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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 周桑和紙

 周桑和紙の三産地

 大正時代、周桑の和紙産地には、(一)旧桑村郡国安村(現在東予市)と(二)旧周布郡吉井村石田(現在東予市)と、小松町の妙口(旧石根村)とがあった。今は小松町の和紙は消滅した。
 表2―27の如く、周桑の和紙製造戸数は、明治後期には三〇〇戸もあったが、現在は表2―28の如く一六戸である。その間の盛衰の過程をみると、大正一四年が一二六戸、昭和元年が七七戸、昭和一四年が七三戸で、盛んであった。戦後竹本千万吉の調査によれば、昭和二六年には国安五三、吉井四七戸。同三三年には国安三八、吉井二七戸。同四四年には衰えて国安一二、吉井一四戸。同五三年には国安一〇、吉井一一戸計二一戸に減少している。『愛媛県誌稿』下巻(大正六年愛媛県発行)には、宇摩郡の製紙、大洲半紙、東宇和郡の仙貨紙については節を設けて記しているが、周桑和紙については何も記載されていない。

 國安和紙の先覚者

 田中佐平が、天保年間に和紙の技術を導入したことになっている。国安の市営墓地の田中佐平の墓石に、近藤寿(近藤篤山の次男箕山と号す)撰の碑文がある。明治二〇年に建立されているが漢文で読みにくい。村上節太郎の『伊予の手漉和紙』に全文紹介している。
 田中佐平の頌徳碑は、もとの周桑和紙協同組合のあった所で、現在の国安公民館の前の広場の隅に建っている。碑は緑泥片岩で高さ二八〇㎝である。昭和二七年に久松定武知事の題字執筆で、撰文は元村長の越智通清で次の如く簡単である。

 翁享和元年(一八〇一)国安村二生ル本村人口年ト共二増加シ、農家ハ漸次其耕地狭隘ヲ告ク、翁此ノ衰頽ヲ憂ヒ私財ヲ投テ抄紙創業農工両立ノ調節ヲ努メ百折不撓遂二全国的重要工業トシテ今日ノ盛況ヲ見ルニ至ル明治十九年八十五ヲ以テ終ル、没後農商務大臣愛媛県知事等ヨリ追賞セラル宜哉 昭和二十七年五月三日
                                                               越智通清撰書(花押)

 周桑和紙について『伊予紙見本帖』(昭和三年、伊予紙同業組合発行)は次の如く書いている。

 此地方ニハ主トシテ奉書紙、尺長紙等ノ糊入紙ヲ製造シツツアルニ見レバ其来歴ハ古キ時代西条方面ヨリ伝播セシニ非ラザルヤト思料セラルルモ、「周桑郡制要覧」(大正二一年)ノ記載スル所二拠レバ国安地方ノ紙業沿革ヲ次ノ如ク説明セリ、「往古ヨリ農ヲ以テ専業トセシモ地味及水利等ノ関係上動モスレバ旱魃害虫等二苦メラレ且ツ世ノ変遷ト共二戸数人口亦著シク繁殖ノ傾向アリ、茲二於テカ天保年間(一八三〇―一八四三)国安村ノ篤志家田中佐平ナル者、農家ノ苦哀ヲ坐視スルニ忍ビストナシ、単独私財ヲ投ジテ土佐二赴キ専心製紙ノ術ヲ習得シテ帰リ、之ヲ村内同志ノ者二励説シ農家ノ副業トシテ製紙業ヲ営マシメ、爾来遂年其規模、見ルベキモノアリ、一時ハ養蚕ト製紙兼業ノモノ多カリシガ、近時殆ド専業トナレリ、創始者田中翁ハ享和元年(一八〇一)正月二日ヲ以テ生ル、天資謙譲ニシテ温厚衆二接シ、村民ノ敬募スル所、常二殖産公益ノ事業二志シ、天保年間村勢ノ衰頽ヲ憂ヒテ遂二製紙業ヲ創メ、本郡ノ重要物産タラシムルニ至ル、明治十九年(一八八六)一月三十日病ヲ得テ歿ス享年八十三歳、歿後農商務大臣西郷従道ヨリ又明治十九年本県知事ヨリ賞状及銀盃ヲ下賜セラル、現在ノ生産地ハ国安、吉井ノニ箇村ナレドモ周布、石根村等ニモ多少ノ製造家ヲ有セリト」而シ国安地方ハ松山藩二属セシヲ以テ、藩政時代ニハ丹原町に紙役所を設ケテ市立ヲナス、ソノ時ニハ松山ヨリ吏員ヲ派シテ監督ヲ為サシメタリトノ説アレ共、今ノ吉井村付近トノ連絡等ニ至リテハ詳カナラズ、製品ノ種類モ吉井村ハ藁奉書、国安村は本奉書卜全然品質ヲ異ニセリ、最近二至リ糊紙ノ外ニ半紙、障子紙、塵紙、傘紙等ヲ製造シ、就中国安ノ傘紙ハ県下中品質可良ノ評アリ、各地製傘業者ニ歓迎セラレツツアリ」云々とある。

