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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

五 中山川上流域の山村

 林野の利用

 中山川の源流地帯には、丹原町の桜樹地区がある。この地区は昭和三〇年中川村と合併、翌年丹原町と合併するまでは、桜樹村として独立した自治体であった。昭和三一年丹原町に合併するに際しては、西部の滑川地区と明河地区の一部が分村し、川内町に合併された。桜樹村は村の北部を中山川の本流が流れ、それに沿って明治三五年(一九〇二)に開通した国道が走っているが、村域の大部分は石鎚山の西方の堂ヶ森(一六八九m)北斜面の急峻な地形からなる。ここには臼坂・千原・滑川・明河・鞍瀬・楠窪の大字があったが、これらはそれぞれ藩政時代の村であった。谷底平野のほとんど見られないこの地域では、集落は急峻な山腹斜面のわずかな緩斜面を求めて立地するものが多く、集落の規模は一〇~二〇戸程度の小規模なものが各地に点在していた。
 中山川の支流鞍瀬川は、堂ヶ森の北斜面に源を発し、鋭いV字谷をうがって北に流れる。その源流地帯には、大字鞍瀬に属する保井野(一部は明河分)・下影・饒藪・大字明河に属する横海・成・余野・河之瀬などの小集落が点在していた。明治・大正年間の住民の生活は、集落周辺のハタケ(常畑)で雑穀や裸麦を栽培し、その周辺部の林野を利用して切替畑(焼畑)を開き、また製炭や製薪を行うものであった。
 林野の所有状況は集落に隣接したものが私有地で、他は部落の入会林となっていた。私有林はタキギバエと言われる三反歩程度の小規模なもので、自家用の薪炭を採取するだげのものであった。部落の入会林は切替畑・炭山・薪山として利用され、また用材の採取地でもあった。入会山は明治四二年(一九〇九)に各小部落にアテツケられるまでは、部落の住民によって自由に利用された。自由に利用されたとはいえ、その利用がまったく放任されていたわけではない。入会山の利用を決定するのは、正月当初の山開きであった。山開きの日が来ると、部落住民が自分の利用したい山にその目印としてホテをするのである。ホテは自分の利用したい山の範囲に、草やかずらを木に結びつげて目印をすることである。切替畑にしたいところ、炭山にしたいところ、薪山にしたいところはこのようにして縄張りをしたのである。その利用希望範囲が重複するときには、話し合いやくじ引きでその利用権が決定した。切替畑の利用権は、切替畑が耕作放棄されるまで存在したが、炭山と薪山はその利用権が一年で消滅した。建築用材の伐採権は、その木に鉞を打ち込むことによって成立した。鉞を打ち込み、伐採権を確保するのは先着順であったという。
 藩政時代以来継続した入会山の利用は明治四二年(一九〇九)部落有林が村有林として統一されて消滅した。ただし、部落有林は藩政時代以来地元住民によって入会利用されていたので、その慣行が重んじられ、各部落の統一面積の一〇〇分の六八は賃貸地として住民の利用にゆだねられた。賃貸地としてのアテツケは、まず大字部落から各小字部落に林野がアテツケられ、それがさらに小部落内の各戸に割り当てられていった。大字鞍瀬の下影部落に例をとると、集落を構成する二ニ戸に入会林を割り当てるに際しては、山林を切替畑に利用可能な山畑、製炭原木を得るのに適する炭山、薪炭採取にしか利用できない薪山の三つに区分し、山畑はそれを四四筆に、炭山も同じく四四筆に、薪山は二二筆に区分し、それをくじ引きで、各戸に山畑二筆、炭山二筆、薪山一筆を割り当てたという。一戸当たりに割り当てられた林野面積は五町歩程度であり、うち二町歩程度が山畑、二町五反歩程度が炭山、五反歩程度が薪山であったという。明治四二年以降はこの割り当てられた林野を利用して、住民は切替畑を開いたり、製炭に従事したりした。

