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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 都市化と新居浜市の変容①

 人口増加

 人口の推移を現在の市域について遡ってみると、藩政時代の天保年間(一八三〇~四四)の一部の地区を除いた人口(天領・小松藩領を除いた西条藩領のみ)の概数が一万九四三五人で、『新居浜市史』では幕末における全市域各村の人家合計を約七〇〇〇、人口合計約三万と推計している。その後大正二年(一九一三)には三万八五四九人、同九年(一九二〇)四万八四六六人と以後ずっと順調に増加し、昭和三五年には現在の水準に達した。昭和三五年国勢調査の結果では、総世帯数二万九一九七、総人口一二万五六八八を数える。
 人口増加傾向を全国と比べると、昭和三五年以降の横ばい状態に特徴がみられる一方、昭和二五年以前の急速な人口増加に新居浜市の人口規模の拡大の過程をとらえることができる[図4-24・表4-29]。この人口増加の主な原因は住友関係諸事業の発展に伴う転入者の増加によるもので、新居浜市勢進展のバロメーターであろう。明治における製錬所の山根、惣開、四阪島への移転、惣開への別子山中の諸施設の移転に続いて、大正・昭和前期は星越選鉱所の完成、電力・肥料・機械・アルミなどの関連企業の設立、それに伴う社宅の建設が相次いで進められた時代である。

 人口の動向

 昭和三五年以後の総人口の推移は変化に富んでいる。即ち同三○年代後期の停滞の後の別子銅山閉山に伴う急減と、同四五年以後コンスタントな増加に転じたものの五二年をピークに減少に転じ、現在も減少傾向にあることである(図4-25)。
 世帯数の推移についてみると、四六年までは全国や県全体と同水準で伸びてきたものと思われるが、四七年以降は鈍化し、五三年以後は伸び率が小さくなっている。
 一世帯当たりの員数は昭和三六年から四五年にかけて急減した。四五年の三・一人は全国や県全体の三・五人強を下回っており、五七年には三・〇人を割ることになった(六〇年の全円三・二、県全体三・一)。昭和四五年の国勢調査における新居浜市の普通世帯に占める核家族世帯の割合は七三・四%で、全国、県の比率を一〇%前後上回っていて、これは四世帯中三世帯までが核家族ということになる。五五年の国勢調査ではやや比率が低下し七一・六%となっているが、それでも全国、県の比率より八%高い。これらの状況は、新居浜市が工業都市であることの特徴を物語るものといえよう。
 人口の年間増減について昭和四五年以降の状況をみると、社会的増減のウェイトが高いこと、五〇年ころから出生率が低下し、五三年には出生児数が二〇〇〇人を切ったことを背景に、五二年までは人口は増加したが、五三年からの大幅な社会減には、出生率の急速な低下により自然増も追いつかず、人口の減少傾向が続いている(表4-30)。
 五三年以降は、四八年一〇月の石油危機以来の不況の中で若者たちのUターン、Jターン現象がさかんに言われ始めた時期で、新居浜市の産業も低成長期に入っており、製造業における従業者の減少が人口流出となって現れた姿として、男子主導の大幅な社会減が起こっている。
 人口の社会動態をみると、転入は、四七年までは県内からの方が県外より多かったが、四八年以降県外からの転入者が県内のそれを上回るようになっている。他方、転出では四五年以降ずっと県外が県内を上回っている。このことは住友関連企業の動向を強く反映しているもので、現在のところ転出が転入を上回っている。
 転出超過が激しいのは一五歳から一九歳階級と二〇歳から二四歳階級である(表4-31)。高卒と高専および短大卒業者が、高等教育機関を求めて、また就職先を求めて転出する姿が思われる。これに次ぐ転出超過の階層は○歳から四歳、五歳から九歳、三〇歳から三四歳、三五歳から三九歳である。従って、新居浜市では、生産年齢人口と年少人口の減少が進行しており、従属人口に占める老年人口のウェイトが急激に高まりつつある。

 ドーナツ化の進行

 新居浜市の人口の転入と転出の合計は、昭和四六年の二万〇五七四人から急激に低下し、同五四年には一万〇八一一人と約半分になっている。これは都市としての流動性の減少を示すが、反面、都市内部では川西地区から川東及び上部地区へかなり大きな移動がみられ、最近の人口移動の特徴が内部流動性であることを示している。
 昭和五四年の住民基本台帳人口では、川西地区四万二六五一人、川東地区三万八八九二人、上部地区五万四八一九人であり、昭和四九年から同五四年までの五年問で川西地区は六・六%減少したのに対し、川東地区は五・〇%、上部地区は九・九%上昇している。旧町村地区ごとにみると、旧市内は人口の漸減、世帯数の停滞であり、旧泉川町と旧中萩町・大生院村地域における人口並びに世帯数の増加傾向が著しい(表4-32)。旧船木村・角野町地区と旧垣生村・神郷村地区では、昭和四五年から五〇年にかけて高い人口増加を示したものの五〇年から五五年にかけて人口が減少した。しかしながら両地区とも五六年には増加がみられ、特に旧垣生・神郷地区では一年間に三九三五人とで一三一三世帯の増加があった。
 小学校別児童数の推移をみると、昭和四五年から五五年の間における増加率の高い校区は、船木・神郷・浮島・中萩・高津である。そのうち神郷・浮島・中萩・高津は五五年から六〇年にかけて、新居浜市全体の幼年人口の減少の影響を受けて児童数が減少したが、船木は引き続いて高い増加率を示した。減少率の著しいのは若宮・新居浜・宮西である。なお角野・多喜浜では四五年から五〇年の間に急減したがその後増加に転じている(図4-26)。このような人口の内部移動によって、川東及び上部地区では、いわゆるスプロール化現象がみられ、川西地区では住友の社宅群にみられるように、家屋の無人化が進んだ。









図4-24 新居浜市の人口の推移

図4-24 新居浜市の人口の推移

(1960年を100とした指数)

表4-29 新居浜市域における人口の推移

表4-29 新居浜市域における人口の推移


図4-25 新居浜市の総人口・世帯数・一世帯当たり員数の推移

図4-25 新居浜市の総人口・世帯数・一世帯当たり員数の推移


表4-30 新居浜市の総人口と人口動態

表4-30 新居浜市の総人口と人口動態


表4-31 新居浜市の年齢別人口

表4-31 新居浜市の年齢別人口


表4-32 新居浜市の地区別人口・世帯数の推移

表4-32 新居浜市の地区別人口・世帯数の推移


図4-26 新居浜市の小学校区

図4-26 新居浜市の小学校区