データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

二 市町村の改編

 市町村の成立

 県や郡につづく地方行政の改革として明治政府が行ったのは、明治二一年(一八八八)に制定し、翌二二年に施行された市制・町村制であった。村は藩政期に統治の単位としてあり、これを藩政村として区別することがある。もっとも、前項でふれた郡区町村編制法(明治一一年)によって、町は、西条四町、今治八町、三津一四町、松山城下、湯月(道後)、郡中三町、大洲、宇和島三四町、吉田七町などをはじめ、相当数が登場したが、これらは自治体とはいうものの「まち」であった。村も同じく藩政村で、いわゆる農山漁村の共同体としての「ムラ」である。明治一八年には、町と村が県内に一一七三を数えたほどで、これが市町村制の施行でほぼ三分の一に減少した(表9―1)。このとき松山市が最初の市制施行の市として登場したが、その施行条件は人口二万五千以上であった。町村数ともに減少したのは、「まち」や「ムラ」が互いに合併し広域化した自治体に生まれ変わったことによる。この新村を「明治行政村」とか「旧村」とよび、藩政村は大字となって残っている。当時の合併の基準は、町村がほぼ三〇〇戸以上とするが、豊かな町村はそれ以下の戸数でもよいとされた。しかし、人口規模の小さい「ムラ」は、地形などを考えて隣接の大きな町や村と合併することが奨励された。
 自治体としての市町村成立の基礎は、それを法人とし、住民(二円以上の納税者)の選挙による議会をつくり、市長会や町村長会の選挙で首長を出すこと、財政は税収でまかなうことなど、藩政村とは全く異なった自治、分権によったものであった。

 市町村の合併

 明治末から大正、昭和にかけて、合併する町村もあったが、市が多く成立したことが特色である。今治・宇和島・八幡浜・新居浜・西条などが第二次大戦が終わる間に登場した。もっとも、これらは、周辺の町村を合併したもので、その経過は決して容易なものではなかった。例えば、昭和一〇年に人口三万一千余で市制を施行した八幡浜市は、その中心の八幡浜町の人口が約二万人にすぎず、神山・千丈・舌田の町村を合併してのことであった。この市の成立への願望は、今治市や宇和島市の誕生で刺激された大正九年ごろに起こった。しかし、周辺町村の間では住民の気質の相違や交通の便などがからんで幾度か合併の気運が挫折し、国鉄八幡浜駅の位置と神山町との利害などもあったが、ようやく一五年を経ての合併による市の成立をみたほどである。
 第二次大戦後の町村合併促進法(昭和二八年)によって、大洲・伊予三島・川之江が市制を施行し、町村の数も広域合併が奨励されたために著しく減少し、一〇九市町村となった(図9―3・9―4・9―5)。また、新都市建設促進法による伊予・北条の両市が生まれ、最近では壬生川町と三芳町を合併した東予町(四六年)が翌年に東予市となり、宇和島市が宇和海村を合併した(四九年)。
 この市町村の合併促進は、行政域を広げることで行政サービスの合理化、財政力の強化をはかったものである。その結果、戦前に比べると市町村の面積と人口は著しく拡大した。町村のなかで最大の面積をもつに至った津島町(二一九k㎡)は、県内で最も広い松山市(二八九k㎡)や大洲、西条の両市についで四位である。また、人口数でも松前町の約二・八万は、伊予市の二・九万に匹敵するほどである。しかし、別子銅山の閉山で人口減少をみた別子山村約四〇〇人をはじめ、山村の多い町村では人口過疎が進み、むしろ財政力の基盤が弱くなっているところが多い。

 「ムラ」の名残り

 明治以降の市町村の合併は、行政域の拡大をみせたものの、無理な合併や分村があったことも事実であり、また、古くからの「ムラ」としてのつながりが新しい町村になっても残っている例が多い。
 喜多郡は最もひんぱんに町村の分合をみたところである。それは、旧大洲藩領のなかに分家の新谷藩領が飛地となって散在し、明治になっても住民感情の対立があったことや、地形的にも広域にはまとまりにくかったことなどが背景となっていた。郡の境界も、中山村(現中山町)を伊予郡に分割(明治二二年)、西宇和郡平野村を喜多郡内に編入(同三二年)、伊予郡下灘村石畳を喜多郡満穂村へ分割編入(同四一年)、さらに昭和に入っては、内子地区の村前村が三分割され五城、大瀬、天神の各村に編入をみて消滅した(昭和四年)。これと同じ例は、上浮穴郡浮穴村が南北に二分されて、それぞれ喜多郡河辺村と東宇和郡惣川村に編入をみた(同一八年)。同じ年に河辺村は、宇和川と大谷の二村と合併して肱川村となったが、再び二六年に河辺村が分離独立した。これらの多くは、従来の町村域が分水界を無視したものがあって地形的条件に応じた再編をみたものである。河辺村の新発足は、一八年の三村合併が戦争中の強制によったもので、住民の意志を考えず、しかも河辺川の上、中流域をまとめたことから地区別に住民気質に相違があったことなどによる。
 現在の久万町に入っている父二峯は、父野川・二名・露峰の藩政村のムラを合併した旧明治行政村であった。ここはもと大洲藩領で、明治の郡制で松山藩領の多い上浮穴郡に入った。それは仁淀川の上流域で地形的には当然の変更であったが、通婚では藩政期に同じ領域に属していた小田町などとの関係が強いといわれている。同じく現在の内子町石畳地区は、小田川に合流する満穂川の上流にあって、伊予灘側とは海抜高度八〇〇mほどの分水界の南側にある。この石畳と双海町の大久保や東串など伊予灘側との通婚が多かったことは注目したい。それは、かつて明治・大正期に鳥越峠を越えて伊予灘側との経済交流があったことによるもので、その後、下流の内子町との交流へと変わったために分割編入に至った。この「うね越え通婚」は現在でも件数は少なくなったものの続いている。戦後、上灘村が佐礼谷を合併して町となったため、下灘村も再び石畳を合併する動きがあったが実現しなかった。
 忽那諸島の中島本島の西岸に、旧西中島村の熊田と宇和間がある。前者はもと松山藩で、後者は大洲藩に属していたが、この藩領の相違が土地利用にも現れているといわれる。熊田は集落が山麓に立地して耕地を保持しているのに対して、宇和間は海岸に集落が立地し雑穀を年貢として藩に納めたという。

表9-1 愛媛県の市町村数(明治18年~昭和57年)

表9-1 愛媛県の市町村数(明治18年~昭和57年)


図9-3 東予地域における町村合併

図9-3 東予地域における町村合併


図9-4 中予地域における町村合併

図9-4 中予地域における町村合併


図9-5 南予地域における町村合併

図9-5 南予地域における町村合併