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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 滝の宮公園と瑞応寺

 滝の宮公園

 滝の宮公園は新居浜市中西部の山麓にあり、市民に最も親しまれている公園である。昭和六一年の入り込み客は一七万五〇〇〇人で、同公園は太鼓祭りを除くと訪れる人が最も多い行楽地である。新居浜市が六一年一二月に実施した「緑に関するアンケート調査」によると、利用度の最も高い公園として滝の宮公園をあげた人が六七%と圧倒的に多い。次いで国領川河川敷公園が一四%、山根公園が五%などである。また、一番きれいだと思う公園としても、滝の宮公園が六六%を占め、二位の広瀬公園(一五%)に大きく差をつけている。
 滝の宮公園の入りロには大池とよばれる溜池があり、また背後には金子山、北には禅刹の慈眼寺があって、変化に富んだ公園である。昭和二六年に、金子山の丘陵地を含む山麓地域の整備事業が本格的に始められた。しかし背後の金子山一帯はしばしば山火事が発生し、最近では四〇年(焼失面積四八ヘクタール)、四八年(同九二ヘクタール)、五三年(同六六一ha)、六一年(同二五〇ha)と頻発している。
 五三年四月の山林火災のあとの復旧整備事業が五七年度に完成し、山頂展望台・大池しょうぶ園・散策道路・日本庭園・小動物舎・トリムコースなどが整備された。また、桜をはじめ、やまもも・かえでなどの植林も進み、特に三〇〇〇本に及ぶ桜の季節には、大勢の花見客が訪れて最高のにぎわいをみせている(写真4-37)。麓から金子山の山頂近くまで自動車で登ることができ、頂上の展望台からは新居浜市内を一望のもとに眺めることができる。
 この金子山頂上は、戦国時代末期に金子備後守元宅の居城があった城跡で、山頂の広場は本丸・二の丸・三の丸跡である。金子山城主であった金子備後守は、大正一三年(一五八五)豊臣秀吉が派遣した小早川隆景の四国征討軍に敗れて討死した。金子氏は武蔵七党の一つ金子党の出で、弘安年間(一二七八~八八)に伊予国新居郷の地頭職として来住し、のちこの地の地方豪族となった。金子城は天文~永禄(一五三二~七〇)のころ、元宅の父元成が築城した中世の城郭であるが、その遺構は公園整備のためほとんど姿を消した。城跡に「天正の矢叫を締け時鳥」(片水)の句碑がある。
 金子城跡の山麓にある慈眼寺は、福島県いわき市にある長源寺の末寺で、正法山と号し本尊は聖観音菩薩である。この寺は、天正の陣で戦死した金子備後守の菩提を弔うために、元和年間(一六一五~二四)初期に城主の居館跡に建てられた。本堂の裏山に城主及び金子六人衆の墓碑があり、昭和六〇年には天正の陣四〇〇年大祭が催された。
 慈眼寺の周囲は、城主居館を中心とした典型的な豪族屋敷村で、町名(西之土居町)にもその名を残している。寺の境内には約二〇万本の菖蒲園があり、花の咲く六月には近畿・関東地方からも花見客が訪れる(写真4-38)。六一年には約五万人の参拝客が慈眼寺を訪れている。

 瑞応寺

 新居浜市南部の山根町の山麓にある瑞応寺は、曹洞宗の名刹で修行僧の寺としても知られている。山号は佛国山と号し、本尊は釈迦如来である。文安五年(一四四八)、生子山城主松木景村が臨済宗の寺として建立したという。当初の堂宇は吉正一三年の戦役で生子山城が落城した際に焼失した。
 その後、万治三年(一六六〇)徳雲寺九世白翁禅師の弟子分外恩トツ禅師を迎えて再興された。文政一一年(一八二八)に火災で全焼したが、天保~安政年間(一八三〇~六〇)に本堂や山門・庫裏・梵鐘・回廊等が相次いで再建された。明治三一年(一八九八)専門僧堂を開設し、全国各地から三〇人余の学僧が集まって修行している。また、一般の参禅も認められており、参禅者も含めて年間に約一万人が訪れている。
 瑞応寺は別子銅山開坑以来、住友との関係が深く、境内には戦時中別子銅山に強制連行された中国人労働者の霊を慰める慰霊碑が建立されている。当時別子銅山に送りこまれた中国人労働者は六八一名で、そのうち二〇八名の犠牲者がでている。戦後、労働組合を中心として慰霊碑の建設が計画され、昭和二九年六月東平に慰霊碑が建てられた。その後、四三年に東平が閉山したため、同碑を瑞応寺境内に移し、五七年には日中国交回復一〇周年記念行事として、新居浜市中国人殉難者慰霊祭が催された。
 瑞応寺境内の花尾山麓に、仏法寺守護・伽藍鎮守の金毘羅宮が鎮座し、昭和二三年その社殿に万国英霊平和記念として三〇〇貫の大梵鐘が吊された。また、五五年に庫裏瑞雲閣が完成して七堂伽藍が整い、五〇人ほどの一般参禅研修者の受け入れが可能となった。

