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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 その他の紙加工業

 元結・水引から紙加工品へ
 
 宇摩地方の紙加工業は、この地方の製紙業の関連産業として発達してきたものである。『松柏村誌』(明治四〇年)には「元結業ハ今ヲ去ル二百有余年以前の創業ニシテ原料ハ紙ヲ使用シ」とあり、紙加工の例としての元結の製造は元禄・宝永(一六八八~一七一一)にさかのぼると思われる。その後、明治になって断髪令が出て元結の使用が減少し、明治末から大正にかけて水引がこれにとって代わった。大正七年(一九一八)の宇摩郡の製紙は、日本屈指の製紙地としての地位を占めるにいたったが、その内容は、和紙を中心に紙種も豊富になり、合羽・油紙・状袋・紙帽子・紙糸・紙織物・水引などであった。同一二年ころ、三島の板貼乾燥表紙製造業者(二〇)が集まって伊予表紙組合を結成している。戦時色が濃厚になった昭和一五年には、森川孝夫らが三島町で伊予封筒組合を設立し、三島の紙販売業者も、このままでは産地問屋としての機能を発揮することができなくなるため、三島・川之江の紙販売問屋が中心となり、伊予紙元売卸商業組合を仁野勝造理事長の下に結成した。
 第二次世界大戦直後は物資不足の中、必需品の紙製品はよく売れたが、二四年ころからは不振となり転廃業する紙加工業者が多かった。しかし、朝鮮戦争時の特需で再び活況を呈した。昭和二六年に川之江・三島の三七業者が参加して四国紙紐工業組合(井原兼一組合長)が結成された。当時、包装資材の必需品として紙紐のシェアは拡大し発展していった。その後、紙紐は三三年ころまで盛んに使用されたが、化学製品の軽包装品やポリ製品に押されて後退した。昭和二九年の伊予三島市の紙製品の生産額の一位は封筒で一億九二〇〇万円、以ド紙袋一億四二五〇万円、表紙九〇〇〇万円、金封八七五〇万円、テープ五二〇〇万円、水引四〇〇〇万円、紙紐三一五○万円であった。昭和三七年には、川之江・伊予三島の一四業者により伊予荷札工業組合(石川善太郎組合長)が結成され、企業の激しい市場競争から協調時代への足掛かりを求め、業界を発展させるべく努力がなされた。このころから四五年にかけては紙バンドの全盛期となり、五〇〇〇錘を有する捻糸機がフル稼働しても需要に応じきれないほどであった。しかし、これも紙紐同様、化学製品が進出し始め、四○年代後半から次第に業績が低下し、廃業したり、水引捻紙加工や工業用紙バンド・特殊紙紐に転じていった。
 昭和三九年、高原慶一郎・高尾信一・横内修平・森川常太郎らの発起で愛媛県衛生紙綿協同組合(高原理事長)が設立された。この当時、衛生紙綿業界は創生期であった。中小企業の英知を結集し、衛生紙綿の宣伝、資材購入の合理化、資金の斡旋、優良品生産の研究などを行い、業界の発展を図った。こうして、衛生紙綿は品質を改良し、現在では五〇〇億円市場といわれるまでに発展した。この業界トップにまで急成長したユニチャーム㈱は昭和三六年創業で、川之江の金生工場を核に、市内の大成化工、国光製紙のほか、香川県豊浜町の四国中央工場、土居町の愛媛工場など九工場で従業員二〇九五名を有し、年商一〇八九億円をあげている。特に、生理用品と紙おむつは日本一の生産シェアを誇り、このほか健康と美容用品、トイレタリー用品、シルバー用品の五つの女性関連商品の総合企業として飛躍発展している。
 昭和四二年には、斉藤紙工の斉藤広良が提唱して伊予きもの文庫紙会を結成した。これは三六年ころから京都のきもの文庫紙メーカーからの注文が伊予三島・川之江の業者にあり、この方面へ進出していたからで、現在は斉藤紙工・カミイソ産商・ピープル星武・金星紙工・松本紙業・カワイチ・スミカワ紙工などがこれに参加している。昭和五五年には、伊予色紙短冊協同組合が設立され(合田正義理事長)、会員七社で色紙短冊の原材料の共同購入・共同宣伝と生産技術の向上を図っている。

