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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

四 中山川流域の水利慣行

 周桑平野の地形と水利

 中山川は周桑平野を貫流する第一の河川で、谷口の湯谷口七〇mを頂点とするほぼ三角形の輪郭をもつ沖積平野を形成する(図2―5)。平野の南西隅から東北東方向へ、中山川が貫流し、平野中央の大部分はその堆積物によって形成され、東縁部は北西流して加茂川と複合デルタを形成する。
 中央部の中山川流域の低地は、湯谷口を頂点に平野間に大きく扇形に広がる氾濫原をつくり、臨海低地の背後では海抜○~一・五mである。現在の河道は海抜一〇~二〇m付近で周辺より、やや高い砂州のうちを流れるが、その上流はやや嵌入傾向を示し、おおむね扇状地性砂傑質氾濫原として性格づげられる。河道跡は相対的凹所となって、平地内に条状のパターンを示して分散し、直線状乱流趾を呈しやや湿地性がある。
 この平野面は、条里遺構の土地割が地表面をおおい、集落形態と共に古い開発にかかる土地である。中山川の支流関屋川は高縄山塊の山麓に典型的扇状地を形成する。扇頂は海抜二五〇m、扇端は四〇~五〇m、勾配四八‰でやや急である。扇状地の主軸の長さは三㎞で規模は小さい。扇端は中山川氾濫原と接して小崖を呈し、関屋川は中山川にほぼ直角に合流する。関屋川は乏水性の荒川状を呈し、地表水は伏流して水無し川となり、水利の関係で集落は扇頂大扇端に立地する。
 周桑平野の水源別集落数をみると、河川に対する水源依存率が極めて高い(表2―10)。灌漑用水の取水法は、周桑平野三五九一・九haの五四・八%が井堰および自然取水に依存している。この灌漑用水の供給源が中山川である(表2―11)。

 取水堰による灌漑

 丹原町湯谷口の道前渓左岸の段丘上に「劈巌透水」の碑がある(写真2―5)。来見村(現丹原町)の水田三〇haは、来見堰から取水したが、この地域を流れる中山川は深い浸食谷のため、取水の便が悪く、来見の農民は灌漑用水の不足に苦悩した。来見村大庄屋越智喜三左衛門は、天明元年(一七八一)私財を投じ、鑿で岩盤を掘削して一二間(二一・六m)の井堰と二〇間(三六m)の隧道七六間(一三六・八m)の掘割水道からなる疎水を九か年の歳月をかけて、寛政元年(一七八九)に完成した。大正九年(一九二〇)地元民は、越智喜三左衛門の戒名に因んで「劈巌透水頌徳碑」を建立したのである。さらに、子孫の来見村村長越智茂登太によって、明治一九年(一八八六)および大正一二年(一九二三)にこの疎水の補強工事が施された。
 中山川左岸の耕地約六五〇haを灌漑する中山川最大の取水堰は、釜之口井堰である(写真2―6)。この堰は上流から来見・石経・寺尾堰に次いで第四番目に位置し、関屋川と中山川との合流点にある。松山藩の主要穀倉であった長野・北田野・田野上方・高松・今井・願連寺・池田の各打および西条藩領の周布村その他およそ一〇〇〇haをうるおす藩財政を左右する重要堰の一つであった。
 釜之口井堰の分水については、松山藩領主蒲生忠知の寛永九年(一六三二)すでに「中山川水田掛申分出来云々」と、村々間の差縺について野口文書に記されており、一七世紀の初めころは代官所より任命された釜之口水裁許役によって分水の采配が行われ、差縫を防止していた。寛永九年の水騒動以後、水落としについて直接代官所より役人を差し向け、分水状況を見分けて裁許するよう改められたのである。
 その後も各村々の間で水落としについての差縺を防ぎ、円満に分水を行うための協議がくり返され、「釜之口井水掛為取替申定書」に記されているように、元禄五年(一六九二)には大番落に関する細かい取り決めができた。また大番落前の諸準備をはじめ、大番落の開始時期や定法による分水方法の規定、井口番預かり番人及び井口番改役の配置などが改定された。この時の取り決めが基礎となって、文久元年(一八六一)四月の取り決めができ、その大部分が現在に及んでいる(図2―6)。
 中山川筋の各井堰の構造は、木工沈床堰か或いは続框石詰堰に限られ、セメントの使用は一切禁止された。遮水手段としては、僅かに阻水板を框の両側にうちこみ、その前部に「しだ」をあて、赤粘土で充填する程度で、井堰の方向も用水の自然流入に便利なように、斜めに設計された。しかし、その構造は貧弱で洪水のたびに流失したり破損した。しかも、釜之口堰の位置が洪水の度に関屋川からの流出土砂の埋積で、井口が閉塞され取水に支障を受けることが度々あった。たまたま昭和二五年九月三日、ジェーン台風によりおよそ五〇mを流失、さらに九月一三日のキジア台風で被害は一層増大した。
 これによって釜之口堰の根本的改築の必要性がおこり、同二六年関係町村との水利協定書の調印をとり、釜之口新井堰の移転改築が決定され同二七年二月に着工し、同二九年四月末に完成した。関屋川の河床下を暗渠とし、川の流れに対して直角に設けられ、コンクリート工法による新井堰によって、釜之口用水取水問題は解決した。