 大 島

 大島は新居浜市東部の阿島地区の沖にあり、周囲約八㎞、人口約六〇〇人の小島である。大島は伊予水軍の発祥地といわれ、天慶年間(九三八~四七)大島に流された村上左衛門佐友清が水軍の祖と伝えられる。島内には村上氏の居城跡、船かくし岩などがあり、城の鼻・城尾などの地名にも水軍の歴史が秘められている。
 平安時代には鳥羽天皇の皇女八条院璋子内親王の荘園となり、また鎌倉時代末期には後宇多上皇領となるなど、皇室との関係の深い土地柄である。また、古くから海上交通の要地として栄えた歴史をもち、大島は「伝説の宝庫」ともいわれる。島内には古い伝統的行事が残っており、とうど送りはその代表的な民俗行事で、市の無形文化財に指定されている(写真4-39)。
 大島のとうど送りは三〇〇年以上の伝統をもつ行事といわれ、現在では一月一五日の夜明け前に大島漁港の広場で行われる。この行事は一三~一六歳の少年のまつりで、正月三日になると少年団が地区ごとに家々の門先におかれた門松・笹・しめ縄などを集めてまわり、高さ約六m、底辺約二・五mの四角錐のとうどを作る。
 とうどの中心には「蓬来山左義長」などと書いた高さ一〇m余の大幟を立て、とうどの上部には二本の竹を横にわたして、数十本の小幟を取り付ける。小幟には島内の男の子の名前を書くが、最近は若い世代が離島したため子供が減り、島外に住む孫などの名前も書かれている。
 午前二時ころになると、子供たちが家々にふれてまわり、海岸に五つのとうどが並べられる。六時すぎには島民がとうどの回りに集まり、次々に火をつけてとうど焼きが始まる。とうどが焼けおちると、燃え残った竹でとうどの灰を鏡もちの上にのせ、持ち帰ってぜんざいを作る。とうどの日には島外からも大勢の帰省客があり、島の人口が一〇〇〇人以上にもなるという。
 大島の代表的観光地は北部の和井田浜で、砂浜海岸が広がり和井田浜海水浴場として知られる。和井田浜にはみどり屋などが海の家を開いていたが、島の南側にある港から遠く、あまり利用されていなかった。昭和五〇年代に島内の道路整備が進み、渡海船に自動車が積みこめるようになると、しだいに注目されるようになった。
 六〇年ころから、大島パークや和井田荘などの新しい宿泊・休憩施設が建てられ、また分譲別荘や貸別荘なども開発されている。大島パークにはキャンプ場もあり、大島港と和井田浜を結ぶマイクロバスを運行して利用客の便宜を図っている。また大島へは、海水浴客のほかに釣り客も多く、秋には観光みかん園が開かれている。
 大島と本土側の黒島を結ぶ渡海船は、元は旧大島村村営であったが、昭和二八年の新居浜市との合併にともない新居浜市営となった。現在の大島丸(九九・七トン)は定員二三一名で、車も六台収容でき、一日一三便が往復している。大島-黒島間は約二〇分で、運賃は三二年以来大人二〇円、子供一〇円である。年間約二万人の利用客があり、車両は自転車を中心に約二万二千台(五九年度)である。

 その他の行楽地

 新居浜市のその他の行楽地には、南部の山岳地域にある摩戸の滝や銚子の滝、船木のゴルフ場(新居浜カントリー倶楽部)と池田ノ池公園・長野山市民の森、中萩の広瀬公園や大生院の稲荷山公園などがある。また垣生の海岸は海水浴場に、沢津の国領川河口付近は潮干狩に利用され、国領川の河川敷では正月には凧揚げ大会、八月下旬から九月下旬にかけて「新居浜のいもだき」が催されている。
 広瀬公園は、新居浜市発展のもととなった別子銅山の総支配人広瀬宰平の元私邸で、昭和四五年新居浜市に寄贈された。亀池とよばれる大池を含み、延べ面積約三万平方mで、宇和島市の天赦園と並ぶ県下の二大公園の一つといわれている。

 愛媛のゴルフ場

 戦前には愛媛にゴルフ場は皆無であった。現在は昭和六二年一〇月にオープンした新居浜市の「滝の宮カントリークラブ」を入れて二二か所一六市町村に分布している。一時は三十余か所で計画造成していた。表4-45および表4-46の如く、内子町の愛媛ゴルフ倶楽部のものが二七ホールで最も設備がよい。




表4-45 愛媛県のゴルフ場の分布(Ⅰ)規制前

表4-45 愛媛県のゴルフ場の分布(Ⅰ)規制前


表4-46 愛媛県のゴルフ場の分布(Ⅱ)規制後同意

表4-46 愛媛県のゴルフ場の分布(Ⅱ)規制後同意