 分布と現状

 昭和六〇年一二月末現在、伊予三島・川之江両商工会議所が調査した紙加工業実態調査書により、当地方の紙加工業の現状を、工場分布、製造品種、創業年次、生産額などについてみた。地区別形態別企業数を表5-22に示した。これによると伊予三島市の紙加工業者は八八で、村松町の二六をトップに宮川一八、寒川町一〇、中曽根町八などに多いが、市街地の宮川・中央・朝日・紙屋町などに二八もあり、その東に連続する下柏・上柏・村松を合わせると六一(七〇%)にも達し、市東部に偏る分布がみられる。法人企業は株式四一(四七%)、有限二五の計六六(七五%)で、個人は二二(二五%)である。川之江市の紙加工業者は一四一で、川之江町の五二をトップに金生町三六、妻鳥町三一、上分町一四で、ほぼ全市的に分布しているが、最近になって、五〇年に閉鎖された富士紡績川之江工場跡地や川滝・金田・妻鳥町南部などの南部郊外への分散立地の傾向がみられる。一方では、川之江市は土地が狭く地価が高いのがネックになって、第二、第三の工場が市外に流出している。それは四六年以降二三工場にも上っているが、このうち紙加工業一一社、製紙業三社と大半が紙関係である。最近では、五九年四月にチャーム工業㈱が隣県の香川県三豊郡豊浜町に第三の工場=四国中央工場(敷地面積六万三〇〇〇平方m)を新設するなど、流出先は三豊地区に集中している。県内では土居町に移転・新設のケースがみられる。地価の安さに税制上の優遇措置や建物、機械割り増し償却といった工場誘致のための優遇措置にひかれている。川之江市の紙加工業の法人企業は株式が六三(四五%)、有限三〇、合名一の九四社(六七%)で、個人企業が四七(三三%)で伊予三島市より個人企業の割合が高い。また四九企業(三五%)は製紙や紙卸商、紙販売、紙原材料その他との兼業企業である。両市とも紙加工業の分布については図5-17・18を参照されたい。
 中小零細企業の多い地場産業は、その存立基盤として多品種少量生産体制がいわれる。当地方の紙加工業もまさにその多品種少量生産を一大特色としている。昭和六〇年の両市の紙加工業の生産額は八〇五億円であったが、その品種別生産額を示したのが表5-23である。生産額の上位を占めたのはティッシュペーパー(九七億円)、紙おむつ(五九億円)、不織布(五七億円)などの新製品分野であった。四一年に上位にあった紙袋・包装紙・封筒・金封・紙バンドなどは、六〇年には一二位以下に低下している。次に、品種別企業数をみたのが表5-24である。三〇種以上に細分される品種であるが、水引細工関係品種の企業が最も多く、荷札・祝儀袋・紙函・文庫紙・包装紙・紙袋等細々した製品を加工する企業が多い。新興の紙おむつや衛生紙綿・不織布・蚊取マットなどは川之江市で主に加工されるのに対し、伊予三島市ではティッシュペーパー・小包紙・罫紙などの生産が目立っている。
 金封・紙函・文庫紙などの在来の紙加工生産分野では、多くの企業が平均二〇社以上の外注先をもっている。製造原価中、材料費が六〇~七〇%もの高い割合を占める紙加工業では、労務費・外注費のコストをいかに下げるかが最大の企業課題である。特に、加工工程における、折る、貼る、結ぶなどの手作業を全面的に家庭内職的な外注に依存することによりコストダウンをはかっている。分布図や実態調査書では両市で二二九社となっているが、未組織の極零細企業や家庭内職者数は相当多数存在し、それらがこうした多品種少量生産体制を底辺で支えているといえる。婦女子を中心とした労働、手作業の残存など家庭内職依存型産業ともいわれ、創業も比較的容易で表5-25に示すとおり、戦後の創業が八四%を占める中で、四〇年代が六七(二九%)、三〇年代五三(二三%)、五〇年代三八(一七%)となっている。創業は年々相次いでいる一方、倒産企業もかなり多い。特に、戦後四〇年がすぎ、創業経営者の世代交代期を迎え、交代、廃業がみられ、それらを機会に規模拡張や交通条件の良い地を求めて周辺部への立地移動も両市とも多くみられる。川之江市の国道一九二号バイパス沿線や川滝方面、香川県境方面の一一号沿線での立地や伊予三島市の郊外地域に分散立地がその例といえる(図5-17・18参照)。



表5-22 伊予三島・川之江両市の紙加工業の地区別・形態別企業数

表5-22 伊予三島・川之江両市の紙加工業の地区別・形態別企業数


図5-17 伊予三島市の製紙業及び紙加工業の分布

図5-17 伊予三島市の製紙業及び紙加工業の分布


図5-18 川之江市の製紙業及び紙加工業の分布

図5-18 川之江市の製紙業及び紙加工業の分布


表5-23 伊予三島・川之江両市の紙加工業の品種別生産額の推移

表5-23 伊予三島・川之江両市の紙加工業の品種別生産額の推移


表5-24 伊予三島・川之江両市の紙加工業の品種別企業数

表5-24 伊予三島・川之江両市の紙加工業の品種別企業数


表5-25 伊予三島・川之江両市の紙加工業の創業年次別企業数

表5-25 伊予三島・川之江両市の紙加工業の創業年次別企業数