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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 リアス海岸の漁村

 宇和海沿岸の漁村

 リアス海岸の続く宇和海の沿岸は愛媛県随一の漁場である。リアス海岸特有の岩礁の多い海岸地形が魚類の棲息に好適な条件を提供していること、屈曲に富む海岸地形が天然の良港を形成していることなどが、昔から宇和海をしてわが国有数の漁場としてきた条件である。古くは地曳網や船曳網によるいわしの漁獲が盛んで、明治以降は、いわし刺し網、巾着網、揚繰網などと、いわし網の近代化がすすむ。。昭和三○年代のいわし漁の不振後は、はまち、真珠の養殖が盛んになった。
 漁村は入江の奥のわずかな平坦地に大きな集村の形態をとって立地する。その理由は、風波をさける湾奥が漁船の停泊に好適なこと、集落立地を可能とする小平坦地のあること、飲料水の取得に便利なことである。小平坦地には小川が流れていることから、飲料水取得には便利であるが、その水量には限度があるので、村井戸といわれる共同井戸の利用が一般的であり、その共同井戸を中心に集落はひらけていた。
 宇和海沿岸の漁村の特色は、まず第一に漁業集落が多いことである。東予や中予地域の臨海集落のなかには、海に背を向けた非漁業集落が多いのに対して、宇和海沿岸にはそのような集落はほとんど見られず、程度の差はあれ、漁業活動が見られる。これは宇和海の漁場の豊かさを反映する。第二の特色は集落内の住民が半農半漁の生活を営んでいて、燧灘沿岸漁村のように、一つの漁業集落内で農民と漁民がはっきり分化していないことである。これは燧灘沿岸漁村が漂海漁民の定着などによる漁村形成が多いのに対して、宇和海沿岸では新浦が形成され、段畑の造成と併行して漁業活動が盛んになるという漁村形成の相違を反映しているものといわれている。第三の特色は、漁村内に網主――網子、あるいは船主――船子という社会階層がはっきりしていたことである。これは漁業形態が多くの従業者を必要とするいわし網であったこと、そのいわし網が、庄屋・組頭などの村役人層に許可されていたことに起源がある。網主――網子からなる封建的な漁業制度は明治以降も温存され、宇和海沿岸ではかつての大網主の屋敷跡を各地に見ることができる。第四の特色は漁村が共同体的な性格を強くもち、閉鎖的社会であったことである。社会の解放度を示すという通婚圏をみると、第二次大戦前にはほとんどの漁村が集落内で通婚していた。いきおい一つの漁村は姻戚を通じて強固な親族集団をつくり、これが共同操業を必要とするいわし網漁業と相まって集落の共同体的な性格を強めていたといえる。

