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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一〇 石鎚登山道と集落の変遷

 石鎚登山道の変遷

 西日本最高峰(一九八二m)の石鎚山は、予土の国境に近く、西条市と周桑郡小松町に跨り、山岳信仰で登山道が一四コースもあるのが特色である(図3―35)。北の西条側か表参道で、南の面河側か後に開けた裏参道である。戦前の歩いて上り下りした成就社までの参道は荒廃し、今では西条側にはロープウェイやリフトを利用し、成就社(標高一四二〇m)の神門から頂上まで四㎞余の参道を往復六時間で楽に参拝できる。八丁坂付近の樹木には説明板があり、途中トイレ設備もある。
 面河側は四月初めから一一月末まで、スカイラインを土小屋(標高一四九二m)まで車で行き、土小屋から頂上へ山腹を歩いて往復五時間で参拝できる。土小屋からの参道の方が上り下りが少なくて、三の鎖の下で成就社道と一緒になる。表からでも裏からでも今では松山から日帰りで、頂上まで登り往復できる。宿泊して石鎚山の霊気を味わうには、表3―31の如き施設があり、便利になった。
 江戸時代の石鎚登山については、日野暖太郎著の『西条誌』(天保一三年―一八四二)の巻一二に次のようにある。「鎖の長さを下一七、中二五、上三三尋……今宮は中奥山の枝在所にて、中奥より四十丁、四手坂より十二三町家数ニ十軒ほどあり、これより常住山(元の奥前神寺)まで六十町ありという。今宮より奥は人家なし、故に石鉄参詣の道者ここに宿るもの多し」と。常住山の宿坊や神殿など詳細な挿絵があり、先達の事、三十六王子のことなどを検討すると興味がある(矢野益治著『注釈西条誌』二二〇頁)。
 半井梧菴著「愛媛面影」(明治二年―一八六九発行)に、文久二年(一八六二)に伊予高嶺に登った次のような記事(伊予史談会双書I三八頁)がある。

五月廿七日早朝今治を出発し、小松泊り。雨の中を香園寺の南の綱付山(海抜五一九m)を経て、横峰寺に至る。この間七十町ばかり、寺では干柿子・餅などを売る。そこより上り五町ばかりで鉄の鳥居。下ること三十町ばかり、急な坂を郷の坂という。高橋という太鼓橋の架った河を板摺(虎杖)瀬と名づく。橋を渡って登ること十五町ばかりで下黒川村につく。今日は常住まで行きたいと思ったがそこは客を泊めることを許さない掟なるよし、さればとて此所に宿る。(中略)一の鎖は十七尋、二の鎖は三十三尋、三の鎖は七十五尋と。

 石鎚山の鎖の長さは、昭和二五年七月二日村上節太郎が愛媛県師範学校の生徒四名の協力で測定した。一の鎖が三〇m、二の鎖が四九m、三の鎖が六六mであった。その後昭和五七年五月二一日愛媛県観光課長鳥山寛・綿岡四郎らが測定した。一の鎖五本三三m、二の鎖が四本で六五m、三の鎖が四本で六八mと報告している。なお松長晴利山岳会長は「マウンテン・ガイドブック」に、一の鎖を二七m、二の鎖を四九m、三の鎖は六ニmと記している。このように差があるのは、岩にかけているので、どこまでを長さとするか、測り方によるからである。
 一個の鎖の長さは古いのは三九㎝、新しいのは五五㎝で、新しいのは輪が大きく直径が細いので握りやすく、足もかけやすい。鎖の傾斜は、一の鎖が五〇度、二の鎖が七〇度、三の鎖が六〇度であった(一九七八年八月二五日測定)。迂回路ができたので、今は鎖をこがなくても登れる。

 石鎚季節宿の集落の衰微
 
 昭和三三年七月の調査では、石鎚村(千足山村)の黒川が二四世帯、大保木村の今宮が三二世帯、面河村の梅ヶ市は三四世帯もあった(『石鎚山系の自然と人文』)。そしてその年黒川で七軒、今宮で一二軒、梅ヶ市で二軒が登山者を泊めていた。多くは成就社の宮川旅館や白石旅館や常住屋に泊まるようになっていた。表3―32は昭和三三年の調査資料であり、図3―36は、伊東鶴市の記憶による「黒川部落の家号と戸主名」である。
 現在は、三部落の家は残っているが、空家ばかりで、人は東予地方の平坦部に生に移住している。
 成就社の宿は昭和五五年一一月一三日未明、宮川旅館から出火し、近くの旅館はもちろん、神社の建物も焼失した。しかし信仰のお蔭で翌年・翌々年に大部分が復旧し火災後は、以前よりも整然として年々盛大になっている。宿泊収容力は表3―31の如くである。

 表参道

 石鎚登山ロープウェイが、一九六八年(昭和四三)八月一日開通してから、表参道の石鎚宿(民宿・季節宿)が次第に衰え、登山道も変化した。
 ロープウェイ山麓下谷駅の集落は(図3―35)、戦前には農家が十数軒あったが、今は六軒になった。山麓にロープウェイができるまでは、宿は泉屋(伊藤富重・吏) 一軒であったが、ロープウェイが開通したので、京屋(伊藤四郎)は西条市神戸に移住していたが、帰って来た。そして広い敷地に京屋旅館を建て、駐車場を設け、十軒ばかりの土産物店に敷地を貸している。パーク場も三〇〇台駐車することができる。

