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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

一 松山・道後地域

 道後温泉郷

 道後温泉は日本最古の温泉で、天下の名湯とたたえられ、およそ三〇〇〇年の古い歴史をもつといわれている。神代の昔、足をいためた白鷺が湧き出る湯で傷を癒したという温泉開創の伝説をもつこの温泉は「熱田津の石湯」「伊予の湯桁」などとも称され、古典にその名をとどめ神話と伝説にとんでいる。大国主命が、重病に苦しむ少彦名命を手のひらにのせて湧き出る湯に暖めて治させたという伝説もあり、二神を温泉の守護神としてまつった湯神社は本館南側の冠山にある。毎年正月一五・六日に祭礼が行われ「初子さん」と呼ばれ市民に親しまれている。また、道後温泉には景行天皇以来五帝三后のご来浴をはじめ、古今の著名な文人墨客や知名の人びとが全国から訪れている。
 道後湯之町の中央に道後温泉本館がある。本館は、明治二七年(一八九四)に建造された城郭式の建築で、三層楼の威容を誇っている。一階は神之湯という大衆浴場で大国主命・少彦名命の像と山部赤人の和歌を刻んだ湯釜がすわっている。二階は神之湯に通じる広間、三階には霊之湯という上等の浴室用の休憩室があり、ここの個室には、夏目漱石ゆかりの″坊っちゃん″の間がある。三階のさらに上には、振鷺閣とよばれる太鼓楼があって、朝夕に時を告げている。
 本館の東には皇族専用浴室の又新殿があって、銅板葺破風造で、二階建の優雅な姿をとどめている。また、本館の近くには、昭和二八年八月完成の椿湯がある。
 昭和三一年二月から道後温泉街の各旅館に内湯が引かれるようになってから、道後温泉は一大発展をみた。これまでに道後温泉は二一年一二月の南海地震で湯がとまるまでに前後一二回湧出がとまった記録がある。そのたびごとに、湯の再出を願い“湯祈とう”を行ってきた。湯祈とう(三月一九日)は今では「道後温泉まつり」(五八年から松山春まつりと改称)とかたちをかえ、毎年四月の二日から五日の四日間行われ、松山市の春の観光シーズンの先がけとして全市をあげてにぎわっている。
 源泉は二八を数えるが、五六年四月現在でそのうちの一四が使用され、汲み上げ総量は日量約二五〇〇klに達している。泉質はフッ素とラドンを特殊成分として含み、重炭酸アルカリ・炭酸アルカリ及びアルカリ塩化物を主成分としたアルカリ性単純泉で、肌ざわりのよいことで有名である。道後付近の地下温度は一五〇m付近で五〇度C、一〇〇〇mで七〇度Cに近い高温になっている(図8-4・8-5・8-6)。
 奥道後温泉は道後温泉から東へ約五㎞、石手川の溪流に沿う景勝地で、温泉と山と溪谷に恵まれ、娯楽施設も完備した旅情豊かな松山市の奥座敷となっている。
 なお、前道後温泉の権現温泉が松山市権現町友国川のほとりにある。三二年に新源泉が開発され大衆浴場のほか内湯旅館十数軒がある。国道一一号線沿いにある鷹ノ子・久米ファミリーの温泉は、東道後温泉の名で親しまれている。

 松山城

 松山市街の中心にある。海抜高度一三二mの山頂に天守をもつ連立式平山城で、この築城は加藤嘉明が足立重信を築城奉行として、慶長七年(一六〇二)に着工し、本丸工事に二六年を要し、その後蒲生・松平と二代も城主がかわったので、嘉明の計画通りに工事は進められなかったといわれる。三の丸を明治三年(一八七〇)、二の丸を同五年(一八七二)に焼失している。同四三年(一九一〇)五月に松山市は陸軍省の許可を得て城山を公園とした。大正一二年(一九二三)には久松家が陸軍省から払下げをうけ、維持費四万円をそえ松山市に寄付された。昭和八年の夏、小天守ほか連立の郭が放火のため焼失した。この部分は四一年から復原に着手し四三年五月に完成した。引続き天守の修理にも着工、四四年三月完成。四六年三月には筒井門並びに東西続櫓を復原、ついで太鼓門・南北続櫓を四七年三月に復原し、国史跡に指定されている。城山の樹叢は県指定の天然記念物になっている。三〇年八月には市営のロープウェイが架設せられ開業し、三一年の利用者は五一万六五三七人であった。さらに、四一年にはリフトが完成し、観光客に好評である。五五年にはロープウェイ八八万九五〇三人、リフト五二万八七九人の乗車があった。松山城閣観覧者は四六年六二万五八七一人が最高で、五五年には五一万四九五七人とやや減少傾向にある。「春や昔十五万石の城下かな」「松山や秋より高き天主閣」など俳聖正岡子規の句がある(写真8-1)。

