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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

六 谷口集落氷見

 谷口集落氷見

 西条市域の西端に位置する氷見の集落からは、霊峰石鎚を間近かに仰ぐことができる。天保一三年(一八四ニ)に誌された西条誌には、「高山の北にある村里は夏も雪の氷りたるが見ゆる故に、この地を氷見と称うなり」と誌しているのは、故なしとしない。
 石鎚山地の北麓に位置する氷見は、その西に接する小松と共に石鎚登山の基地として栄え、また石鎚に源を発する加茂川流域の山村の物資の集散地として栄えた。谷口に立地して、半地の物資と山間地の物資を交換する集落を谷口集落という。氷見は谷口にこそ位置しないが峠越えに集まる山間地の物資の集散地であり、機能のうえからは谷口集落ということができる。
 幕末の氷見の概要については、前述の西条誌に詳細な記事がある。それから、往時の氷見を復元すると、氷見は松山・今治方面と琴平を結ぶ金毘羅道の要路に当たっていたこと、背後の石鎚山麓の五力山地方の木材・楮皮などの集散地で、木問屋や楮皮座があり、大いに賑わっていたこと、また北方一㎞の宮ノ下川の河港は、山間物資の積出し港として賑わっていたことなどがわかる(写真3―23)。

 大正年間の氷見

 氷見は明治維新以降も山間部の物資の集散地として繁栄が継承される。明治初期の新居郡地誌によると、氷見村の戸数七六ニ、うち商業一四一となっているが、この商家の大部分は、谷口集落の氷見本郷が占めていたと思われる。氷見村の戸数はその後増加し、明治三七年(一九〇四)には八四六戸を数え、同四一年(一九〇八)には町制を実施する。
 明治・大正年間は谷口集落氷見の最盛期であった。山間部の物資としては、楮・茶・棕櫚縄・板材などが主として「仲出し」といわれる担大によって搬出されてきたが、明治中期以降は三椏・木材・木炭なども、仲出しや駄馬によって搬出されてくる。大正一二年(一九二三)に背後の黒瀬峠の馬車道が開通すると、加茂川を流送してきた木材が黒瀬大畑で陸揚げされ、峠越えに氷見に搬出されてくる。
 氷見の商店街は金毘羅街道に沿う新町筋と下町筋であった。往時の商店街を構成する店舗をみると、呉服屋・小間物屋・化粧品店・時計店・雑貨屋・菓子屋などと、多彩な商店が並ぶ。また材木屋・荷車大工・蹄鉄屋などが並ぶのは、山間物資の集散地の特色を示す。また市街の中心部には商人宿や料理屋、今治銀行なども立地し、金の出入り冲人の往来が多かったことがうかがわれる(図3―32)。また黒瀬峠に近い山口の地には、数軒の製材工場もあった。当時の氷見は、山間部の物資の集散地であると共に、山間部から物資を搬出してきた人々が、日用雑貨品を買い求める商業集落でもあった。

 氷見の現状

 殷盛をきわめた氷見の町も、昭和一〇年ころからは次第に衰退してくる。それは黒瀬峠の峠道が開通したり、大保木村から西条市への加茂川ぞいの道路が改修され、山間部からバスやトラックが氷見を中継せず、直接西条あるいは小松方面に通じるようになったからである。ここに氷見は山間部の物資の集散地としての機能を喪失し、衰退していくのである。加えて昭和一六年氷見町か西条市に合併されると、氷見は行政の中心地としての機能も失い衰退に拍車がかかる。
 現在の氷見の商店街の店舗構成をみると、かつて栄えた新町筋・下町筋の商店街はすっかりさびれ、一般住宅の間に商店が点在する状態である。大正年間には見られた呉服店にあたるような店舗は影をひそめ、付近の住民の需要に応じる日用雑貨品店が目につくのみである。商店街は全体としては新しい国道一一号沿いの方に中心地を移している。国道沿いでは、ガソリンスタンドや自動車関係の店舗、病院・事務所などが目立った存在である(図3―33)。




図3-32 大正中期の氷見商店街の町並

図3-32 大正中期の氷見商店街の町並


図3-33 西条市氷見商店街の店舗構成

図3-33 西条市氷見商店街の店舗構成