 山村住民の生業

 桜樹地区の明治・大正年間の住民の生業は集落周辺のハタケ(常畑)で裸麦や雑穀を栽培し、その周辺の林野を利用した切替畑で雑穀を栽培し、食糧を自給すると共に、切替畑にみつまたを栽培したり、また木炭を焼いて現金収入を得るものであった。集落周辺の常畑は面積にして三反歩程度であり、ここには夏作にとうもろこし・あわ・きび・野菜などが栽培され、冬作には裸麦が栽培された。下肥や堆肥・肥草などを投入したので、切替畑と比べると単位面積あたりの収量は多かったが、土壌浸食を防ぐために、下から上に土を打ちあげるように耕耘したので、その投下労力は多かった。
 切替畑には、そば山・麦山・ひえ山の別があった。そば山は、初夏に伐採した樹木を八月中旬に火入れし、すぐにそばを栽培する切替畑である。八月半ばにばら播きして、一一月上旬に収穫するそば作りは、播種後浅く耕地を打ち返すのみで、後は収穫までほとんど手入れを行わない。翌年から三年ほどは連続してとうもろこしが栽培される。とうもろこしは五月半ばに列状に播種されるが、それに先だって、四月に畑が一度耕耘される。栽培期間中の手入れは、除草一回と土寄せ一回程度である。五年目には小豆かあわが栽培される。小豆は六月中旬にばら播きされ、一〇月下旬に収穫される。あわも同じ時期にばら播きされ、九月半ばに収穫される。共に播種前には耕耘がなされるが、栽培期間中は除草が一回される程度であった。
 麦山は、八月中旬に伐採された樹木が一〇月下旬に火入れされ、一一月上旬に裸麦が播種される切替畑である。裸麦は畑の一面にばら播きされ、その直後に覆土のための耕耘がなされる。裸麦の収穫は五月であるが、それまで手入れはまったく行われない。二年目以降の作物はそば山と同じく、とうもろこしが三年ほど作られてのちに、五年目に小豆かあわが栽培される。
 ひえ山は、春季に火入れをして、初年作物にひえが栽培される切替畑である。この地区では、明治年間にはあまり見られなかったという。切替畑の耕作面積は家族人数によってその広狭はあるが、おおむね六~七反歩程度耕作する者が多く、その栽培作物は主として自給用であった。
 明治中期には切替畑にみつまたが導入され、住民の重要な現金収入源となる。みつまたは雑穀の栽培の終わった切替畑に栽培される。大正年間からはみつまたと同時に杉苗も植えつけられ、住民はみつまたを栽培しながら杉を育成していく。みつまたの栽培期間は地味の良否によって異なるが、栽培期間の短い山で一〇年程度、長い山では二〇年程度も栽培された。みつまたの皮はぎは冬季の仕事であるが、それは近隣農家のイイ(労力交換)または、親戚間のコウロク(労力提供)でなされるものが多かった。みつまたは通常黒皮で販売されたが、みつまたの皮はぎの終わるころになると、三島・西条などの和紙産地から仲買人が来て、みつまたを買って帰るのが多かった。
