近に至る鉄道」の名称で一〇一号予定線に加えられた。しかしローカル線であり、山間部の難工事が予想され実現に至らず、昭和九年、鉄道代行の省営バスが開業された。

 戦後の国鉄の近代化
 
 終戦直後の混乱期を経て昭和二四年に公共企業体として新しく出発することになった国鉄は、相次ぐ近代化・合理化を推進した。まず、昭和二五年の準急行列車「せと」の運行であり、三二年には気動車が導入され、翌三三年には準急気動車「やしま」が高松―松山間に運転が開始され、三五年には気動車旅客駅赤星駅が設置された。こうした気動車化は同時に無煙化であり、四国の国鉄の無煙化は全国に先がけて実施され、四五年には完全無煙化が完了した。なお、三六年には急行「四国号」が、四七年には四国で初めての特急「しおかぜ号」がそれぞれ運転を開始した。四〇年代には自動信号化・CTC化(列車集中制御)・RC化なども進んだ。四五年には当地方最大の製紙会社である大王製紙㈱に専用貨物線が新設された(写真5-14)。
 伊予三島駅から発着する貨物は、トン数では国鉄四国総局管内でも例年上位で、貨物収入では第一位となっている。到着トン数ではパルプ用材を主とする林産品と、紙・パルプを主とする繊維工業・化学工業品で、五七年にはこれら上位三品目が九〇%を占めている。発送トン数では実に九九%以上が繊維工業品(紙)である。貨物輸送量はトラック輸送や海上輸送にとって代わられ、四六年をピークに減少傾向にある。到着トン数は四六年の六・三万トンに対し、五七年には五分の一の一・三万トンに減り、六〇年にはわずかに五六トンに激減した。これに対し、発送トン数は四六年の一九・三万トンに対し、五七年は二〇%減の一五・六万トン、六〇年には紙・パルプのみの一一・六万トンに減少した。
 伊予三島駅の駅舎は、長らく大正時代以来の建物を用いていたが、五〇年に新築された。新駅舎は四国では珍しい跨線橋式の鉄筋三階建てで、三階に出札室・待合室・改集札口・売店などがあり、駅の南北を結ぶ自由通路ともなっている。六一年現在、伊予三島駅に停車する列車は、上りは特急一三本、急行一本、普通一五本で、下りは特急一三本、急行二本、普通一六本である。
 六〇年の乗降客は一日平均一二二〇人で、四〇年以降減少の一途をたどっている(写真5-15)。