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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 西条市の都市機能と都市構造

        
 田園工業都市

 西条市の産業別就業人口は昭和三○年代半ばころまでは農業が第一位で、製造業は第二位であった(表3―23)。しかし全就業者に占める農業従事者の比率は、三〇年の三三・五%から六〇年には八・四%に低下し、逆に製造業従事者は二四・三%から三一・八%に増加している。製造業従事者の比率は五〇年に三一・一%に達したが、五五年には二八・九%に一時減少した時もあり、その増加は頭打ちの状態である。
 この三〇年間で就業者数の増加率が大きい業種は建設業の二・三倍、サービス業の二・一倍などで、卸売・小売業は一・六倍となっている。これに対し林業、狩猟業や鉱業の減少は著しく、全体的には第一次産業の比率が低下している。
 西条市の産業別就業者数の割合を県内の一二の都市全体の平均と比較すると、都市としての西条市の特色がよくわかる(図3―22)。こうした比較を特化係数といい、その係数が一〇〇を超えている業種は、就業者数の割合が県内都市の平均値より高いことを示している。西条市の場合、製造業が一三一で最も高く、次いで農林水産業一一九、鉱業・建設業一一四で、他はいずれも一〇〇以下である。これを新居浜・今治両市と比較すると、製造業やサービス業は三市とも近接しているが、農林水産業は新居浜市が四〇、今治市が六一で西条市に比べかなり低くなっている。一方、卸売・小売業や金融・保険・不動産業、運輸・通信業などは西条市が他の二市より低い。このように、西条市は新居浜市や今治市に比べ、田園工業都市的傾向が大きいことが指摘できる。
 この田園工業都市という性格は西条市が目指している都市像で、西条市では昭和三〇年代の始めころから田園工業都市建設のための具体的な取り組みが試みられてきた。例えば、大保木村・加茂村及び大生院村の一部が西条市に合併・編入された三一年に、市独自の総合計画として「新市建設計画」が決定された。三九年には「東予新産業都面建設計画」を策定し、四〇年には「西条・周桑地区総合都市計画」を策定した。
 その後四四年に地方自治法が一部改正され、計画行政を進める基本構想が自治体の議決事項となったのを機に、四五年七月に基本構想の策定に着手した。同構想は翌年九月西条市議会で議決され、昭和六〇毎を目標年次とした工場誘致による工業都市の実現が目指された。
 この基本構想は、石油危機以降の情勢変化に対応するため五三年に改訂作業が始められ、翌五四年三月に第一次改訂の基本構想が議会で議決された。ここでは昭和七〇年を日標年次として、「豊かな自然と広い土地」「歴史と伝統を誇る文化」「豊富な水資源と百万坪の工業用地」「四国における中心的位置」を発展の潜在力として田園工業都市建設が企画されている。

 工業の発達

 西条市の工業は、昭和一六年の市制施行前後の企業誘致、三九年の新産業都市の指定及び五〇年の東部臨海土地造成事業実施の三期を大きな節目として発展してきた。特に新産業都市の指定後は、東予港の建設、加茂川水系の開発、工業用地の造成などの大規模な工業開発計画が立てられた。また四三年には「西条市工場誘致条例」が制足され、立地企業に対する助成や就業機会の確保など、新規企業誘致のための条件整備が進められた(同条例に基づく奨励措置は四五年三月までの新規誘致企業に適用)。
 市制成立前の西条の工業を業種別生産額で比較すると、人造絹糸が三七・九%を占めて最も多く、次いで綿紡織品が二二・九%で、他は製材・染色加工品・機械器具・和洋紙などが四~五%台であった。このうち人造絹糸は昭和一一年(一九三六)創業の倉敷絹織㈱西条工場によるもので、同社は西条に立地した最初の近代的な大企業である。
 戦後は荒廃していた各種工業が昭和二六年ころから復興し、同年の西条市の製造品出荷額は約九〇億円に達した。そのうち化学薬品・化学製品業が九一・五%を占め、他の紙・紙類似品製造業二・八%、木材・木製品業二・二%を大きく引き離していた。三〇年代以降は市内に立地する工業の種類がしだいに増加し、三九年には四国積水工業㈱、四〇年には寿電機㈱(四四年一一月に松下寿電子工業㈱と改称)か操業を開始した。また四四年にはプリマハム㈱四国工場、四六年には西条鉄工団地協同組合の各企業や住友金属鉱山㈱東予精錬所が操業を開始した。
 工業の多様化にともない、中核であった化学工業の製品出荷額の比率は、昭和三三年の七四%から五七年には一三%に低下している。五七年の製品出荷額の一位は電気機械の六五・一%で、化学工業は二位となり、三位は食料品製造の六・三%となっている。
 昭和五○年一〇月には東部臨海土地造成事業が着工した。同事業は西条市の工業化にとって画期的なもので、造成地の総面積三二四haのうち、西ひうちと名づけられたニ号地一七七haは五五年三月に竣工した。西ひうちの分譲面積は一三五haで、五九年一〇月には可処分面積の約七六%に企業誘致が進んだ。これらの企業の中には、三菱電機㈱のIC工場や四国電力㈱の太陽光発電実験プラントなどもみられる。また、六四年度末完成予定の一号地は、竣工後住友関連企業への譲渡契約が成立している。

