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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

七 周桑平野における式内社と太政官道

 式内社

 『延喜式巻十、神祇十・神名下』(吉川弘文館発行の国史大系本)をみると、「伊予国廿四座、大七座、小十七座」とある。東方の宇摩郡から列挙すると、次の如くである。

(1)村山神社(大)―宇摩郡土居町津根 (2)黒島神島―新居浜市黒島 (3)伊曽野神社(大)―西条市中野 (4)周敷神社―東予市(周布村)周布 (5)佐佐久神社―東予市(吉岡村)安用 (6)布都神社―東予市(吉岡村)石延 (7)大須伎神社―今治市(日高村)高橋 (8)伊加奈志神社―今治市(清水村)五十嵐 (9)大山積神社(大)大三島町宮浦 (10)大野神社―越智郡玉川町大野(11)姫坂神社―今治市(日吉村)日吉 (12)多伎神社(大)―越智郡朝倉村古谷(13)樟本神社―今治市(立花村)八町 (14)野間神社(大)―今治市(乃万村)神宮 (15)国津比古神社―北条市八反地 (16)櫛玉比売神社―北条市八反地 (17)阿沼美神社(大)―松山市北宮古町 (18)出雲崗神社―松山市道後湯之町 (19)湯神社―松山市道後湯之町 (20)伊佐爾波神社―松山市道後湯之町 (21)伊予神社(大)―伊予郡松前町神崎 (22)伊曽能神社―伊予市宮ノ下 (23)高忍日売神社―松前町徳丸 (24)伊予豆比古神社―松山市(石井村)居相

 以上の如く東予に一四社、中予に一〇社で、南予の喜多郡・浮穴郡・宇和郡には皆無で、当時の文化度が分かる。南予の宇喜五郡や浮穴郡は山地で、交通不便のため、文化が普及していなく、東予や中予に比し、未開地であったと推察する。
 周桑郡には土地は狭いのに式内社が三社ある。
 (1)佐佐久神社は今は東予市、昔の周桑郡吉岡村大字安用、字佐志久山の分離丘陵の上にある(写真2―29)。この丘陵は海抜五五・九mで和泉砂岩層より成り、麓は海抜一五mである。
 志賀剛の『式内社の研究』(昭和三五年)によれば、佐々久神社は近世の享保ころまでは「南尾崎」の地にあった。そこはこの丘陵の南東に当たり、今は芋畑となっているが、古木の太い根が二、三あって、その名残を留めている。この場所は氏子の集落の安用や大影からよく見える。現在佐々久神社は、三社のうち最も寂しく、式内社と刻んだ石柱さえ立っていない。社格は村社で、祭神は大鷦(なへんにとり)命すなわち仁徳天皇である。南朝の天授五年(北朝の康暦元年)(一三七九)、南朝方の河野通堯が、敵将の細川頼之の大軍と戦い、力つきて自害した佐志久山とは、この丘のことである。丘の北に河野通堯の五輪の塔がある。この戦のことは『予陽河野家譜』(歴史図書)一一三頁にある。
 『愛媛県神社誌』(昭和四九年)にょれば、往古は山の南端に鎮座していたが、享保一二年(一七二七)に奉遷した。元禄一四年(一七〇一)の夏の旱魃には藩命に依り、一七日間祈雨祭を執行し、瑞雨で穀物が豊かに実ったため、米八石を寄進した。その後も藩はもとより各郡司より祈雨祈晴、五穀成就の祈願があって、神徳顕著である。
 (2)布都神社は今の東予市、昔の周桑郡吉岡村大字石延の飛地にある(写真2―30)。県道ぶちで狭く、式内社にしては貧弱である。大正六年五月に建てた式内布都神社の石柱がある。当時の周桑郡長柳生宗茂・吉岡村村長山藤四郎・部落総代河上彦四郎の名も刻んでいる。
 志賀剛の『式内社の研究』によれば、もとはもう少し山の方に入り込んだ広岡の集落にあったという。吉岡村付近は中古の津宮郷で、これは布都宮の略である(『伊予温古録』)。宮の付近を石上里と称したのは、大和国の石上神宮に布都の霊剣を祀っているのに因んだのである。しかるに応永以後「伊志乃倍」(石ノ辺)と言ったのが、石延の文字を当てるようになったのである(『大日本史国郡誌』)。祭神は経津主命で、神体は剱である。清和天皇の天安二年(八五八)一〇月二二日己酉六位上より従五位下に昇格した。例祭は四月二〇日。社格は村社である。貞観元年(一八五九)に勅宣によって社殿を再造し、延喜式神名帖に登載された。現社殿は松山藩と本郡内からの寄進で造営されたものである。鳥居は安政四年(一八五七)三月の建立であり、氏子は二一戸である。
 (3)周敷神社 志賀剛の『式内社の研究』によれば、周敷神社は周布村と国安村とにあるが、彼は周布村説を採っている(写真2―31)。「周布村は平野の中にある大きな農村である。郡家も周敷駅も茲にあって、郡名もここから出たのであるから、式内周敷神社が周布村にあるのは当然で、近世に壷井義知が『神名帖弁疑』に於いて考証した如くである」と述べている。
 『続日本紀巻廿五』、「淳仁天皇天平宝字八年十月」の項をみると、「従五位下県犬養宿弥吉男ヲ伊予ノ介ト為ス、伊予ノ国人大初位下、周敷ノ連眞国等廿一人ニ姓ヲ周敷伊佐世利宿弥ト賜フ」とある。
 志賀剛の研究の注釈によれば、この神社は中世河野氏の一族により三島神社と称せられた。桑村郡は三郷に過ぎないのに三社もあり、周敷郡には七郷もあるのに、一社もないということは、甚だ不合理である。神名式に郡名の誤りの多いことは、すでに『神名帖弁疑』に指摘されているとある。
『愛媛県神社誌』によれば、周敷神社は今は東予市一五三二番地、昔の周布郡周布村大字周布本郷にあり、延喜式神名帳に記載の神社である。享保七年(一七二二)四月、西条藩の格社となり、新居郡の伊曽乃神社、宇摩郡の村山神社とともに大社と称した。藩主松平左京太夫頼安より高二石の寄進があり、藩主入国のときには社参し、毎年の祭典に代参があった。明治五年八月郷社となり、明治一四年三月県社に列格した。
 宮司は伊佐芥政雄、氏子は四〇〇戸。境内二二二六坪。境内に旧小松領の石柱がある。周布村は西条藩と小松藩領が混在している。西条領が一八〇〇石、小松領が四〇〇石より成り、大組・小組と称している。
 (4)国安の周敷神社 『愛媛県神社誌』によれば、国安村の周敷神社は藤原神社と合殿になっている(写真2―32)。由緒沿革の項をみると、周敷神社は延喜式内小社で、もと桑村郡三社のうち一社である。往古より国安・高田両村の氏神で、両村の中央部に鎮座のところ、水害が多いため、宝暦三年(一七五三)国安村の上のやや高地に奉遷した。藤原神社と社地を並べたが、後に区域を除き一境内となった。
 藤原神社は応徳元年(一〇八四)八月播磨国広峰より勧請し、国安・高田両村の氏神として奉斎する。社領は平家の時代に没収となり、文永一〇年(一二七三)三月に国安村の上に奉遷した。徳川幕府の崇敬が篤く、紋幕や提灯などの寄進があった。
 宮司は吉田統一、氏子は五〇〇戸とある。主祭神は天忍男命(周敷神社)と素盞鳴尊(藤原神社)。国安の周桑神社旧地図と略社記の天明元年(一七八一)の文書がある。
 明治二年(一八六九)発行の半井梧菴の『愛媛面影』には、周敷神社は、周布郡周布村のを採用し、桑村郡国安村の周敷神社は無視している。