 湧泉利用の灌漑

 中山川下流の周布(現東予市)付近では、中山川の旧流路に沿い堤外に湧泉が多く、伏流水が勇出して河水に代わって用水原になっている。江戸期以来「碓春(みずぐるま)」「桔槹(刎釣瓶)」を用いて揚水灌漑を行ってきた。このことを『西条誌』巻九・一二は次のごとく伝えている。

石田村泉二ヶ所にあり。そのうち瓢箪池というはもっとも大なり。形の似たるをもって名づく。かく用水沢山に見ゆれども、干魃には水減じ、碓春もしくは桔槹を以って稲田にはね取る。農民労苦ある事なり。周布村・当村井手懸りあしく、泉三十余ヶ所にあれども、長さ二〇~三〇間より四〇~五〇間位にて、百間に余りたるは、わずか三―四ヶ所にあるのみにて、三〇余のうち半ば四―五坪位なる小泉なり。しかも湧勢強からざれば炎干には碓春・桔槹を用ゆる事石田村に倍蓰せり。昼夜の分かちなく挹み取るゆえ、民の手足はへん(めへんにへい)ち(めへんにそこ)し膏雨の下る間を一睡の休みとはなすなり。文政十一子歳(一八二八)干魃殊に甚だしかりしを、一村のもの泉頭に立ち足も腐るばかりにして、数十日浥み続け、毛見受にも至らざれとて御賞誉ある事左の如し。御文言にて、水利あしし闔村難儀なる事を知るべし(写真2―7)。

これにより百姓達に賞として文政一二年(一八二九)米三〇俵が下賜された。
 この碓春は周布・吉田・石田等の村々で、天保ころ盛んに使用されている。碓春の利用もできないところは、一枚ごとの田の隅に掘井戸をつくり、その水を釣瓶で汲み上げて利用していた。なかでも吉田はそれが非常に多く、当時刎釣瓶用の柱がまるで港に集まった帆船の帆柱のように林立していたという。この碓春・掘井戸の水の刎釣瓶による利用は、甚だ高度に行われている場合があり、灌漑の補助手段の域を超越していた。
 なお、泉は自然流下するとはいえ、幾分掘り下げてあるから近くの田では、堰止めて汲みあげねばならない。これを汲田といって、堰止める権利を有していたところもある。泉の利用が不便な水田では、井戸の掘削が行われ、刎釣瓶で灌水するところが増加した。つぎに、口径の小さいポンプを用いるようになり、さらに発展して共同の力で大きな堀井戸を掘って水源を確保し、併せて労力の節約を計るようになって、各地に固定揚水機が普及してくる。

