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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

五 土居町の養豚・養鶏

 土居町の畜産のあらまし

 土居町の畜産に関しては、終戦まで他の地域と違った特別な動きがあったということはなく、戦後食生活の変化等に伴って個々の農家が小規模ながら養豚・養鶏を行うようになったのが畜産業の始まりとされているが、本格的に行いだしたのは三二年に約四〇名が参加して長津農協養豚部会が結成されてからである。六一年現在、豚飼養総頭数は一万八一○○頭で大洲市(五万二一〇〇頭)、丹原町(二万一九〇○頭)、三瓶町(二万八〇〇頭)に次いで多く、採卵鶏飼養総羽数も三四万七八〇〇羽で東予市(四五万三八〇〇羽)、伊予三島市(四二万六八〇〇羽)、松山市(三五万八八〇〇羽)に次ぎ、養豚とともに四番目で県下を代表する畜産地域に成長している。農家が畜産に積極的に取り組んできた背景には、当地方が強風として知られる「やまじ」の吹きつける地域であり、たびたび農作物が壊滅的な被害を受けてきたという自然条件も強く影響している。農業生産額全体に占める畜産生産額の割合は三五年には約一五%にすぎなかったが、その後は着実に増加しており、四五年には約四七%に達した(表5-13)。五五年には耕種の一時的減少もあり、全体に占める割合は六六%にも達するなど、土居町の農業における畜産の地位はきわめて高いものとなっている。

 土居町の養豚

 戦後、資本が少なくて手軽にやれることから、長津地区の農家を中心に、各々が一~二頭の繁殖用めす豚を飼養することが行われだした。しかし、個々の農家の取り組みには限界があるため、三二年に浦川真一を中心に長津農協養豚部会が結成され、組織的に養豚を行う態勢が確立した。当初は、主に中ヨークシャー種が飼養されていたが、三七年ころからランドレース種が導入され、めす豚の供給範囲は四国全域に及ぶようになった。三〇年代後半から四〇年代前半にかけてはミカンの価格が暴落するという事態のあったことも、当時好調だった養豚業に転換する農家を多く生む原因ともなった。この傾向はその後も続いていたが、四八年におこった石油ショック以後、飼料代が異常なまでに暴騰したため、小規模経営を行うことが不可能となり、多頭飼養による合理的経営が主流を占めるようになった。四〇年に町内の農協が合併してからは土居町全域で養豚が行われ、四五年には飼養戸数は二八〇戸、総頭数一万二四〇頭(一戸平均三七頭)に達していたが、五五年には一二八戸に激減してしまった。専業農家による多頭飼養の傾向はその後も引き続いて進行しており、五九年八三戸(一戸平均二三九頭)、六一年六六戸(同二七四頭)となった(表5-14)。
 農業生産額全体に占める養豚生産額の割合は、三五年には五%にも満たなかったが、五九年には土居町農協が扱った分だけでも一四億三二〇〇万円で全体の二六%にも達している。三〇年代には水稲生産額が全体の四〇%以上を占めていたが、五九年にはわずか一五%に減少しているのときわめて対照的である。畜産業の場合、飼料を供給する商社との結びつきが強く、出荷も直接商社と行う農家も少なくないため、実際の生産額は非常に大きくなっているといえよう。六一年現在の飼養農家数は六六戸であるが、このうち母豚を一〇〇頭以上飼養しているものは三宅武憲・近藤勝宣・保子昇・松木明・岸利文・井上光雄・星田憲克・鈴木清甫・正岡某等であり、飼養が盛んに行われている地区は土居・天満・長津などで市街地から離れた場所となっている。養豚業の場合、必要経費の七〇%が飼料購入代に充てられるとされるが、五九年七月には一トン当たり七万八五〇〇円であった配合飼料代は、六一年六月にはいわゆる円高の影響を受けて五万六〇〇〇円に低下しており、以前に比べて経営環境は比較的良くなってきたとされている。しかし、海外の安価な豚肉の輸入が増加傾向をみせる現在、土居町の養豚業を一層振興させるために、新たな対策を講ずる必要に迫られているといえよう。

 土居町の養鶏

 土居町の養鶏業は、戦後、他の市町村の場合と同様、各々の農家が小規模に行う庭先養鶏として始まったものであり、三〇年代までは飼養戸数も非常に多かった。しかし、三〇年代後半から始まった経済の高度成長は、所得の農工格差を拡大していくとともに、農村部若年層の大量流出をひきおこした。また、養鶏に必要な経費全体に占める飼料購入代の割合が増大していくなかで、「五〇〇羽養鶏」のような規模で経営を行うことは採算のとれないものになっていった。三八年に一七四〇戸もあった養鶏農家が四五年には九三〇戸となり、さらに五〇年には三五〇戸に激減していった背景には、このような後継者不足による農家の高齢化や飼料代の上昇などがあった。多数羽飼養に拍車をかけたのがいわゆる石油ショックであり、これによって引きおこされた飼料代の暴騰は多くの農家に決定的な打撃を与えた。零細経営を行っていた養鶏農家が急速に減少していく反面、従来は見られなかったほどの企業的大規模経営を行うものも現れた。五〇年の総羽数が六万四〇〇〇羽であるのに対し、五五年には二八万六六〇〇羽に急増しているが、これは土居町長津で企業的経営が始まったことに起因している(図5-14)。六〇年現在の飼養総羽数は三三万一〇〇〇羽であるが、二〇万羽以上がこうした企業的専業農家によって飼養されている。長津地区以外で養鶏が盛んに行われているのは土居・関川地区であり(写真5-9)、一万羽以上を飼養するものは篠原照明・尾崎光夫・村上義夫・渡辺嘉富・高石亀次・寺尾徹・三宅武彦・武村光雄などである。養鶏業はその時の社会情勢に強く影響されることが多く、生産額の変動も激しい。しかし、五九年の生産額は一〇億四七〇〇万円(土居町農協扱い分のみ)に達し、養豚に次いで多いなど、養鶏が土居町の産業に占めるウエイトはきわめて高いものになっている。






表5-13 土居町の作物別生産額の推移

表5-13 土居町の作物別生産額の推移


表5-14 土居町における家畜飼養頭羽数及び飼養戸数の推移

表5-14 土居町における家畜飼養頭羽数及び飼養戸数の推移


図5-14 土居町の地区別豚・採卵鶏飼養頭羽数

図5-14 土居町の地区別豚・採卵鶏飼養頭羽数