 太政官道

 周桑郡を通る太政官道は、どこをどう通ったか、文献がないのでホノギや、先学の意見をきいて推察するにすぎない。大体昔の往還は山麓を通っているようである。そして並行的に次第に海岸線に近く道路ができたと思われる(図2―30)。
 (1)周敷駅が東予市周布の本郷の周布小学校の近くにあったとすると、メインの太政官道は、久枝から徳出・大影を通り、国安を経て、大明神川を渡り、大野から実報寺を経て朝倉村を経て、越智駅に通じたものと思う。
 周敷駅は周布村の周敷神社の近くと推定されている。これより東は、条里制の道で直角に曲がり、石田と吉田の間を通り、新出の瓢箪池の脇を通り、JR予讃線の鉄橋の近くの中山川を渡って、小松に通じたものと思う。尤も北川の法安寺は礎石(国指定史跡)などから、古いものと推定されるので、太政官道のバイパスがあったのかも知れない。
 この大影から周布の久枝を経て、北川から南川を経て、綱付山(六一九・六m)に至る道を「本縄手」と称する。これにほぼ並行して、安用の延喜式内社の布都神社を通り、観念寺を経て、「旦の上」から「椎ノ木越」に至る線を「長縄手」とか「長ノ手」と称し、太政官道のバイパスと考えられる。
 国安から三芳を経て楠を通り、孫兵衛作新田を経て、桜井に至る道路は、太政官道のメインルートであり、山麓の太政官道よりは後に発達したのではないかと思う。というのは孫兵衛作新田は、寛政年間に、東予市(旧庄内村)の黒谷の人によって開発された、新しい集落だからである。
 なお太政官道の証拠として、国安の三島神社の東に、「大道ノ上」「大道ノ下」のホノギがある。また石田の南西にも「大道ノ下」のホノギがある。

図2-30 周桑平野の式内社と太政官道

図2-30 周桑平野の式内社と太政官道