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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

1 立地と起源

 市と都市

 愛媛県の七〇を数える市町村のうち、市制を施行しているのは、人口の多い順に並べると、松山市を首位に、新居浜・今治・宇和島・西条・八幡浜・大洲・伊予三島・川之江・東予・北条・伊予の一二市がある。これらのうち、松山市が市制施行では最も古く、明治二二年(一八八九)に日本最初の市となった三六市のひとつであった。その後三〇年ほどたって二番目に今治市が大正九年(一九二〇)に登場、ついで宇和島市(同一〇年)、昭和に入って八幡浜(一〇年)、新居浜(一二年)、西条(一六年)が市制を施行した。これらは戦前の言わば旧市であって、戦後に新しく設けられた町村合併促進法(二八年)や新市町村建設促進法などによった新市として成立をみたのが、大洲・伊予三島・川之江(ともに二九年)、伊予(三〇年)、北条(三三年)、そして最も新しい東予(四七年)の六市である。これら新市は、その成立に当たって周辺の多くの町村を合併しているが、二〇年以上も経た今日でも人口三万人以上という当時の成立条件に対して、伊予市はそれに僅かに足らず、その他の五市も三万人台という人口の少ない市である(表7―1)。
 市は、行政の一つの単位であって、法的に一定の条件を満たせば成立する。これに対して、都市は人間の作った集落の一つで、前節でふれた農山漁村の集落とは規模や機能のうえで人工的という面で著しく相違している。つまり市と都市とは見かたを異にしたもので、後者は都市集落を機能的にみたものである。ここでは、県内一二市を都市として取り扱うこととする。
 改めて都市とは何かというと、それは、人工的景観が密集して市街地をつくり、多様性にとんだ政治的、経済的、社会的、文化的諸活動が行われ、それらによる職能的組織社会がつくられ、地域への影響が大きい中心的な存在となっている集落だといえる。これら諸活動を都市機能というが、その動きや生活は変化が早いことに特色がある。

 立地の特色

 都市の発達は、地理的環境と深いかかわりをもっている。それは、都市が人工的な面を強くもっていることから、地形的条件からの立地のありかたは、都市の形態や機能の形成に影響を与えている。
 県内の都市を地形との関係から立地の態様をみると、圧倒的に多いのが瀬戸内海と宇和海に沿った臨海立地で一〇都市を数え、松山市と大洲市が内陸立地である。かくも臨海立地が多いのは、全国的にも起伏量が最大であるという四国の地形的特性を反映したもので、沿岸の僅かな低地に人口が集まっている。とくに、同じ臨海立地といっても宇和島と八幡浜の両市は、宇和海沿岸特有のリアス海岸にあって、湾奥(頭)立地都市の代表的な例となっている。宇和島市の場合、市街の中心地区がかっての城下町時代の放射状の街路形態を今なおとどめていて、全国的にも稀なものであるが、これは、湾奥の僅かな低地に城下町を建設するに当たって、二面が海に臨み五角形の城郭を中心にしたためで、地形的条件に適応した優れた例である(図7―11)。八幡浜市は、宇和島市に比べてはるかに低地に乏しく、流域のせまい新川の河口に立地している。このため市街地はつねに海岸の埋め立てによって広がってきたといってよい(口絵参照)。
 瀬戸内海沿岸の臨海立地都市のうち、今治市は砂浜海岸に立地し、広い内陸の今治平野を背後地として発展してきたところである。宇和島市と同じく城の濠の水は海水を引き込んだものであるが、蒼社川が荒れ川であったことから、城郭がその河口左岸にあって、城下町は海に臨む北側に建設された。臨海立地であっても、余りにも海に接した町づくりで、その後の市街地の発展が内陸に半円形に広がっていることが特色で、港の機能を重視した発展だといえる(図7―12)。新居浜市は、国領川の河口近く左岸に発達したもので、港は東川という小河川の河口を利用している。西条市や東予市は、沿岸に広い干拓地や埋め立て地が造成されてきたことでもわかるように、臨海立地とはいうものの遠浅の海岸で、むしろ内陸の平野部農村地域を背後地とし、港の規模も小さかった。伊予三島、川之江の両市は中央構造線に沿った狭い扇状地の先端にあって、市街地の形成は伊予三島市が国道に沿って細長い。川之江市は古くからの海陸交通の要地であることから、港の建設に努め、伊予市の郡中港も同様である。北条市は、平野部を背後地とした立地で、今治市を小さくしたような町である。一般に、北四国の瀬戸内海沿岸の都市は、河川の多くが天井川で水量に乏しく、また河口部での砂の堆積も多いために、市街の発展は河口部をさけ、自然の良港に代わる人工港の建設に努力を払ってきた。
 松山市は、県内有数の広い平野である松山(道後)平野の北部に立地した内陸都市である。市街地は松山城のある勝山を中央にして広がっているが、国道のすべてが放射状に走り、その沿線に市街地が発達しているのは、地形的障害の少ない平野の都市をよく表わしている(図7―13)。城下町時代の方格状の街路が都心部に残っているが、これは奈良時代の条里制に従ったものではないかといわれているのも、早くから開けてきた松山平野に立地した歴史的都市であることを物語っている。しかし、内陸立地であったことから、藩政期に西方の海岸部の砂州を埋め立てて三津浜の港を建設し、外港としての役割を果たせてきたことは、近世から今日に至るまで、都市発展にとっての港の重要性を示したよい例である。
 肱川の中流、大洲盆地の中心都市である大洲市は、県内でただひとつの内陸の盆地に立地した都市である。その城郭と城下町は肱川が盆地に流入する曲流地点の左岸に建設された。この立地の選定は、肱川の氾濫をさけて山麓沿いの安全なところを求めたことによるが、その後の市街地は対岸に広がって、県内でも珍しい渡津集落となっている。鹿野川ダムと堤防の建設によっての氾濫の被害の減少から、市街地が右岸一帯に広がっている(図7―14)。