 石田和紙の先覚者の森田重吉

 『伊予紙見本帖』には国安の田中佐平の記事があるのに、石田和紙の指導者森田重吉については記事がない。森田重吉の業績が田中佐平よりも約三〇年遅く、文久二年(一八六二)創業であったためもある。今は国安も石田も共に東予市内であるが、国安は天領から松山藩領になり、石田は西条藩領であった。
 森田重吉の舒功碑が現在、周布の大智禅寺(臨済宗東福寺派)境内に建っており、彼の功績が刻まれている。この碑は花崗岩で高さ三〇二㎝、明治四五年七月建立であるが、大正一〇年までは瓢箪池のほとりに建っていた。一柳春二の撰文であるが、その漢文を要約すると次の如くである。

 志士仁人は没世の後、余徳は万世に流れ、遺業は無窮に伝わる。後人は功を頌し、徳を思い追慕して措かず、重吉森田君の如き、蓋し亦其の人なり。森田家は代々石田に住み、父を金蔵、母を美代と称し、君は天保八年(一八三七)三月一五日に、古くから伊予の紙漉地として知られた石田郷の農家に生まれた。君の幼い時は生家は裕福でなかった。若くして土地の習慣にしたがい、紙の行商人として諸国を歩いたが、常に石田近郷の紙が、紙質仕上げなど、総ての点で粗悪であった。これを彼は改良せんといかんと思った。この儘では販路を失い、企業として成立しがたい事に気付いた。彼は慨然として企画するところがあり、文久二年(一八六二)二六歳の時、自宅に奉書製造の漉場を設けた。そして楮の原料の撰択はもとより、抄紙の方法も各地で見聞した新技法を取入れ、製品の改良に専念した。かくて面目を大いに革め、石田の和紙の声価が嘖々として有名になり、販路が日に益々拡張した。「升の商号で、誠実本位の紙商を併せ行うようになった。その結果、「升の包装を見るだけで優秀品であることが認められ、諸国の紙問屋は先を争って買ってくれた。それで産額も日増に増え、漸く裕福になった。由来石田地方は、中山川の氾濫で、地味が肥沃でなく、農民も努力不足で、稍々衰弊の兆があった。彼は村人のうち財産のない者には、紙漉の材料器具はもとより、資金まで援助して、貧村石田の紙漉業の発達に尽力したので、全村が製紙により豊かになった。重吉は明治四二年(一九〇九)四月一二日、七三歳で歿したが、彼の資性が重厚沈毅で、頗る気があり、自らは倹約で、公益のため農民の幸福のため尽くした。それで村人は彼の事績に感謝し、その功徳を無窮に伝えるため、醵金してこの記念碑を建てんと欲した。不文を省みず、その梗概を叙した。