 石鎚登山ロープウェイ㈱は、昭和四二年一一月三日着工、工費二億五〇〇〇万円、一年八か月で開通した。長さ一八一五m、海抜四五〇mの西之川下谷から、海抜一三〇〇mの山頂成就駅に架設された。所要時間七分三〇秒、山頂駅から成就社まで約一㎞、二〇分かかる。成就社から頂上まで歩いて三~四時間を要する。ゴンドラは「いしつち」と「まえがみ」で五一人乗、営業時間は夏は七時から冬は九時から一七時まで、日曜祭日は朝八時から三〇分毎に、祭りには臨時一〇分毎に運転する。料金は当初四〇〇円小人二〇〇円、往復は大人七〇〇円であった。値上げされて一九七八年には片道大人七〇〇円、往復一二〇〇円となり、現在は大人往復一五〇〇円である。従業者は一二名で、年間乗客二〇万人あれば採算がとれる。一九七七年一二月西条分の「石鎚ピクニック園地スキー場」初級用、一九八六年小松分に「石鎚成就スキー場」上級用がオープンした。スキー客が年三万人に及び、七月に次いで。一月、二月、八月の順に客が増え、黒字経営になった。乗客の累年統計は表2―39の如くである。

 ロープウェイが開通するまでは、河口(図3―35)から黒川道(周桑郡千足山村)か今宮道(新居郡大保木村)を通って成就社経由で石鎚の頂上に登るのが普通であった。西条側の河口に県道が通じ、バスが開通しだのは大正一四年(一九二五)七月である。昭和一二年一二月には下黒川の河口に石鎚郵便局が設けられた。河口に今は寂れているが関門旅館・川口屋と、今はなくなった橋本屋(お山市の季節宿)ができ、バス停で自転車を預かってくれた。関門旅館には食堂があり、煙草を売っており、西半分は小松町、東半分は西条市に跨る建物で、柱が町界で、固定資産税をどちらに払うか面白い食堂であった。昭和二八年三月から西条~西之川に定期バスが通うようになり、今では一日八往復下谷経由で運行している。横峰寺(六〇番札所)の裏参道のバス線小松~石鎚土居間(虎杖の農協前)は廃止され、黒瀬峠から横峰寺の一・五㎞の回転場(平野部落)まで、昭和五九年三月からバスが通じた。

 石鎚裏参道と石鎚スカイライン

 石鎚裏参道は、西からニノ森を縦走するか、南から面河山を昔は北上した。石鎚スカイラインは面河川の左岸から土小屋に至るコースを選んだ。昭和四〇年八月一五日県営工事で着工し、難工事で五年余の歳月と工費二一億円を投じて、昭和四五年八月三一日に工事を終わった。工事の遅れた理由は、スカイラインのコースは天狗岳のような堅い安山岩でなく、崩壊しやすい凝灰岩であったためもある。昭和四五年九月ニ日に石鎚スカイラインは関門から土小屋までの一八・一㎞が開通した(図1―1参照)。
 面河の関門の海抜は六四五mで、表登山口の河口(海抜三〇〇m)や下谷(海抜四五〇m)より高い。土小屋の記念碑の広場が海抜一四九三mで、バス停の所が一四九二(イヨノクニ)mで、標柱が建てられた。
 土小屋の石鎚遙拝所は昭和四五年一〇月ニ七日に新築され、国民宿舎の「石鎚」と県営ロッジの岩黒山荘と白石ロッジの完成祝賀式は、同年一一月一二目に挙行された。石鎚スカイラインは難工事であった。当時のことは浅香幸雄・山村順次編著の『観光地理学』(一九七四)大明堂発行に記されている。
 なお石鎚スカイライン有料道路には、橋梁が七橋ある。下から関門橋三二・六m、猿飛橋一〇・四m、金山橋五七・一m、筒上橋二〇・五m、沢渡橋二四・六m、朝霧橋二二・六m、滝見橋三〇・〇mである。隧道も六つある。下から面河隧道一二〇〇m、猿飛隧道四六・五m、関門隧道一六二・七m、冠岳隧道二〇二・七m、保土迫隧道四六・〇m、金山隧道四九・〇mの六つである。
 石鎚スカイラインは例年冬期四か月間は降雪と凍結のため閉鎖する。利用車は表3―33のように、昭和四六年や四八年および五七年の一〇万台に最近は及ばない。乗用車とバスを勘案して平均四人とすれば約四〇万人と推定される。

図3-35 石鎚登山コースの今昔

図3-35 石鎚登山コースの今昔


表3-31 石鎚の山小屋・旅館の一覧

表3-31 石鎚の山小屋・旅館の一覧


表3-32 周桑郡千足山村(石鎚村)字黒川の石鎚宿の調査表

表3-32 周桑郡千足山村(石鎚村)字黒川の石鎚宿の調査表


図3-36 在りし日の黒河部落の家号と戸主名

図3-36 在りし日の黒河部落の家号と戸主名


表3-33 石鎚スカイライン利用車の台数/営業日数

表3-33 石鎚スカイライン利用車の台数/営業日数