データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 南予地域の都市

 宇和島市

 「煙突のない町」とか「愛媛の奥座敷」とかに形容される宇和島市は、たしかに国鉄予讃線の終着の町として、城下町の景観とともに落ちついたところである。それは、鳥坂トンネルや法華津トンネルなどを通って、松山市をはじめ瀬戸内海側から三時間近くかかるという遠さが、南予地域の中心都市としてのたたずまいを一層印象づけるからであろう。事実、宇和島市の都市機能は、農水産業への特化をもとに、商業・交通・行政管理に傾いていて、中心地機能が高く、その都市圏域は地理的環境も作用して確立し、周辺諸都市の影響をほとんどうけていない。
 宇和島藩の城下町として建設された旧市街は、中世の板島城、伊達氏になってからの鶴島城とよばれた海抜高度七〇mの分離丘陵にある城を中心に、五角形の放射街路を基礎にしている(図7―28)。非戦災の城南地区には当時の姿をしのぼせる住宅街が残っているが、中心商店街は昔のフクロ町から内堀を埋め立てた新市街である。町人の住んでいた本町一帯は卸売業者が集まってはいるが、かつての盛んな商店街の面影はなくなっている。宇和島鉄道が明治二六年(一八九三)に開通、さらに卯之町との間に国鉄が通じたことで駅前から城北地区が商業の中心となった。また、須賀川の河口で、城下町時代に水主や船大工が住んでいたところは、のちに築地となって海運業者の集まるところとなり、さらに朝日運河両岸や内港の埋め立て地には倉庫や市場、造船業などが立地し、海の玄関口として発展した。
 リアス海岸の湾奥に立地した宇和島市は、水深が深いので港としての条件にはいいが、大きな河川がなく低地に乏しい。城下町時代から海へ向けての埋め立てに努力が払われてきた。学校のような広い用地を必要とする施設は、すべて埋め立て地か山麓に建設されている。人口の五二%が僅か四・七k㎡の集中地区に住み、その密度は一k㎡当たり八〇〇〇人近く、県内で最も稠密なところとなっている。このため、住宅地の地価も高い。
 宇和島市は、南予地域の南部の中心都市であることから、人口規模に比べて行政管理機能が集積している。しかし、その文化的機能は決して高くはない。旧制の宇和島中学や宇和島高女に学んだ者は、はるか高知県南部にまで及んでいたほど、かつては教育水準の高い中心地であったが、戦後は高等教育機関がじゅうぶん育つことができないままに現在に至った。南予レクリエーション都市の建設が進むなかで、その拠点都市としての機能や、鉄道・国道などの整備を進める必要がある。

 大洲市と八幡浜市

 南予地域の北部というより西予地域といってよい肱川流域や西宇和郡一帯に都市圏を広げている二つの小都市が大洲市と八幡浜市である。この両市は、都市機能を著しく異にしていて、しかも、国道一九七号線の夜昼トンネルの開通で、時間距離が僅か三〇分ほどに短縮され、「二眼レフ」的都市といわれるようになった(図7―29)。それは、国道五六号と一九七号線の改築による交通変化の効果が最もよく現れた都市だということである。
 大洲市の中心市街は、大洲藩六万石の城下町として、肱川の左岸に沿って建設された。その城郭の一部は現在なお河川に残っているが、この殿町一帯が武家屋敷で、東の渡し場に至る密集地区が町人の町であった。これらが肱南地区とよばれ、肱川を渡った常磐町は、大洲藩が中村につくった計画的な町屋で、この一帯が肱北地区といわれる。大洲市の市街地は、城下町時代から双子集落であり、架橋を禁じたことから渡し場の機能をもつ渡津集落でもあった。大正一二年(一九二三)の肱川大橋の完成と国鉄予讃線の大洲駅の開設などによって、土地が広い肱北地区が発展することとなり、とくに国道五六号の沿道には業務地区、工場、自動車販売店などが立地して、新市街がつくられた。ただ、この沿線は、大洲盆地底の大型圃場整備が行われた優れた水田と畑のある地区であるため、農地の転用は制限され、背後に市街地のない細長い商工業用地となっている。
 大洲市は、農業の卓越した田園都市である。松下寿電子大洲事業部や明治乳業愛媛工場、大洲縫製など内陸立地の諸工業の進出で工業化がみられるものの、都市機能を変化さすまでには至っていない。国道の分岐点としての位置は、むしろ自動車等の販売に現れ、また八幡浜市からの人口移動や倉庫、トラックターミナルの進出が目立ってきた。肱南地区が分岐点で交通の著しい混雑をみてきたが、バイパスの完成で緩和されつつある。むしろ国道五六号線の改築で、松山市の小売商圏の拡大をみることで、大洲市の商業は影響をうけている。
 八幡浜市は宇和海のリアス海岸の湾奥に立地した港湾都市である(図7―30)。かつては夜昼峠を越えて大洲市と結ばれ、同市からは野菜や米、八幡浜市からは水産物が互いに運ばれていたが、都市の成立と機能は著しく相違し、まさに背中あわせの発展をしてきた。八幡浜市は、近世の末期に宇和島藩の御用商人によって長崎や大坂との間に航路が開かれてから港町として発展した。もっとも、北側の川之石が明治時代に栄え、銀行や紡績工場、海運業が立地していたほどで、八幡浜市は明治期の中ごろから大坂との取引きが盛んとなり、綿糸布や繭の移輸出入が多くなった。とくに市の中央部の五反田では近世に五反田縞とよばれた絹綿交縞の織物が生産されて、合田浦の行商人によって遠く大分や宮崎までも販路を拡大したほどであった。このような商業活動は、今治市の椀舟行商や伊予がすりを取り扱った睦月や野忽那など中島町の行商などと並ぶものであった。商人が勢力をもつに従って、土地のせまい八幡浜市では、豪商による海岸の埋め立てが行われ、現在その屋号をとった大黒町、近江屋町として残っている。
 海岸の埋め立ては、明治期に一六ha、大正期に〇・三ha、昭和に入って一〇・七haと広がり、昭和五五年度には新しく埠頭用地や緑地、都市機能用地など六・二haが完成し、さらに出島形式の埠頭を造成しつつある。三五年の重要港湾の指定や三九年には臼杵、四〇年に別府との間にフェリーボートが就航して、四国の西の玄関として九州との重要な連絡港ともなった。
 八幡浜市の都市機能は、商業のほかに周辺の農村における柑橘の特産地形成にともなう園芸作物とその加工、ならびにトロール漁業基地による水産物とその加工などに特色がある。このような農水産物の生産が国内市場を拡大し、商業的色彩の濃い生産であることが、八幡浜市の商業性をいっそう高めている。小売商業圏は、「岬一三里」とよぱれる佐田岬半島一帯から三瓶、宇和町にまで及び、とくに農村地帯を基礎とした商業活動が盛んである。
 市街地には、大型量販店や医療施設が集中し、西部の中心地機能を果たしているが、行政管理機能は大洲市や長浜町、内子町など大洲盆地一帯に及んでいる。その市街地は人口稠密で、宇和島市と同じく地価が高いことでも知られ、夜昼トンネルの開通によって、大洲市への通勤圏や企業立地が広がっている。

図7-28 宇和島市の市街地周辺

図7-28 宇和島市の市街地周辺


図7-29 愛媛県西部地方における都市商圏の変化(昭和43・53年)

図7-29 愛媛県西部地方における都市商圏の変化(昭和43・53年)


図7-30 八幡浜市の市街地と川之石

図7-30 八幡浜市の市街地と川之石