 与荷の慣行

 灌漑に要する労力が甚だしく大であり、到底小作農民の負担に耐え難いほどのものである場合には、地主と小作人との間に灌漑に要する労力の負担について、特殊な契約関係の発生をみずにはおかなかった。かような関係の特殊例が、周桑郡周布村付近の干損地域で、人工灌漑に多大の労力を要するという地域的特殊事情から、地主が小作人に対して与える労力補償の意味をもつ与荷米の慣行である。周布村は中山川中流西岸にあり、中山川から直接用水を導くことは困難で、乱流遺跡である堤外の湧泉を水源としてきた。そのため水源が貧弱で旱魃期には昼夜の別なく汲みあげ、豪雨の降る一刻が僅かな休息時間となったほどの土地である。
 喜多村俊夫の『水利慣行の史的研究』によると、与荷慣行の行われてきたのは、周布全村の全湧泉懸かりにおいてのみであるという。関係面積は、周布全村水田の約三分の一、百数十haである。
 与荷の慣行は殊に天保一一年(一八四〇)此の用捨米授受をめぐって地持・作人の間に紛争を生じ、隣村の庄屋の仲介・斡旋によって内済一札の交換となり、与荷慣行の成文化が成立した。与荷は次の四種類があった。

一、荒田与荷 整地植え付けに天然水だけでは不足するので、人力または機械力で汲水して植え付けをおえた時は、荒田与荷の名で地主から作人に対して反当たり一人役を補給する。小作の水利費(灌漑費用)を地主がともに荷なうという意味である。
二、一番与荷 荒田与荷の条件が具備した後、尚干天が続き人工汲水三〇日に至る時は、反当たり一人役を補給する。
三、二番与荷 一番与荷の条件の具備後、引続き人工汲水一五日に達する時は、反当たり半人を補給する。
四、井手並与荷は論所と俗称している湧泉、中淵の下流にある北川井堰から灌漑水を得ている一番水口に於て、干天の為に流水の杜絶した時を規準とし、以後水車を以て汲水する時は、その日数の長短を問はず、北川大堰の上流に水源をもつ中淵外七か所の湧泉懸り区域に対して、反当たり一斗の与荷が補給された。以上の四種類の与荷が昭和七年まで継続した慣行の実態である。

 与荷慣行中最も重要な北川大堰は、唐樋・中淵・地蔵堂三か所の泉の総称である。中淵からの湧水が一条の河流となって流れ下る約一㎞下流で、幅約一〇間(一八m)の水路を斜めに堰き、杭を立て並べ山柴・草等を掛け、その上部に砂を載せて造った営造物で、水量が一層減少する時には、更にその上を土で塗り固める堰である。この堰によって滞溜した水を、堰の上流約三六mの左岸に設けた北川大堰本口から約一〇〇m導水して、一区画約六アールの論所田という一水口に注がれる。論所田とは、この一小区画水田が井手並与荷をめぐる度々の争論の焦点となり、これが与荷慣行規約の発動如何を決定する指標となっていたからである。
 なお北川大堰上流八か所の水源とは、猿石掛かり・草萩掛かり・祖ノ木懸かり・天王泉掛かり・元松泉掛かり・唐樋掛かり・中淵掛かり・地蔵堂懸かりである。この八か所は用水難の程度も一段と激しかったから、北川大堰の水が自然のままでは、論所田に達しない時期に至れば、反当たり一斗の飯料与荷を受け得るわけである。これは、北川大堰の堰としての機能が勝れていたことを物語るもので、北川大堰一水口の近傍に周布村内屈指の小作科率の高い水田の存在した理由があった。
 こうした与荷慣行の存在は、周布のみの現象ではなく灌漑事情に関する自然条件の類似する隣村の田野村(現丹原町)にもみられ、この慣行は昭和三~四年地主対小作の争議を生み、昭和七年まで継続した。