 起源(発生的核)

 日本の都市の多くは、近世に建設された城下町や在町を起源としている歴史的都市である。その城下町や在町などの面積は、現在の市街地の広がりからみるとせまいが、いぜんとして発展の中心地区としてあり、都市機能からみても発生的核としてある。県内一二都市のうち、城下町に起源をもつ封建都市のなかに入るのは松山・今治・宇和島・西条(陣屋)・大洲の五市で、これに準じた幕府の代官所であった川之江市と各藩の在町として建設された町を起源とした北条・東予(壬生川)の両市、また、八幡浜と伊予の両市は藩政期の港町で、いずれも近世の歴史的都市といえる(前掲表7―1)。日本の人口一○万人以上の都市一五〇についての歴史的成立基盤を調べたところ、城下町起源が最も多くて四三%、宿場町が九%、港町七%、その他をふくめ九九都市が歴史的な在来都市だといわれ、一〇万人以下の小都市四二九のおそらく大半が同じく歴史的都市だとみられている。これに比べると県内の都市は、歴史的都市が圧倒的に多いことが特色で、伊予三島市でも紙工業による伝統的産業都市に属するものである。しかし、新居浜市だけは、藩政期の別子銅山の銅の積み出し地であったが、その後の発展は、県内でただ一つの明治以降の近代化過程におこった新しい都市である。
 近世の封建都市であった城下町は、松山・今治・宇和島・大洲の諸都市の例のように、明治以降の都市発展で官公庁や民間企業、医療機関、教育施設などが主として武家屋敷町に立地して中央の業務地区へと変わり、町人町や職人町などは商店街となって、都市内部の地域構造を大きく変えたけれども、城下町全体は、いぜんとして都市発展の核心地区としてある。
 城下町のうち明治一〇年(一八七七)ごろに市街地を形成していた範囲の面積と、およそ一世紀を経た昭和五〇年の人口集中地区(DID)のそれと比べた結果、この両者の間には全国的にみてかなりの正の相関関係があることが認められている(図7―15)。城下町時代の市街地は、人口も少なく面積はせまかったが、この一世紀の間に、松山市は約一六倍、今治市や松山市三津、八幡浜市などは五〇倍近い拡大である。これに対して宇和島、大洲の両市は五倍前後と極めて少ない。その理由としては、宇和島市では地形的条件が市街地の拡大を制約していること、大洲市では、都市としての発展が遅れていることによる。    

 石高との関係
           
 城下町は藩体制のもとでの政治的、経済的中心であったが、その町の人口や経済活動の規模は、藩の勢力の基礎である石高と関係が深かった。もっとも、藩の権勢を示す城郭の威容は、石高のみならず徳川氏とのかかわりも重要であった。県内の都市で人口がとびぬけて多く四〇万人を超えている松山市は、松平(久松)氏一五万石の城下町であったが、これにつぐのは伊達氏一〇万石の宇和島市、加藤氏六万石の大洲市、松平氏三・五万石の今治市、紀伊松平氏三万石の西条市の順であった。従って石高では藩勢に著しい差はなかったし、明治一〇年(一八七七)ころの人口も松山が二万人台で宇和島が一万人台であった。これが同三六年になると、今治が一・六万人となり新興都市として登場してくる。山陽地方の広島や岡山の両市が石高が多く人口も多い都市として発展をみせたのに対して、愛媛県内では、石高と人口との関係は必ずしも一致した発展をみせなかった。
 これは、松山市が周辺の町村の多くを合併して、市域の拡大と人口増加をみせたけれども、それ以上に商工業や行政の中心都市として発展し、今治市は繊維や造船工業、商業交通の拠点としての発展をみせたことがあずかっている。これに対して、宇和島市や大洲市は、明治・大正期には地方鉄道の建設や海運の発達を促すほどの経済力をもってはいたものの、その後の産業経済の近代化には、陸上交通の不便さや低地に乏しいなど発展の条件が充分でなかったことによる。

表7-1 愛媛県12市の成立

表7-1 愛媛県12市の成立


図7-11 明治期の宇和嶋町市街地周辺

図7-11 明治期の宇和嶋町市街地周辺


図7-12 明治期の今治町とその周辺

図7-12 明治期の今治町とその周辺


図7-13 明治期の松山市とその周辺

図7-13 明治期の松山市とその周辺


図7-14 明治期の大洲町

図7-14 明治期の大洲町


図7-15 歴史的都市の市街地面積と人口集中地区面積

図7-15 歴史的都市の市街地面積と人口集中地区面積