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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 別子ラインと別子銅山記念館

 別子ライン

 新居浜市の中央部を北流する国領川の上流を別子ラインといい、同市きっての景勝地として知られる。国領川は南部の宇摩郡別子山村境や、南西部の西条市境の山地に源を発して燧灘に注ぐ、全長約二五㎞の二級河川である。別子ラインは、新居浜市が昭和六一年一二月に実施した「緑に関するアンケート調査」でも、新居浜市における緑のシンボルの第一位にあげられている(表4-43)。同アンケートの結果は、一位の別子ラインが七七%で、二位が滝の宮公園(六〇%)、三位が瑞応寺(三三%)の順であった。
 別子ラインの入り口は山根の生子橋付近で、ここから上流の鹿森ダム・清滝を経て河又に至る約一〇kmが別子ラインとよばれる。この地域は巨岩清流の渓谷美で知られると共に、別子銅山記念館をはじめ、別子銅山遺跡に恵まれた観光地である。
 昭和六一年の別子ラインの入り込み客は約一二万人(新居浜市商工観光課調べ)で、これは新居浜祭りを除くと、滝の宮公園の一七万五〇〇〇入に次ぐ観光客である。別子ラインはその渓谷美によって、昭和三〇年に愛媛県指定名勝となり、新日本百景の一つにも選ばれた。また、四国郵政局の四国二〇景、朝日新聞主催の四国の自然一〇〇選にも選ばれている。
 別子ラインの入り口である山根付近の山麓は、ほぼ東西に直線状にのびている。これは西南日本の地質構造を大きく分けている巨人な断層が通っているためで、これを中央構造線とよんでいる。国領川は中央構造線以南の壮年期山地を鋭く刻んでV字谷を形成し、特に上流部の小女郎川付近では、比高六〇〇~七〇〇mに及ぶ急崖が左右から谷に迫っている。
 河床には大小の三波川系結晶片岩が渓谷美をつくり、急崖の天然林は、春の若葉・夏の青葉・秋の紅葉と変化する自然美をみせている。特に紅葉は別子ラインの最も美しい景観で、小女郎川に沿う清滝は紅葉の名所として知られる。清滝は落差約六〇mの滝で、その昔松村の行者が開いたという修行場である。また、厳冬季には滝の水が凍りついて巨大なつららができ、見物に訪れる人々を喜ばせている。
 清滝の手前にある鹿森ダムは、昭和三七年に完成した多目的ダムで、ダムの高さ五七m、長さ一〇八m、貯水量は一六〇万トンである。ダムは支流の足谷川が合流する出合いのすぐ北に位置し、小規模な人造湖を形成している。足谷川は東平方面から北流する急流で、河床が急勾配のためダム湖の広がりが阻まれている。
 足谷川と小女郎川の合流点に仙雲橋があり、そこから足谷川の右岸沿いに遊歩道が通じている。この遊歩道をたどると落し橋があり、その近くに落しの滝がある。落し(現在は遠登志)の地名はこの滝に由来するといわれ、遠登志渓谷は深山幽谷の趣がある。落し橋(遠登志橋)付近は山桜で知られ、さらに進むと大休みの茶店跡に至る。大休みは、東平や別子銅山に登る人々が休憩した所で、昭和四〇年代までは崩れかけた廃屋が残っていた。
 仙雲橋付近は、銅山峰登山や清滝散策などのハイキングの基地で、売店も営業している。売店横の雲望洞の上にも展望台があり、雲望洞の南約一〇〇mのところに東平道の登山口がある。東平道は、かつて東平街道ともよばれた道で、現在も銅山峰への登山道として使われている(写真4-34)。
 鹿森ダム下流の立川地区に、「温泉前」というバス停留所がある。これは昭和初期に、当時の立川村会議員であった木下伝次郎が始めた温泉に由来する。立川温泉は、正式にはナトリウム塩化物炭酸水素塩冷鉱泉という冷鉱泉で、泉源は旧別子鉄道黒石鉄橋下の川底にある。この温泉は人気を集め、俳人の河東碧梧桐は同温泉を二度訪れたといわれ、山根の生子橋付近に句碑が建てられている。
 立川温泉はその後姿を消したが、昭和三九年四月この冷鉱泉を利用した新居浜近鉄観光センターが山根にオープンした。これは、当時の小野香奄市長の熱心な努力によって開かれた施設で、五六〇〇平方mという広い建物の中に、大浴場・家族ぶろ・野天ぶろ・大広間・娯楽室などがあった。地方まわりの劇団の芝居も上演され、近郷近在の人々でにぎわったが、開業約一〇年で閉鎖された。立川の冷鉱泉は、現在は別子ライン入りロ近くにある割烹旅館の白鳥別館に引かれて利用されている。
 別子ラインの入り口にあたる生子橋は、長さ三二m、幅二・五mの朱塗りの橋で、明治二一年(一八八八)に山根製錬所ができたときに架けられた。この橋は新居浜市商工観光課が管理し、五八年に新しく付け替えられた。

