データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

四 新居浜港の内外貿易

 戦前の貿易のあらまし

 元禄三年(一六九〇)に発見され、同四年住友家によって開坑された別子銅山は、その後我が国を代表する銅山として、三大銅山の一つに数えられていた。銅は豊臣時代の朱印船貿易以来幕末にいたるまで、我が国の主要な輸出品であった。
 新居浜港の戦前の賢易は、臨海工場群が必要とする原材料を輸入し、生産された製品を輸出するという形で発展していった。特に昭和一三年に第一次築港工事が竣工してからは、入港船舶数は急速に増加し、港勢の進展とともに貿易も順調に発展していった。しかし、当時はまだ開港場となっていなかったため各種の制約があり、貨物の通関や外国貿易船の出入手続き等は神戸税関今治税関支署で行っていた。

 新居浜港の「開港」と戦後貿易のあらまし
 
 終戦直後、我が国の経済は食糧難や原料不足、インフレ等によって危機と混乱に直面していた。経済復興を成し遂げるためには、まず食糧不足を解消することが必要であるとの観点から、総司令部(GHQ)は肥料の増産を打ち出した。こうした情況のもとで、新居浜では休止していた肥料生産をいち早く再開したが、二一年八月には燐鉱石の輸入も始まり、過燐酸肥料の製造も再開された。このように、戦後の貿易は燐鉱石の輸入から始まったが、当時の貿易は総司令部が監督する管理貿易であった。その後も食糧増産をはかるため肥料の増産が行われたが、二二年に制限付きながらも民間貿易が再開されると、戦前から実績のあった近隣諸国に対して肥料の輸出が行われ始めた(表4-26)。
 貿易を再開するにあたって、政府では貿易の門戸である開港場の整備が必要となり、全国の重要港湾を再調査し貿易再開に備えた。新居浜港の場合、戦前から輸出入が行われてはいたが、不開港のため今治港や他の開港に寄港して不開港出入手続きをしなければならないなど不便をかこっていた。貿易再開の動きが高まるに伴い、新居浜市では、同市の将来を展望したとき海外との取り引きを本格化し、貿易を発展させていくことが不可欠であるとの判断から、新居浜港を貿易港として開港する必要性を強く認識するようになった。もともと新居浜港(本港地区)は住友企業により埋め立てや築港がなされ、いわば私設工業港として発展してきた。このため企業の中には新居浜港を開港場として開放することには消極的な立場を取るものもあった。しかし、戦後の様々な社会改革の流れの中で、港を開港とし船舶の入港誘致を図ることが将来的にみて多くのメリットがあるとする意見が大勢を占めるようになり、ここに開港に向けて官民が一致して協力することの合意が成立した。地元において開港の合意がなると、新居浜市や同市議会、同商工会議所、住友企業などの関係者は一致して国や関係官庁に強力な働きかけを行った。こうした努力の結果、二三年一月一日付けで横須賀港を含む全国一五港の開港指定に合わせて、新居浜港も開港に指定された。
 二五年に民問貿易が令面的に再開されると、全国的に外国との貿易が拡大していったが、新居浜港においても生産工場の復旧・拡大などにより貿易量は急速に増大し、三〇年の輸出入量は三〇万トンに達した。新居浜港の貿易は、臨海部に立地する工場が必要とする原材料を輸入し、製造品を国内へ供給するほかその一部を輸出するという形で発展してきた。こうした貿易形態から、新居浜港は輸入中心型の貿易港として特色づけられるようになった。当時の主な輸入品は燐鉱石、ボーキサイト、ニッケル鉱石及び米であった。米の輸入は深刻な食糧不足を打開するために、二一年以後実施されていたもので、新居浜港へは二五年にタイ米が初輸入され、以後台湾米、ビルマ米なども加わり三一年まで継続的に輸入された。これに対し主な輸出品は過燐酸肥料、尿素、硫安や配合肥料などの化学肥料類であり、これらは東南アジアや韓国に向けて輸出された。なお、二六年機械類が輸出されたが、これは戦後肥料以外で最初に輸出されたもので、インドのボンベイ向けクレーンであった。

