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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

第一節 概説

 昭和六二年一一月三日に市制五〇周年記念式典を行った新居浜市は、東予地域のほぼ中央に位置し、東は士居町・伊予三島市・川之江市を経て香川県・徳島県に至り、西は西条市を経て北西に今治市、西に桜三里を経て県都松山市に至る。
 この地方には、大化の改新後の郡制によって、神野郡(後大同四年新居郡と改めた)が置かれた。郡役所は最初西条地方に設けられていたが、奈良朝末期に郡の東部中村に遷され「新居」とした。そして神野郡新居郷の北方海浜を「新居浜」と呼ぶようになった。新居浜の地名はこのことに由来する。
 鎌倉時代から戦国時代にかけて、金子・松木・宇高・藤田等の豪族の支配下にあったが、江戸時代になって、現在の市域のうち新居浜・金子・庄内・沢津・宇高・垣生・郷・松神子・多喜浜・阿島・大島・泉川・船木・中村は西条藩に、萩生・大生院は小松藩に属し、角野・立川山・大永山・種子川山及び新須賀は天領となっていた。やがて、明治二二年二(一八八九)町村制施行により、新居浜・金子・高津・垣生・神郷・多喜浜・大島・泉川・船木・角野・中萩・大生院ので一二か村となった。
 新居浜市が誕生したのは、昭和一二年一一月三日に新居浜町・金子村・高津村の合併によってである。その後昭和二八年五月三日には垣生村・神郷村・多喜浜村・大島村を、同三〇年三月三一日には大生院村・中萩村・泉川町・船木村を合併する。翌三一年九月二八日には大野山西側尾根を境にして、その西側の大生院西部が西隣りの西条市に編入されたが、同三四年四月一日には角野町を合併した。その後も海岸線沿いに造成された埋め立て地が順次編入され、昭和六〇年四月一日現在、人口一三万四一二七人(住民登録)、面積一六〇・一三平方㎞(国土地理院)、県下第二の都市となる。
 市の南部は高峻な四国山脈であって、市の面積の五〇%以上を標高二〇〇m以上の山地が占めている。したがって、総面積から林野面積を除いた可住地面積の割合は市の総面積の三分の一にすぎない。しかしながら宅地化は非常に進んでおり、乏しい可住地面積のうちのかなりの部分が宅地化し、その部分に人口が集中して市民生活が営まれているといえる。
 元来、新居浜地方一帯は、農漁村にすぎなかったが、元禄四年(一六九一)の別子銅山の開坑によって、逐年繁栄し、多くの住友系諸会社を中心とする企業が立地する。とくに昭和三〇年以後は、住友企業コンビナート基地として栄え、同三九年には東予新産業都市の指定を受け、四国屈指の臨海工業都市となった。
 市の発展に重要な意味をもってきた海岸線は、市の北側に直線延長一六kmにわたって東西に延びている。古くは漁村としての新居浜をささえ、近世以降は塩田及び別子銅山の搬出入港として寄与し、現代においては住友企業を中心とする西部臨海工業地帯を形成して、工業発展の原動力となっている。また、明治以降続けられている埋め立て造成は、平地の割合の少ない本市にとって大きな意味をもってきた。
 市街地の広がる新居浜平野は、南は赤石山脈、北は燧灘に面している。そのため台風などの天災の被害を受けることは少ないが、山地や海岸、金子山や郷山などの丘陵との地形上の関係で偏向風が多く、大気の逆転層を生じやすい。
 赤石山脈の麓は東西に中央構造線が走り断層崖が発達している。新居浜平野を貫流する国領川は、この断層崖に広い扇状地をつくるが、尻無川や東川・渦井川なども同じく扇状地を形成し、これらが複合しているところもある。国領川右岸の高須付近では、新旧の扇状地の境に崖がなく、古い扇状地の表面に火山灰質の音地土壌がかぶさっている。南部の岸ノ下付近や萩生付近では活断層が扇状地を切っていて、低い断層崖がみられる。これらの崖下や扇状地の先端には泉が湧き出ている。全体に勾配が大きい平野で、河川は表流水が少なく伏流しているために土地利用としては畑地が多いが、一方で、年間約一億五〇〇〇万立方mの伏流水を保有した地下自然ダムとして(最近では工場や市街の密集した海岸地域において、工業用水等の汲みあげ増加によって、地下水への塩水混入をみたことがあるが)市民に多くの水を供給してきた。国領川・東川などの河川は流域面積が狭く、かつ後背山地が高峻なため一時的急流となるほかは、平常は流量が少ないが、国領川の清流は、上流において鹿森ダム等に貯水されて工業用水等に利用されているし、広い河川敷は自然緑地帯として生かされている。
 平野の中央部は、東の郷山、西の金子山の丘陵性山地が張り出し幅が狭くなっている。そのうえ新居浜市は、新居浜町ほか一一町村を合併し、旧町村の中心集落が分散しているため道路網が複雑であることとあいまって、市街地は近隣市町村との連絡を妨げられているが、郷山・金子山はそのままグリーンベルトの役割を果たしている。燧灘に沿う地域は三角州の沖積地で、垣生山は堆積による陸繋島である。東部の黒島から垣生山にかけての一帯は近世に開発された干拓地で、国領川左岸は住友系企業が埋め立てて工場用地にしたところである。
 農村は米麦生産を主としてきたが、工業都市としての発展が著しかったため、離農や兼業する者が多くなり、米麦生産は減少した。垣生地区の砂丘地帯は野菜産地で、ほかにさと芋などが近郊野菜栽培として作られている。
 予讃本線が通過し、中萩・新居浜・多喜浜駅がある。松山・高松からの所要時間は特急列車で共に約一時間半である。また、国道一一号が東西に通過している。松山・今治まで、それぞれ三〇分ごとに特急バスが運行され、東は川之江までバス路線がある。新居浜港からは、神戸行きのフェリーが一日二往復(旅客のみ)就航している。