 切替畑の耕耘は下から上に打ってあがるので、常畑とちかって作業も楽で、労力もあまり要さなかった。また作物栽培中にはほとんど手入れもしない粗放的な経営であった。このような点は上浮穴郡など四国山地中部の焼畑と共通する点であるが、この地区の焼畑には、他地区と異なったいくつかの特色も見られた。その第一点は焼畑の耕作期間が長く、逆に休閑期間が短いということである。上浮穴郡の焼畑などでは、雑穀の耕作期間は通常三年であり、休閑期間は二〇~三〇年であるが、桜樹村の山村では、耕作期間は通常五年であり、休閑期間は通常一〇~二〇年であった。なかにはよもぎが行きわたると山畑に開くと言われ、わずか五年程度の休閑でまた切替畑になる場合もあった。このようにみてくると、桜樹村の切替畑は常畑に近い切替畑であるが、それは桜樹村が上浮穴郡などと異なり、平野部の村に近接しており、栽培作物の販売が有利であったこと、また都市近郊山村の例として、人口密度が高く、一戸当たりの林野面積が狭小であったことと関連しているといえる。
 桜樹村の切替畑は昭和一五年ころから減少し、戦後復活したが、昭和三〇年代になるとほとんど消滅する。それは米飯の普及にともなって、焼畑で栽培していた雑穀が自給作物としての意義を失った事と関連する。
 桜樹村には谷底や山腹斜面の沢にそって小規模な水田が開かれていた。灌漑水の冷たい桜樹村では、水田にミトアゼといわれるぬるめの施設が施され、灌漑水は水田を一まわりしてから田尻から水田に入るように工夫されていたが、それでも米の収量は反当二・五俵(一俵六〇㎏)程度にしかすぎなかった。このような悪条件にもかかわらず、各戸二反歩程度の水田を開いたのは、そこで収穫した米は雑穀と混ぜて御飯にするために必要であったからである。明治・大正年間の桜樹村の主食は、麦飯・とうきび飯・きび餅・あわ餅などであったが、麦飯ととうきび飯にはつなぎとして、二升の御飯のなかに一合程度の米を混ぜて炊いた。きび餅・あわ餅にも、つなぎとして糯米を混ぜる必要があった。二反歩の水田があるとすれば、うち一・五反歩に粳米を栽培し、残り〇・五反歩に糯米を栽培するのが通例であった(表2―32)。
 桜樹村の農家は昭和一〇年ころまで、各戸預かり牛を飼育していた。預かり牛とは、周桑平野の北条・高田・壬生川あたりの牛を田植が終わってから一〇〇日程度預かる制度である。この間桜樹村の農家は山間地の野草を飼料として牛を育て、その謝礼として、粳米四斗、糯米二斗の計六斗をもらうのが相場となっていた。牛小屋で作られた厩肥は、常畑の重要な肥料となった。
 林野の利用には、切替畑以外に炭山に利用されるものが多かった。炭山ばかし・なら・しでなどの多く自生している山がその対象となり、製炭期間は冬季の農閑期であった。生産した黒炭は馬の背に積んで谷口の湯谷口方面に出荷された。湯谷口には炭問屋があり、ここで生産された木炭が炭問屋の手をへて、周桑平野で消費されたのである。木炭の原本は、部落有林の時代にはその山を対象とし、部落有林が村有林に統一され、それを個人が賃貸しする時代になってからは、自山の炭山が対象地となった。
 林野の利用には用材の伐採もみられた。その主な対象樹木はつが・もみなどの天然林であり、鞍瀬川の奥地などには、明治・大正年間に木挽きや柚が多数入山し、つがの柱材やもみ板などが生産された。山中で生産された用材は駄馬に積まれ、木炭同様湯谷口方面に出荷された。馬引きを稼業とする者は山中にも多く、また谷口の湯谷口・志川方面にも多数存在した。