 昭和三〇~四〇年代の新居浜港の貿易

 三○~四○年代にかけて、我が国は他に例を見ない勢いで高度経済成長を成し遂げていったが、新居浜においても臨海工業地帯を中心に旺盛な設備投資と生産の拡大が図られ、銅、アルミニウム、化学製品の生産が増大していった。輸入品目はほとんどが原材料で、三〇年の主な輸入品目も燐鉱石、ニッケル鉱石、ボーキサイトとなっている。元来新居浜港は原材料輸人港的性格が強いため、輸入品目に大きな変化は見られないが、輸入量は着実に増加していった。これに対し、三〇~四〇年代の新居浜港の輸出は、企業の国際競争力が強まるのに比例して量、額とも増加し、三五年には輸出額は三〇億円にすぎなかったが、四○年には五二億円となり、四九年には一六八億円にも達した。輸出品目の構造をみると、三〇年代には大きな変化はなく、主要輸出品は依然として肥料類であり、これにわずかに酸化アルミニウムが加わった程度であった。
 四〇年代に入ると、新居浜港の貿易は一段と拡大していったが、この期間の輸出品目の大きな特徴は、戦前からの花形商品であった過燐酸肥料が減少し、四五年の生産停止とともに輸出品目から姿を消していったことと、電気製品(カラーテレビ)がカナダやアメリカへ大量に輸出されるようになったことである。これに対し四〇年代の主要輸入品目は銅精鉱五四%(一九七億四七〇〇万円)、ニッケル鉱石九%(三二億七五〇〇万円)、ボーキサイト九%(三一億九三〇〇万円)などであり、その他の輸入品には粗銅、鉛鉱、燐鉱石などがあった。輸入品のうち銅精鉱は四〇年には五万トン(四〇億二五〇〇万円)であったが、四八年には四二万トン(五〇四億一八〇〇万円)に増加した。原産国はインドネシア・カナダ・ペルー・チリ・ザンビア・オーストラリア・パプアニューギニアなどであった。四〇年代の銅原料の輸入において特記すべき事項は、銅精鉱を製錬して品位を九八%以上に高めた粗銅が輸入され始めたことである。これは原産国における工業化と資源ナショナリズムのあらわれの一つであるが、新居浜の銅製錬工業にとっては原料の転換という製錬方法全体を再検討しなければならない重大な出来事であった。
 ニッケル鉱石は四二年までインドネシアやニューカレドニアのガーニエライト鉱とカナダからの硫化ニッケル鉱とが輸入されていたが、四三年からはオーストラリア産の硫化ニッケル鉱も加わった。その後、ニッケルマットがニッケル鉱石に代わる有力なニッケル原料として注目されるようになったため、四八年からニッケルマットが輸入されるようになり、それ以来今日まで輸入が継続されている。四○年代はアルミニウム製錬の生産が拡大し、設備投資が急速に進んだ時期であり、これと併行してボーキサイトの輸入量も急増した。