 小松藩の製紙

 秋山英一の『伊予西条藩史・小松藩史』(昭和六年)によれば、「小松藩の御用紙は、代々小西氏がつとめていた。家祖、小西伝兵衛こと、大洲領(大洲藩の製紙は藩政時代日本一の称があった)より来り、小松に居住、紙すき工場の土地を与えられ、藩の用紙―美濃紙・普通半紙・半切・泉貨(藩札用)・丈長などを製造して明治維新に至った。紙の原料の楮は領内の千足山、松山領の千原鞍瀬方面、のりうつぎ(糊料)は西條領の川来須および土佐の山から仰いだらしい」とある。
 現在、小松町には紙漉屋は一軒もないが、大正時代には二十余軒あり、大平文八作成の分布図が、村上節太郎の『伊予の手漉和紙』に載っている。小松藩の和紙の導入者、小西伝兵衛は長寿で、享保二〇年(一七三五)に没している。小松藩の製紙業は元禄期に始まり、藩は紙方役人を置いて奨励した。それで文政年間に最盛期を迎えた。『小松藩会所日記』をみると、当時一年間に楮を二万貫要したという。その楮は主に、芸州と石州から購入し、主として奉書を漉いていた。

 周桑和紙の発達要因

 ①先覚者の成功―周桑の三和紙産地のうち、藩の指導で漉いた小松和紙は早く消滅した。これに対し先覚者田中佐平の導入奨励した国安和紙と、森田重吉の指導協力した石田和紙とは今に存続し発展している。両先覚者は当時共に貧乏村であった郷土に、製紙業を取り入れ、発達に貢献して成功している。②水―紙漉きに大切なのは水である。周桑の場合国安は扇状地の末端の湧水、石田は中山川の伏流水と瓢箪池、小松は妙口川の伏流水に恵まれている。③気候―日本の手漉和紙の分布をみると、岩手県以南に散在している。周桑平野は瀬戸内海に面し、石鎚颪が吹き、晴天が多いので、天日乾燥に有利である。何れも集村で家が密集し、強風を防ぎ得る。④交通―今はトラックが発達して、原料も製品も容易に輸送できるが、戦前でも汽車や海運に恵まれていた。原料の稲藁は三重県から仕入れ、楮は山口・島根から商人が購入した。糊は北海道から「ノリウツギ」を買っている。この地は四国の遍路道であり、金毘羅街道が通じ、昔の太政官道もあり、情報も得易すかった。⑤労働力―和紙製造発達の初期は、労働力も余っており貧乏で低賃金であった。戦争で若者が徴兵や徴用で少なくなると減産になった。壬生川に紡績工場や住友関係の工場が進出すると、楽な高賃金の職場ができて、紙漉工を敬遠するようになった。雇用者が少なくなり、経営者の自家労力が多くなり、経営規模は縮小し、女子の従業者が多くなった。しかし周桑の紙漉人はほとんど男性である。後継者のない家は廃業か転業し、先覚者の田中家も森田家も今は紙を漉いていない。⑥振興対策と新製品―国や県としても、伝統工業士として表彰したり、松山で伝統的特産品展・愛媛県産品まつりを開いてPRしている。また新用途を開拓したり、施設の改良、新技術開発に期待し、研究費を援助している。国安はもと本奉書、石田は藁奉書が特色であった。今は安価な機械漉奉書に圧倒され、藁を主原料とする画仙紙と折手本原紙に転換している。檀紙は結納や棋院の免状や宮内庁御用の用途があるが、現在国安で三軒漉いており、日本の八〇%を占めている。杉野和吉の円和紙や、板目和紙も独特である。最近は色紙や箸入れなど加工に力を入れている。
 戦後国安には、中川宏次製紙㈱・杉野啓吾製紙㈱の機械漉製紙工場が発達した。また小松には書友閣、石田には澄心斉・大岩大平堂の如き紙商ができた。
       
 西条の和紙

 現在、西条市域には手漉和紙はない。藩政時代には、神拝の湧水を利用し、藩札も漉いていた。起源は古く、寛永時代からあり、以前は飯岡・中萩・金子などでも家内工業として漉いていたと『伊予紙見本帖』に記している。天保一三年(一八四ニ)日野暖太郎和照が編述した『西条誌』の神拝村の項をみると、紙の事が書いてあり、挿絵で紙方役所・紙蔵・紙すき長屋・楮皮蔵・楮皮さらし場の景観が描いてある。製品は大阪や江戸に送られ、錦絵に使用されて、藩の財源であった。現在そこに伊予製紙㈱工場があり、塵紙・桜紙などを製産している。








表2-27 周桑郡の和紙の累年統計

表2-27 周桑郡の和紙の累年統計


表2-28 東予手漉和紙振興会員

表2-28 東予手漉和紙振興会員