 四国霊場

 四国八十八ケ所の霊場は、愛媛県内で二六寺、松山市域にはその三分の一が集まっている。昔から人口の多かった地域であることがうかがわれる。それは第四六番札所浄瑠璃寺から第五三番札所の円明寺の八か寺で、春の四月八日にはこの八か寺を巡拝する一日お四国が行われている。なかでも道後温泉から東へ約一kmの所にある第五一番札所石手寺が有名である。聖武天皇の神亀五年(七二八)に勅願によって創建されもので、のも弘法大師の中興になり、創建当時は安養寺と称したが、後に石手寺と改めた。寺名の起こりである衛門三郎の伝説は有名で、領主河野伊予守興利の長子興方は衛門三郎の生まれかわりといわれ、興方出生後三歳まで、弘法大師筆の“衛門三郎再生”と書いた小石を左手に握っていたと伝えられ、その小石が今も寺宝として残っている。子規の句に「南無大師石手の寺よ稲の花」があり、香煙とともに参拝者があとを絶たない。楼門は国宝、本堂・二重塔(塔婆)・護摩堂・鐘楼・銅鐘・五輪塔などは重要文化財に指定されている。なお、楼門の金剛力士は運慶派一門の作といわれ県指定文化財である(写真8-2)。

 俳句のまち

 松山は俳聖正岡子規の故郷で、文豪夏目漱石の名作「坊っちゃん」の舞台となったところである。愛媛県は詩の国・歌の国といわれ、とくに松山は俳都と称せられ、国際観光温泉文化都市(昭和二五年法案可決)として発展している。これは、正岡子規をはじめとし、内藤鳴雪・河東碧梧桐・高浜虚子など有名な俳人を輩出し、現に中央俳壇の主流を形成しているからである。市内末広町の正宗寺境内に子規堂があるが、これは正岡家が東京に移ったのちに、とりこわすのを惜しみ、時の住職仏海師(子規友人俳号一宿)が邸の一部を寺に再建した。内部には子規の遺墨、遺品が数多く展示してある。また俳句のメッカといわれるにふさわしく、子規の埋髪塔や内藤鳴雪の髯塚、虚子の筆塚、ホトトギス発行六〇〇記念の句碑などがある。五六年四月には松山市立子規記念博物館が道後公園内に建設され、子規にゆかりの遺品が系統的に陳列されていて、子規と漱石のゆかりの「愚陀仏庵」が再現されている。この庵は、五七年に松山城南麓の万翠荘庭内にも再建された。これらの子規記念の建造物は全国の俳句愛好家に親しまれて松山市をして文学のさかんなまちとしての性格づけに寄与している(写真8-3)。
 子規の句碑は約三〇基、自筆のほか多くは友人柳原極堂の筆になり、その土地に因んだものである。松山市周辺にはとくに句碑が多く、一五〇を数え、その中には芭蕉塚をはじめ、来遊した県外人で珍しいのは小林一茶・夏目漱石・種田山頭火の句碑である。
 なお、愛媛三大祭の一つである伊予豆比古命神社(椿さん)が市内の石井にあって、授福の神といわれ、毎年旧正月七・八・九日の三日間“縁起の神様椿さん”として賑わう。四国はもちろん関西・中国・九州方面からも参拝者が多く、その数は四〇万人に達している。

図8-4 愛媛県の温泉・冷鉱泉分布図

図8-4 愛媛県の温泉・冷鉱泉分布図


図8-5 松山市の源泉分布図

図8-5 松山市の源泉分布図


図8-6 道後温泉の入浴者数(昭和27―55年)

図8-6 道後温泉の入浴者数(昭和27―55年)