 千原の野菜

 桜樹村地区の西端に千原の集落がある。集落は上千原・中千原・下千原の三つの小集落から構成されているが、その三集落は標高二〇〇~四五〇mの西向きの山腹緩斜面に連なって立地する。千原の集落の立地する緩斜面は、桜樹地区で最大のものであるが、これは地すべり地に由来するものである。集落は散村状をなして山腹斜面に展開し、また随所に水田がみられるが、これは地すべり地特有の湧水が各所にあり、それが飲料水と灌漑水を提供していることによるものである。
 この千原の集落は野菜栽培の盛んな集落として、桜樹地区では特異な存在となっている。山腹斜面の水田で水稲を栽培し、また常畑では、夏作のとうもろこし・あわ・きび・甘藷、冬作の裸麦などを栽培して、自給的な農業を営んでいたこの集落に、商品作物としての野菜栽培が
始まったのは、昭和三二年ころからである。野菜栽培が開始された契機は、丹原農業改良普及所の普及員が準高冷地という立地条件に目をつけ、住民に奨励したことによる(表2―33)。
 栽培作目は、当初は美濃早生大根・キャベツ・にんじん・さんどまめなどであったが、昭和三六年からトマトが導入され、続いてピーマン・なす・きゅうりなどが栽培される。美濃早生大根は八月半ばに播種し、一〇月半ばに収穫するものであり、昭和五七年ころまで栽培されていた。キャベツは四月末に定植したものを八月半ばに収穫、にんじんは三月末に播種したものを六月末から七月中旬にかけて収穫した。さんどまめは四月上旬に播種して六月半ばに収穫するもの、六月上旬に播種して八月半ばに収穫するもの、八月上旬に播種して一〇月初旬に収穫するものと、年三回栽培された。トマトは四月二〇日ころに苗床に播種し、それを五月半ばに仮植床に移植、さらに六月初旬に本圃に定植し、八月初旬から一〇月半ばにかけて収穫をした。ピーマン・なす・きゅうりも、トマトとほぼ同じ時期に播種・定植された。収穫期はピーマンが七月半ばから一〇月中旬にかけてであり、なすは八月初旬から九月下旬にかけて、きゅうりは八月上旬から八月下旬にかけて、それぞれ収穫された(写真2―26)。
 千原で栽培する野菜は夏野菜であり、それは準高冷地という立地条件を生かしたものである。平野部の野菜が品切れとなる八月・九月が主な収穫期であり、この時期に周桑平野をはじめ、松山・新居浜などの市場に有利に出荷できたのである。野菜栽培は昭和四〇年代になってさらに盛んとなり、昭和四五年には農家数二八戸のうち、野菜が第一位の農産物販売物となっている農家が一八戸も数えている。野菜栽培は昭和五〇年ころをピークに、その後下降線をたどるが、それは野菜産地特有の連作障害が出だしたこと、過疎の進行に伴って、生産者が老齢化したことなどによるものである。
 昭和六二年の主な栽培作物は、トマト三五アール(四戸)、さんどまめ四〇アール(六戸)、キャベツ四〇アール(六戸)、ピーマン一○アール(四戸)などが主なものであり、野菜栽培農家もわずかに六戸に減少している。作物はトマトを軸にして、トマト→さんどまめ→キャベツ→とうもろこし→トマトなどの輪作体系をとって、連作障害の防止につとめている。
 野菜の出荷先は、周桑平野が第一位である。昭和三七年ころから、三~四年間は松山市場、同四二年ころから一〇年程度は新居浜・西条市場などへも出荷されたが、現在は周桑市場壬生川のみに出荷されている。出荷方法は栽培当初から個人出荷であり、各栽培農家が軽四トラックで市場に出荷している。共同出荷体制がとられなかったのは、野菜産地の規模が小さかったこと、比較的市場に近く、個人出荷でも充分に対応できたことなどによるといえる。