 商業の発達

 昭和一六年の市制施行時には、市内の商店の約八割が旧西条町地区にあり、周辺地域の商業機能はごくわずかであった。旧西条地区の商業機能の中心は、東町や紺屋町など陣屋町に起源する商店街やその隣接地域である。市制施行後は戦時経済統制下のため商業活動は大きく制限されていたが、戦後の経済復興にともなってしだいに商品の流通が活発になった。
 二〇年代後半には地方都市へも百貨店が進出するようになり、西条市でも二六年に「大屋」、三四年には「南海」が開店した。さらに、四〇年には百貨店以外にスーパーマーケットなどの大規模店舗の開店が始まり、西条市には五三年六月に「フジ」が開店した。
 昭和五七年の西条市の商業の規模は、三三年に比べ商店数で一・五倍、従業員数で二倍、年間商品販売額でニ四・七倍になっている。また、商店数の増加が最も著しいのは飲食店の二・八倍で、次いで卸売業の二・二倍である。これに対し織物・衣服・身のまわり品小売業や飲食料品小売業の商店数の増加率は低い。
 西条市では昭和二二年に西条商工会議所を設立し、四四九名の会員で発足した。会員数は四二年には六〇〇名、五二年には一一〇六名に増え、五六年の会員一二一〇名のうち商業部会が五〇九名を占めている。しかし商業部会員の比率は三七年の五五%からしだいに低下して五六年には三五%になり、逆に工業部会員の比率が三七年の二四%から五六年には三五%に増加している。
 また、三〇年には西条商店連盟が組織され、商店街共同の各種行事の実施、共同施設造り、商店街の振興などに取り組んでいる。さらに五〇年には商店街の近代化を促進するための西条商店街近代化協議会が設立され、大型店対策や商店街の活性化などの振興対策を行っている。

 行政機能と都市機能の分化

 西条藩は明治四年(一八七一)の廃藩置県により西条県となったが、同年一一月に松山県に含まれた。明治五年に設置された大区・小区の制度は、同一一年(一八七八)の「郡区町村制法」により消滅し、郡役所が郡の事務取扱所となった。
 西条を含む新居郡の初代郡長は、旧西条藩士で擇善堂の教官であった和田義綱が任命された。明治一四年(一八八一)九月に新居・周布・桑村の三郡が統合され、西条町に郡役所がおかれた(郡長は石原信文)。やがて明治三〇年(一八九七)四月に周布・桑村両郡が合併して周桑郡となり新居郡と分かれた。しかし中間自治体としての郡の行政機能は発達せず、大正末年には郡長、郡役所の名も消滅した。
 西条市明屋敷字四軒町に置かれていた新居郡役所の跡には西条町役場が移り、今日の西条市役所となっている。四軒町は当時から郡役所をはじめ、税務署・西条警察署・西条営林署・西条町役場などがおかれ、西条町の行政中心地区となった。これらの官公署は旧武家屋敷地に設置されたもので、現在も西条市役所をはじめ中央官庁の出先機関などが集中している(図3―23)。官公署の中には西条営林署・西条警察署・伊予西条税務署のように四軒町から移転したものもある。また、市役所南隣の神拝にあった西条消防署も、交通に便利な朔日市の現在地に移っている。
 西条市の中心部付近は今まで述べてきたように、都市機能が明瞭に分化している。即ち、予讃本線伊予西条駅と西条藩陣屋跡(現西条高等学校等)にはさまれた都心部には、中心商店街や行政地区があり、中心商店街に隣接して飲食店街が並んでいる。これらの周囲は密度の高い住宅地域が取り囲んでおり、その北隣に臨海工業地帯がある(図3―24)。しかし、神拝の住宅地区の中にも大正時代に操業開始しか古い工場があり、これらの工場の移転問題が将来の都市計画の課題となっている。






表3-23 西条市の産業別就業者数の推移

表3-23 西条市の産業別就業者数の推移


図3-22 西条・新居浜・今治3市の産業別就業者構成からみた特化係数

図3-22 西条・新居浜・今治3市の産業別就業者構成からみた特化係数


図3-23 西条市中心部の官公署・公共施設(門田原図)

図3-23 西条市中心部の官公署・公共施設(門田原図)


図3-24 西条市中心部の都市構造

図3-24 西条市中心部の都市構造