 銅山遺跡と別子銅山記念館

 別子ライン沿線は別子銅山関係の遺跡が豊富で、銅山越から旧別子にかけての遺跡と共に、南部地域の特色ある観光資源となっている。別子銅山は、元禄四年(一六九一)に開坑した日本三大銅山の一つであったが、昭和四八年三月に閉山した。この間、二八二年間にわたって銅鉱石が採掘され、旧別子の山中や新居浜で銅製錬が行われた。
 別子銅山は今日の工業都市新居浜の母体となったもので、別子ライン沿線には山根湿式製錬所跡の別子銅山記念館をはじめ、煙突山・立川吹所跡・端出場の選鉱場跡・住友鉄道下部鉄道跡などがある。また、立川から銅山越を経て旧別子に至る牛車道跡をたどることもでき、銅山越に登れば、角石原から石ケ山丈に通じていた上部鉄道跡や、旧別子地区の諸施設跡の見学も可能である。
 こうした銅山関係遺跡の中でも、山根の生子山(標高一三〇m)の頂上に今も残る巨大な煙突は、新居浜市民に最もよく知られたものである。生子山(庄司山とも書く)は別子ラインの入り口に位置し、新居浜平野を見下ろす要害の地として、戦国時代には松木三河守安邨の居城があった。しかし、豊臣秀吉の四国征討の命を受けた、安芸の小早川隆景に攻められ、天保一三年(一五八五)に滅んだ。
 この生子山の山麓に、明治二一年(一八八八)別子銅山の湿式製錬所が建設され、赤レンガの煙道が山頂の煙突に通じていた。この煙突は、工場の煙を集めて排出するもので、高さ約二〇m余のレンガ製である。山根製錬所は建設後わずか七年間操業しただけで、明治二八年(一八九五)に閉鎖され、工場の諸施設も撤去された。山頂の煙突だけが取り残され、いつしか煙突山の名で親しまれるようになった。煙突山へは山麓から二〇分程で登ることができ、小学校の遠足や子供連れのハイキングなどに訪れる人が多い(写真4-35)。
 生子山の麓には、開坑以来別子銅山の守護神となってきた大山積神社が奉祀されている。大山積神社は元は旧別子に奉祀されていたが、大正四年(一九一五)末の事業所引き揚げに際し、神霊を東平に遷座した。その後、昭和二年に山根の国領川左岸にある内宮神社に仮遷宮し、同三年五月生子山麓の旧山根製錬所跡に社殿を創設して奉遷した。
 大山積神社の境内の一角には、明治二六年(一八九三)に開通した鉱山用上部鉄道・下部鉄道に使用した第一号機関車や、採鉱夫を運んだかご電車などが展示されている。一号機関車は明治二五年(一八九二)にドイツから購入したもので、蒸気機関車としては、松山の坊っちゃん列車に次いで古く、四国における鉄道開発初期のものである。
 また、同神社境内には昭和五〇年六月に開館した別子銅山記念館がある。これは、別子銅山の意義を長く後世に伝える目的で、住友グループの協力によって建設されたものである。建物は銅山の坑内をほうふつさせるような半地下式構造で、屋根全体にさつきが植栽されている。冷暖房完備の館内は、照明の明るさをひかえており、坑内の雰囲気が漂う。館内には約二〇〇点の資料が展示され、別子銅山開坑以来の歴史を学ぶことができる(表4-44)。