 昭和五〇年以後の新居浜港の貿易

 四八年一〇月に端を発した「オイルショック」は我が国の経済に大衝撃を与え、膨大な設備投資などが大きな問題としてのしかかってきた。また、この石油危機を一つの契機として欧米先進諸国、産油国、発展途上国をめぐる国際情勢が複雑にからみ、五○年代の構造不況へとつながっていった。このことは、新居浜市が五三年に構造不況地域に指定されたことに見られるように、新居浜市内の各企業にも大打撃を与え、地域経済に深刻な影響を及ぼした。
 五○年代の貿易の特色は、輸出においては機械類、電気製品が増加した反面、肥料類が四〇年代に引き続いて減少し、輸出構造が従来と異なる傾向をみせ始めたことである。機械類については、五〇年代に入ってプラント設備が多くなり、五二年の輸出額は三三七億円に達し過去最高を記録した。同年に輸出されたプラント機械類は金属加工機、パワーショベル、加熱機、港湾荷役設備等であり、輸出先は韓国・中国・台湾などの近隣諸国をはじめ東南アジア・西ヨーロッパ・南アメリカ・アフリカ・オーストラリアなど広範囲にわたった。機械類の積み出しは、従来は主に神戸港など他の港から行っていたが、この頃から直接積み出しが多くなり、輸送形態も五三年にイラク向けに輸出された岸壁走行式ジブクレーン(計一六台)にみられるように、組み立てた状態で船に搭載し、これをタグボートで曳航するという画期的な方法もあらわれた。新居浜通関のうえ阪神港から積み出される品目であるカラーテレビは、五一年には前年に比べて五倍程度増加したが、翌年には対米輸出規制のため五〇%も減少した。五一年末から登場したVTRは主としてアメリカ向けに輸出されているが、国際競争力の最も強い品目の一つとして脚光を浴びるようになった。
 六〇年の輸出状況をみると、輸出額の最も多いのは電気製品で八四〇億円(輸出総額の六八%)に達しており、次いで機械類一三七億円(同一一%)、電気機器(同一○%)となっており、かつて輸出の中心品目であった肥料はわずか二七億円(同二%)にとどまっている。輸出先はアメリカが最も多く一〇一三億円(輸出総額の八二%)を占めているが、このうちの八〇%以上が電気製品となっている。以下中国(同六%)、タイ(同二%)、ソ連(同二%)、韓国(同一%)となっている。六〇年の輸出総額は一三五七億円で五九年の二三〇六億円に比べて大幅に減少しているが、これは主にVTR等電気製品の最大の輸出市場であるアメリカ向けが減少したことによるものである。なお、同年の移出量は九二万トンであるが、長びく不況が影響して次第に減少しつつある。移出量の最も多い品日は化学薬品で移出総量の四〇%を占め、次いで非鉄金属三三%、化学肥料五%、金属くず四%となっている。
 五〇年以後の輸入をみると、主要品目は依然として銅精鉱、ニッケルマット、石炭、ボーキサイト等原材料であり、新居浜の工業の多くが原料加工型であることを端的に示している。五〇年以後、西条市等に立地する先端産業の発展に伴い輸出額が急増したのに対し、輸入額は七○~九〇億円で推移しており、大きな変動は見られない。六〇年の輸入総額は六七六億円であるが、最も多く輸入しているものは銅精鉱四二一億円(輸入総額の六二%)であり、チリ・フィリピン・カナダ・アメリカ等から輸入している。次いでニッケルマット六二億円(同九%)、石炭五〇億円(同七%)、ミックスサルファイド四一億円(同六%)、ボーキサイト三一億円(同五%)等となっている。ミックスサルファイドはフィリピンから輸入されるものであるが、これはラテライト鉱からニッケルを回収製錬する際に副産物として生産されるもので、ニッケルを一八%程度含有しているため、ニッケルマットとともにニヴケルを生産する主要な原料となっており、新居浜港へは五一年から輸入されだしたものである。輸入相手国はオーストラリアが最も多く一七九億円(輸人総額の二七%)となっており、次いでチリ(同一六%)、フィリピン(同一四%)、カナダ(同一一%)、アメリカ(同八%)となっている。なお、同年の移入量は一〇九万トンであるが、これも移出と同様次第に減少している。移入量の最も多い品目は石油製品で総移入量の三○%を占め、次いで化学薬品(二九%)、重油(一七%)、鉄鋼(八%)、その他非金属鉱物(五%)となっている。
 新居浜港の貿易は銅の輸出に端を発し、その後長期間にわたって化学肥料類が輸出の花形となっていた。五〇年代に入るとカラーテレビやVTR等の電気製品が多くなり、輸出構造に大きな変化が見られるようになった。しかし、輸入は依然として鉱産資源類がほとんどであり、新居浜港が我が国の資源確保に大きな役割を果たしていることがよく分かる。経済環境がきわめて厳しい現在、新居浜に立地する各企業においては、構造不況産業からの脱却をめざして技術革新に取り組むとともに、体質改善や工場再編等に懸命な取り組みがなされている。こうしたなかにあって、流通の拠点として新居浜港の果たす役割は益々重要になってきているといえよう。








表4-26 新居浜税関支署における通関実績の推移

表4-26 新居浜税関支署における通関実績の推移