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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 手漉和紙と水引

 手漉和紙

 愛媛県は和紙の生産で福井県に次いで全国第二位である。現在手漉和紙の生産者が四三軒(川之江一六・新宮一・東予市一八・松山一・五十崎五・野村一軒)あり、伊予和紙振興会と周桑和紙と大洲和紙の三つのグループに分かれ、それぞれ組合がある。
 宇摩地方(伊予和紙振興会)の和紙製造業者は、表5-20の如く一八軒に減少した。大倉甚右衛門が大正一五年に調べたときには、宇摩地方の和紙製造戸数は三〇七戸であった。久米康生著の昭和五三年発行『手すきの紙郷』によれば、川之江市川之江町が五軒、川之江市金生町が二〇軒、川之江市上分町が二軒、伊予三島市寒川町が一軒、伊予三島市金砂町が一軒、宇摩郡新宮村日浦が一軒、合計三〇軒宇摩地方で稼動していた。
 減少したのは老齢化し、後継者がないか、機械漉きに転向した例が多い。
 宇摩地方の製紙業の特色は、大王製紙・丸住製紙など日本一流の近代式洋紙の工場が臨海地域に立地し、活気を呈していること。手漉和紙は金生川の流域に十数軒残っているが、漉き手は男子が主である。大洲地方の天神産紙の漉き手は現在女性ばかりである。宇摩地方は西日本の紙都と言われ、八〇余の機械漉工場があり、地元の紙を原料として金封水引など日本一に紙加工業が盛んである。
 宇摩地方の製紙業の発達要因として、(1)明治大正昭和期の先覚者の出現である。明治期に抄紙を開拓した薦田篤平、販路を開拓して住治平、製紙技術の発明改善に貢献した篠原朔太郎、伊予紙同業組合をつくった谷井久太郎、三椏の仕入れや輸送に活躍した石川高雄、製紙業の近代化と町政に貢献した大西観市などがある。大西氏は大正九年に丸井工場に丸網式抄紙機を入れ電動化に成功している。戦時中は全国和紙ならびに洋紙統制会社の社長に就任し、製紙業界の発展に尽くした。戦後は丸井製紙の顧問、丸住製紙の会長を歴任し、マードック賞を受けている。昭和一八年創業の大王製紙(資本六六億、年商二一○○億)社長の井川伊勢吉は、明治四二年生まれで健在である。新聞用紙など現在日本のトップクラスである。伊予三島と川之江に工場をもち、紙屋町を形成し、水陸交通の便のよい立地条件で、銅山川の水を利用している。(2)企業心の強い住民性 宇摩地方の人は企業心が強く進歩的である。(3)交通の要路 三島川之江地方は、讃岐・伊予・阿波・土佐街道の交通の要路に当たり、水陸交通の便もよく、原料製品の仕入れ販売、情報にも恵まれている。(4)金生川の伏流水、銅山川の疎水 製紙に必要な工業用水に恵まれている。(5)手漉きより機械化合理化加工化 宇摩地方の製紙家は、手漉和紙独特の特色を生かすと共に、用途販路を拡大し、機械化・合理化、生産費を安くしている。また紙加工業が発達し、水引水引細工や金封封筒など日本一盛んである。競合地や発展途上国の製紙業を常に研究し、中国・インド・ネパール・タイなども視察し、報告書を出している。

 水引

 愛媛県の水引の近年の生産高は五〇億円で、信州飯田市の八〇億円に次ぐ日本の大産地である。第三位が京都の一〇億円で、以下金沢・美濃・越後加茂・佐賀・和歌山・伊賀上野・東京・名古屋に分布するが少量である。
 伊予の水引は表5-21の如く、その業者の分布は、川之江市の妻鳥町と伊予三島市の松柏町に限られている。五六人(昭和五六年度)の業者の創業年をみると明治四〇年代二、大正時代六、昭和戦前七、戦後四一で内訳は昭和二〇年代一五、昭和三〇年代一六、昭和四〇年代一〇軒である。
 伊予の水引業は競合地の飯田ほど、発達過程が研究されておらず、文献や史跡がない。藩政時代伊予は各藩が藩札用の和紙を漉いており、武士はマゲ(タブサ)を結うので元結を製造していた筈である。明治四年の断髪令で元結の需要は減った。これに代わったのが進物用、吉凶用に用うる水引である。水引は元結と製法が大差ないからである。元結が米糊を使うに対して水引はクレー粉(三石産)を使うので、原紙・布海苔・染料など同じである。
 伊予では明治三六年(一九〇三)に村松村に八四軒(全村一五〇軒)の元結業者があった記録がある。飯田市の文献によれば明治三五年に伊予が綿糸水引の生産に着手したので、飯田水引が打撃を受けた記録がある。
 初代水引組合長の片岡光邦(明治二六~昭和五五年)の談(昭和四二年一〇月八日)によれば、伊予の水引は大正初に出現し、大正一二年ころが全盛で、都会の水引市場を独占し、昭和二年の御大典に、伊予に五〇〇万本の水引が注文され活気を呈した。当時の写真や資料が残っている。片岡氏が大正末に水引業に転向するまでは、中国四国に父の代から元結の販売に出かけたという。
 昭和六年の全国水引シェアは、飯田五〇%、伊予四〇%、京都五%、その他五%であった。同年飯田の水引職人三五〇人、昭和一三年一〇〇〇人(養蚕不況のためであった)。
 戦後昭和三五年ころから技術革新で、手こぎ水引が機械化し、水引生産は生産過剰になり、川之江市のシンワ(井上)の如く、不織布製造に転換した業者もある。
 飯田と伊予とは水引の競合関係から補合関係にある。
 飯田の水引細工の原料の水引の四〇%は、地元の四軒の機械化で半分自給できるが、五〇%は伊予から送ってくるようになった。昭和五〇年八月恵那山トンネル八・四㎞を貫く中央高速道路の開通で、飯田名古屋間一〇〇kmが二時間の距離になり、伊予と飯田が結びついたからである。
 飯田には寛文一二年(一六七二)野州鳥山から転封し、紙業を奨励した藩主堀家の墓や、美濃から来た元結の元祖桜井文七(宝暦三年没)の墓や碑が長昌寺にある。
 京都の大徳寺黄梅院には「大日本水引元祖」の墓があり、技術は奈良県の八木から京都の上鴨の社家に伝わっている。水引細工の結納品は関西が華美で、関東が質素の風があり、飯田の企業は国風・木下・佐々木など伊予に比して大規模で、下請内職人数が多く、販路は東日本に多い。労賃は以前は飯田が安かったが、今は差が少なくなった。伊予には昔ながらの手漕ぎ水引を造っている家が二軒ある。


表5-20 宇摩地方(川之江市)の和紙製造業者名

表5-20 宇摩地方(川之江市)の和紙製造業者名


表5-21 伊予水引金封協同組合員名簿

表5-21 伊予水引金封協同組合員名簿