 過疎の進行

 桜樹地区は昭和三五年以降の高度成長期の間に、激しく人口流出の進んだ典型的な過疎地区である。昭和三五年の五七七世帯、二七八二人は、同六〇年には三三八世帯、九四四人となり、この間に世帯数は四一・四%、人口は六六・一%減少した。人口においては二五年間に三分の一にも減少したのである。人口減少率は地区によってその大小がある。人口減少率の高いのは、交通位置に恵まれない明河・楠窪地区や、銅山の閉山した千原地区であり、反対に人口減少率の比較的低いのは平野部に近い臼坂や旧桜樹村の中心地であった鞍瀬地区などである(表2―34)。
 住民の転出先をみると、松山市・今治市・新居浜市などの都市部に移住した者もあるが、その多くは周桑平野を指向している。特に周桑平野への出口であり、従来から交流の深かった中山川の谷口に位置する湯谷口・志川・来見方面に離村している者が多い。
 昭和三五年以降激しく人口流出が続いたのは、この間に東予の臨海部が新産業都市に指定され、工業が発展し、これらの地区の労働力需要が高まったことによるが、地域内にも人口を排出するいくつかの要因があったといえる。
 その第一の要因は、桜樹地区の集落がその立地条件に恵まれていなかったことである。桜樹地区は急峻な山地が卓越し、そこを流れる中山川の本流、その支流の鞍瀬川・志古川ともに、鋭いV字谷をうがって流れ、谷底平野はほとんど見られない。集落は急峻な山地の緩斜面を選んで立地するものが多いが、その緩斜面がきわめて狭小なことから、集落の規模はおおむね小さく、一〇~二〇戸程度の小規模なものが多かった。また、これら小規模集落は大正年間以降谷底に馬車道が通じると、相対的に交通不便な集落となる。これらの集落は現在も自動車道路が通じていないものが多く、これら交通不便な山腹斜面の小集落から過疎が進んでいったといえる。桜樹地区には、現在廃村にたち至ったり、廃村寸前となっている集落が数多く見られるが、それらはこのような交通不便な小集落であるといえる(図2―27)。
 第二の要因は、この地区の経済を支えていた産業が衰退したことである。この地区の住民は集落近くの山腹を常畑として耕し、さらに周辺部の山林を焼畑に開いて食料の自給をはかると共に、焼畑にみつまたを栽培したり、林野で木炭や用材を生産して現金収入を得ていた。昭和三〇年代になって米飯が普及すると、常畑や焼畑で栽培していた裸麦や雑穀などはその存在意義を失ない、常畑・焼畑ともに急速に減少する。また時を同じくして、燃料革命の進行は製炭業の衰退を招き、焼畑の衰退と共にみつまた栽培も消滅する。さらに昭和四〇年代にはいると、木材価格の低迷から用材生産も衰退していくのである。また千原地区では、昭和三八年それまで稼動していた千原鉱山が閉山し、この地区の人口流出をうながす契機となる。
 第三の要因は、地元住民が山村の資源を積極的に活用しようとする意欲に欠けていたことである。昭和三五年に始まる高度経済成長期以降、桜樹地区の山村には、千原地区の野菜を除いては、新たな産業は興らなかった。住民は地元資源を生かして地域の活性化をはかるのではなく、域外に就業の場を求めることを指向する。昭和三五年の耕地面積は二五六ha、うち水田七八ha、畑一三五ha、樹園地四三haであったものが、同六〇年には、耕地面積一一一ha、うち水田四一ha、畑二六ha、樹園地四四haに減少している。兼業農家の兼業種別も、昭和三五年には人夫・旦雇や製炭・製薪が多かったのに、同六〇年には恒常的勤務が多く、自営兼業は皆無に近い。桜樹地区には、他の山村に見られるような、養蚕・茶・畜産などの新たな産業は育成されなかったといえる。
 地元住民に地域を活性化させようとする意欲が欠けていた要因には、町村合併のあり方と、住民の主体性の欠如があげられる。桜樹村の合併した丹原町は、その主体が平野部であり、山間部の桜樹地区とは異質の地域である。町の産業振興はともすれば、平野部が主体となり、山間地の桜樹地区はおろそかにされたといえる。住民の主体性の欠如は、地元に有力な指導者が育たず、住民自体が目先の利益にとらわれる傾向が強かった点を指摘することができる。明治二二年(一八八九)に町村制が実施されてから歴代の村長の出身地を見ると、昭和一二年までは、いずれも村外の人物が選ばれ、地元住民で村政を指導する者はいなかった。また第二次世界大戦後発足した農協や森林組合も、その管理運営のまずさから、いずれも組織解体を余儀なくされたりした。林野は明治時代から村外の住民に次々と売却されていき、現在桜樹地区の民有林の八〇%程度は地域外の住民の所有に帰しているという。桜樹地区に過疎の歯止めがかかり、地域が活性化するかどうかは、そこに居住する住民が、いかに主体性を確立するかにかかっているといえよう。

表2-32 桜樹村の耕地面積と栽培作物

表2-32 桜樹村の耕地面積と栽培作物


表2-33 丹原町千原地区の耕地面積と主な栽培作物の推移

表2-33 丹原町千原地区の耕地面積と主な栽培作物の推移


表2-34 丹原町桜樹地区の世帯数・人口の推移

表2-34 丹原町桜樹地区の世帯数・人口の推移