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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

六 東予・東部地域

 祭りのまち

 新居浜市の太鼓祭りは、江戸初期から毎年一〇月一宮神社の秋の大祭に奉納するために行われたものである。この伝統の太鼓まつりは、金糸銀糸で織られた飾り幕でおおわれ、一台数千万円といわれる太鼓台が三〇有余台もあって市内の目ぬき通りを練り歩くさまは、まさに豪華絢爛の一語につきる。鳴りひびく大太鼓の音と若衆の勇ましいかけ声、その勇壮さは「男まつり」の異名をもって呼ばれ、今では全国各地から観光客を集めている(写真8-10)。
 西条市には夏の「お山開き」と秋の西条祭がある。石鎚神社の夏祭大祭である「お山開き」は七月一日から一〇日間行われ十数万の信者が登拝する。この祭りは、四国最大の山の行事で、三体の神像(銅製約四㎏、玉持ち・鐘持ち・剣持ち)が石鎚本社から成就社へ、さらに一〇日間山頂に安置される。崇敬者はこれを奉持したり、からだの各所に打ちつけて神威を体得、あるいは無事息災を祈る。西条祭は伊曽乃神社の秋の大祭で、一〇月一五・一六日の両日行われる。この祭典の歴史は古く、元禄年間(一六八八~一七〇三)に描かれた絵巻からもその豪華絢爛さがうかがえる。今も昔そのままに継承されて、一五日早朝の勇壮な宮出しに始まり、一六日暁天をついて常心のお旅所に集まる五〇余のだんじり(屋台)は、一〇〇余の赤々とともる提灯の火に飾られ、勇ましい太鼓と鉦の音に合わせてねり進むさまは壮観である。この日は行列正しく神輿にお供して市内を巡り、夕刻武丈堤で奉送する。神輿は加茂川の清流をわたって宮入りするが、別れをおしむ地元だんじりと河の中でのせり合わせは、祭典のフィナーレを飾るにふさわしい壮麗な絵巻物である。
 なお、川之江市では昭和五三年から青年会議所の肝入で紙祭りが開催されることとなった。地場産業である紙を利用して、法被、浴衣でお祭り広場から商店街へと踊りが繰広げられる。毎年七月の最終土・日曜日があてられミス紙の女王も選ばれ、紙祭りに花をそえている。

 別子銅山

 日本最大、世界有数の別子銅山は、元禄三年(一六九〇)に赤石山系の鞍部の(銅山越、海抜高度一二 九一m)付近に銅鉱の露頭が発見され、翌年住友の手で開発が始まり、昭和四八年の閉山まで二八二年間採鉱され、この間の採銅量(含有銅量)は七〇万トンを超えた。別子の名は、文化五年(一六四九)に立川山の銅山が開坑され、この周辺を別子と称したことによる。別子銅山の本山鉱床は角石原から東延一帯にあり、東延坑には本敷を中心に鉱業集落の形成をみ、宇摩郡別子山村に属し、最盛期には人口一万余を数え役場や銀行・小学校・劇場などがあった。しかし、東延・本敷一帯は明治三二年(一八九九)の八月に台風による風水害に襲われ、集落の多くが流出した。鉱床の標高が下がるにつれ、鉱山の中心も東延から東平へ、さらに端出場へと鉱業施設や住宅が移設された。製錬所も明治元年(一八六八)山根に、同三二年忽開、同じく三八年に四阪島へと新居浜市側に本拠を移した。
 もともと新居浜地方の一帯は農漁村に過ぎなかったが、元禄一五年(一七〇ニ)新居浜浦に口屋を建設し、別子と口屋を結ぶ新道を通じて海陸交通の便を図った。明治以後住友の事業を中心とした鉱工業が発展し、現在では四国最大の重化学工業都市であり、東予新産業都市の中心地区である。この別子銅山の発展の跡をたどる産業文化・産業考古学的な観光ルートがある(写真 8-11)。別子山村の旧別子銅山産業遺跡で、産出された鉱石は和式により焼鉱鎔鉱の作業が行われていた所で、現在は一面草に埋もれて廃墟の姿となっているが、銀行の建物跡などが残っていて、昔日の繁栄を偲ぶことができる。別子山村筏津坑跡には坑内の採鉱風景が復原されて公開している。
 新居浜市側では、明治二二年(一八八九)まで利用された別子銅山口屋の跡(県指定史跡)や、立川製錬所跡、惣開の遺跡、端出場の選鉱場跡、鉱山輸送鉄道跡、東平・呉木・鹿森などの鉱山住宅跡をたどることができる。夏草が茂り旧道を遮断しているところが多く、栄華のあとも消滅しかけている。ただ別子銅山記念館には開坑以来の歴史資料や、その間の主なできごと、生活風俗、技術などに関する史料が展示されている。