 それらの資料の中には、江戸~明治期の銅生産品、明治中期の別子銅山を復元した坑外地形模型や、旧別子銅山従業員が作製した鉱床、採鉱法の模型などがある。また、開坑前の住友(当時は泉屋)に関する歴史資料や、開坑から閉山に至る稼業の変遷、生活風俗など、幅広い資料が展示されている。
 同記念館は無料で公開されており、年間に約二万五〇〇〇人前後の入館者がある(図4-41)。入館者の約六割は新居浜市民であるが、県外から訪れる客は全国に及んでおり、昭和六二年四月には、累積入館者が三〇万人を突破した。
 別子銅山記念館から南へ国領川沿いに進むと、かつて立川吹所がおかれていた立川の集落に至る。別子で造られた粗銅は、大阪へ送って製錬し精銅を得ていたが、明治二年(一八六九)立川に製銅所をおいた。吹所は製錬所のことで、明治九年(一八七六)操業を始めたが、同二三年(一八六九)に廃止された。
 立川はまた、元禄一五年(一七〇二)から明治一三年(一八八〇)までの約一八〇年にわたって、別子と新居浜浦の口屋とを結んだ道路の中継所で、中宿とよばれた。別子から下りる粗銅や、別子へ上がる生活物資は、立川を中継して人の背に負われて運ばれていた。立川中宿は銅山の登山口の役目をもち、役人や人足の寄り場であった。そのため、人の往来が多く、旅館・料理屋・雑貨屋等が軒を並べてにぎわっていた。新居浜地方の料理屋は立川で始まり、その後角野の喜光地に移り、現在の新居浜市の中心部である旧新居浜地区に移ったのは、明治末期という。
 別子ライン中程にある端出場は、昭和五年に採鉱本部が東平から移されて以来、別子銅山の中心地となった。端出場は昭和二年に選鉱場がおかれ、第四通洞から運び出された鉱石の選別が行われた。端出場の地名は、鉱石を手選鉱したところに由来するという。第四通洞は大正四年(一九一五)に完成した坑道で、西赤石山系の地下深くのびている無数の坑道と結ばれていた。また、端出場を起点とする世界最大の大斜坑が昭和四四年に完成したが、昭和四八年の閉山により事業所が閉鎖された。端出場には鉄橋や事業所の建物などが残り、かつて盛んであった別子銅山の面影をしのぶことができる。
 別子ラインの上流にあたる河又には、住友重機工業㈱及び住友化学工業㈱の山小屋がある。これは、同社の健康保険組合が組合員の福利厚生施設として設置したもので、「大永山荘」「住化健保山の家」と名づけられている。これらの山小屋は、別子銅山の発祥地である旧別子や、明治三五年(一九〇二)に選鉱場が建設された東平に近く、「住友発祥の地」を見学する住友マンたちの宿泊施設としても利用されている。
 このほか、明治一三年二(一八八〇)開通した牛車道や、端出場と惣開を結ぶ下部鉄道跡なども別子ライン沿線にあり、市民が参加する「新居浜自然漫歩のつどい」のコースとして利用されている。牛車道は、明治維新後の産出銅の増大に対応して作られた輸送路で、新居浜の口屋から別子の目出度町まで通じていた。その延長は二八㎞に及び、明治一三年に開通したが、上部鉄道の完成によりその役目を終えた。鉱山鉄道として長い間活躍してきた下部鉄道も、昭和五二年二月に姿を消し、別子ライン沿線では、今は一部に枕木が残る程度になっている。