 道前・道後水利開発事業と畑地灌漑

 農業水利事業として、河川より取入堰・用水路あるいは補給用水源としての溜池築造などの事業は、昔から行われていたが、河川の流況そのものを改善しようという事業はなかった。しかるに、道前・道後両平野農民多年の悲願であった用水対策を具体化したのが、道前道後農業水利改良事業計画である。
 事業目的は、面河村笠方に面河ダムを建設し、貯水を流域変更逆流方式によって、道前・道後の両平野に導水し、耕地一万三一九八・五ha(道前四四一六・七ha、道後八七八一・八ha)の灌漑用水補給(道前一四八七万一〇〇〇立方m、道後一七二七万七四〇〇立方m合計三二一四万八四〇〇立方m、給水期間六月六日~一〇月五日、一二二日間)をするのが主目的である。
 要するに、水稲植え付け時期の代掻整地用水を補給して適期植え付け完了を可能とし、非能率溜池を廃止して揚水期維持管理費を大幅に節減して、地下水利用による冷水灌漑地域の用水源を転換するほか、新規開発および畑地灌漑を行うために必要な用水量を補給する。
 開発方式は、面河ダムから中山川に逆流させ、中山川逆調整池によって両平野に導水配分する。さらに県営事業で道前地区は五工区に大別し、用水路線延長約三万六〇〇〇mを新設し、灌漑組織を末端まで完備して適時適水量を供給できる状態まで改良した(写真2―8)。その受益面積は表2―12のとおりである(図2―7)。
 従来の農業水利は、水田地帯の灌漑排水に関することを農業水利と考えた。しかし、現在では畑作振興の基礎として、畑地灌漑の比重がかなり大きなウェイトを占める。すなわち、農業水利は生産性の向上に重点をおくとともに、用水の生産性を高めて、近代的農業経営を最も有利に展開する基盤整備と土地改良の根幹をになうものである(表2―13)。
 図2―8は、愛媛県の畑地灌漑面積の分布である。県内で二八六七ha、そのうち東予が一六二二ha五六・六%を占める畑地灌漑の進んだ地域である。丹原町の三三三haは、越智郡菊間町の四〇一haに次ぐ県下第二位の畑地灌漑の盛んな町である(写真2―9)。昭和四〇年道前・道後水利開発事業の完成で、丹原町が農業構造改善で実施していた中川・田野地区(現丹原町)の果樹園(柿・みかん)の灌水施設が完成したからである。仁淀川水系面河川の水を関屋川扇状地に導水し、長さ二㎞、幅二mの暗渠水路で三一〇haの畑地灌漑が施行されることになった。一〇アール当たり六万円の負担で、全国にも珍しい扇状地の畑地灌漑による果樹園が展開している。

図2-5 中山川流域の周桑(道前)平野

図2-5 中山川流域の周桑(道前)平野


表2-10 周桑平野の灌漑用水の主な水源別農業集落数

表2-10 周桑平野の灌漑用水の主な水源別農業集落数


表2-11 周桑平野の灌漑用水の取水法

表2-11 周桑平野の灌漑用水の取水法


図2-6 文久元年(1861) 釜之口内川之図

図2-6 文久元年(1861) 釜之口内川之図


表2-12 道前道後水利開発事業の受益面積

表2-12 道前道後水利開発事業の受益面積


表2-13 道前道後地区付帯団体営灌漑排水事業地区別調書

表2-13 道前道後地区付帯団体営灌漑排水事業地区別調書


図2-7 周桑平野の水利開発事業の図

図2-7 周桑平野の水利開発事業の図


図2-8 愛媛県の市町村別畑地灌漑面積

図2-8 愛媛県の市町村別畑地灌漑面積