 銅山峰と旧別子

 鹿森ダム湖畔の登山口から銅山峰に至る道筋にも、別子銅山の遺跡が点々と眠っている。そのうちの一つである東平は、大正五年(一九一六)から昭和五年まで採鉱本部がおかれ、別子銅山の中心的集落としてにぎわった町である。最盛期には二〇〇〇人余の従業員が就労し、選鉱場や接待館・劇場・病院・学校などがあった。また、従業員の住宅が辷坂からに呉木にかけて軒を並べていた(図4-42)。
 昭和四三年に東平坑が閉山すると人々はみな下山し、廃墟となった跡地には杉や檜が植林された。現在の登山路は、東平の下町であった辷坂の手前で鉄橋を渡り、足谷川右岸に至る。辷坂の住宅地にも、かつては郵便局や浴場・旅館などがあった。
 鉄橋を渡って約二〇分登ると「第三」とよぶ広場に至る。ここは東平と別子山村日浦を結ぶ第三通洞の洞口で、日浦まで龍電車が通じていた。第三から左へ柳谷に沿って登ると角石原に至り、途中から右へ馬の背とよぶ近道を登っても同じ所にでる。馬の背の急坂は、往時には何百人もの仲持が通った道である。
 角石原は明治一九年(一八八九)に、峯南に抜ける第一通洞が開通して以来、物資輸送の中心地となった。牛車道に代わって明治二六年(一八九三)わが国初の鉱山鉄道となった上部鉄道が、角石原(標高一一〇〇m)と石ケ山丈(同八三五m)の問を結んで開通した。上部鉄道は明治四四年(一九一一)に廃止されたが、その線路跡が現在も残っている。また角石原には、昭和三八年に伊藤玉男が開いた銅山峰ヒュッテがあり、登山客や別子銅山遺跡を訪れる人々の宿泊施設として利用されている。
 角石原から稜線に登ったところが銅山越(標高一二九一m)で、東側の西赤石(同一六二六m)と西側の西山(同一四二九m)の鞍部となっている。銅山越は、寛延二年(一七四九)以来別子銅山と新居浜口屋を結ぶ輸送路として利用され、峠には地蔵尊が祀られている(写真4-36)。
 銅山越から南に下ると、別子銅山発祥地となった旧別子地区で、元禄四年(一六九一)に開坑した歓喜坑などの坑口や、旧別子で一番の繁華街であった目出度町、洋式製錬所がおかれた高橋などの集落跡が残っている。これらの遺跡をたずねながら山を下りると銅山川に至り、別子ダムや南光院に通じている。
 また、銅山越から縦走路を西にとると、西山からちち山の別れを経て笹ケ峰に至り、東へたどれば西赤石から物住の頭を経て、赤石山系の主峰東赤石(標高一七〇六m)に至る。銅山峰ヒュッテから銅山越までは約三〇分ほどで、赤石登山や遺跡探訪に訪れた人々でにぎわい、冬にはスキーも可能である。また、銅山越付近は風の強い砂礫地帯で、アカモノやツガザクラなど独特の高山植物の群落で知られる。
 新居浜市では、こうした別子銅山遺跡を中核とする南部地域の開発構想を立て、昭和五八年から準備にとりかかった。計画では、住友金属鉱山㈱の旧施設や坑道を活用して、別子ラインから赤石山系まで南北八kmの地域を、山根、端出場、東平・呉木、角石原・旧別子の四エリアに分け、観光レクリェーション地域を開発しようとしている。この南部観光開発では、一過性の観光客流入でなく、滞在型の観光開発をめざしているが、経費や安全性の面で問題点が指摘され、なお検討が進められている。
 また、別子ラインの幹線道路である主要地方道新居浜山城線(新居浜市-徳島県三好郡山城町)のうち、末開通部分となっている大永山トンネル(長さ一一五九m)の工事が、六二年一一月に着工された。銅山峰の麓を貫通する道路が開けば、新居浜市の南部観光開発にも大きな効果があるものと期待されている。









表4-43 新居浜市の緑のシンボル番付表

表4-43 新居浜市の緑のシンボル番付表


表4-44 別子銅山記念館の主な展示品

表4-44 別子銅山記念館の主な展示品


図4-41 別子銅山記念館の年次別入館者数と累積入館者数

図4-41 別子銅山記念館の年次別入館者数と累積入館者数


図4-42 別子ラインと別子銅山遺跡

図4-42 別子ラインと別子銅山遺跡