 由良半島の漁村網代

 由良半島の先端に近い網代は、文政三年(一八二〇)に土佐和田村の住人儀三衛門によって開発された新浦である。儀三衛門は開発の功によって浦和の姓を許され、その孫の盛三郎は明治二〇年に浦和式金輪網(一種の巾着網)やまぐろの塩蔵法を考案して巨万の富を築いた。この集落には、鱒・浜地・鈴木などの魚にちなんだ姓、大根・真菜などの野菜にちなんだ姓、粟野・麦田などの穀物にちなんだ姓、立目・木網・大敷などの魚具にちなんだ姓など、特異な姓があるので知られているが、これらはいずれも明治維新時に網主の浦和が命名したものである。
 網主の浦和が明治末年に没落した後は、集落内の有志によって五統のいわし地曳網が経営されてきた、地曳網の網代は固定されていたが、夜間に火舟で魚を一か所に集め、夜明けに網を投入した。一帖の地曳網には、男女合わせて二〇名程度の曳子を要した。歩合は必要経費を差し引いて、網主と網子で折半するのが慣例であった。
 昭和四三年にこの集落で真珠母貝養殖が本格化すると、地曳網は操業困難となって沖取網へと変わった。しかし、この沖取網も、真珠母貝養殖が盛んになるにつれて労力の不足から経営困難となり、五三年を最後に姿を消す。現在全戸で真珠母貝養殖を行っているが、その養殖規模が各戸平等になるよう規制されているので、労力の余った家は磯建網を兼営している。また、この集落は宇和海沿岸の漁村の例にもれず、集落背後の急斜面を段畑耕作していた。段畑の耕作規模は平均四〇アール程度で、夏作の甘藷と冬作の麦を栽培し、食料を自給していた。四〇年代になって真珠養殖が盛んになるにつれて、段畑は耕作放棄され、現在はすべて荒地となっている。戸数三九戸の網代の集落は三か所の狭小な砂浜に分かれて立地している。本網代・本谷・荒樫の三集落はいずれも海岸ぞいに高さ三m程度の防風石垣をめぐらしていた。うち、荒樫・本網代には防波堤が建設されたことなどによって、第二次大戦後石垣が徹去されたが、本谷には現在も高々と石垣がそびえている。由良半島の南岸に位置する網代は冬の北西の季節風を防ぐには好都合であるが、夏の台風時には風波をまともにうける。風速三〇m以上の台風時には、この石垣が民家を守るので、石垣の管理は特に厳重で、石垣に生える草は、その背後の民家の住民が除草することを義務づけられていた。
 防風石垣には一か所砂浜に出る口が開いている。その奥の広場は船引場といわれ、台風時に船を避難させる場所であった。その一角には浜井戸と言われる共同井戸があり、集落の成立以来住民の飲料水をまかなってきた。戦後には各戸に井戸が掘られるが、その井戸水が枯渇した時には、この浜井戸が使用された。昭和五六年に津島町の山財ダムからの上水道が敷設され、ようやくこの集落は水不足から解放された。
 防風石垣の後の民家は軒を接する集村であるので、物干し場としては石垣の前の砂浜が利用された。昭和四〇年ごろまで砂浜で干された物は、切干し甘藷と麦、それに水産加工品の煮干であった。煮干の製造は網主が行うものが多かったが、なかには曳子への委託加工もあった。煮干の干し場には規制はなく、各自で自由に利用できた。切干し甘藷と麦の乾燥には、全戸が砂浜を利用し、その必要面積も広かったので、甘藷の収穫前と麦刈前には、くじ引きで利用場所を決定した。現在の砂浜には物干場としての機能は消滅したが、真珠母貝の貝掃除小屋が建ち並んでいる。貝掃除小屋の建設には規制はなく、早いもの順に建てていったという。平坦地に乏しい網代では、砂浜は昔も今も住民の重要な生活の舞台となっている(図7―10)。
 この集落は第二次大戦前には、ほとんど集落内で通婚が行われていた。明治・大正年間には、集落内で適齢の男女が結婚するのは当然の事と考えられ、遠く村外から嫁を迎えることは考えられなかった。第二次大戦後はこのような風習も薄れ、現在の若い当主は宇和島市や三間町あるいは一本松町など、かなりの遠隔地からも嫁を迎えていて、通婚の面からも次第に開かれた社会になってきている。       

 瀬戸町大久

 佐田岬半島は海食崖の連続する険しい岩石海岸で、集落の立地する適地に乏しい。瀬戸町の大久は半島では珍しい狭小な砂浜海岸に沿って立地する集落である。住民の生業は背後の段畑による甘藷と麦の栽培、前面の宇和海でのいわし網漁業で半農半漁の集落の多い宇和海沿岸を代表する漁村であった。また、この集落は三崎牛飼育の中心地で、昭和四〇年ごろまでは各戸に一頭の肥育牛が飼われ、その仔牛の販売は住民の重要な現金収入源であった。現在の生業は、男は土木建築業や出稼ぎに従事するものが多く、甘橘類の栽培は女手によるものが多い。段畑は甘橘園に転換したものと、耕作放棄されたものが多く、甘藷と麦の栽培はほとんど消滅した。また、いわし網漁業も、三帖から四帖あったいわしの地曳網が昭和の初期に消滅し、大正初期から操業されていた巾着網も第二次大戦中には消滅する。現在漁業で生計をたてているものには、一本釣や刺し網によるものが数名存在するにすぎない。 集落はその北側に三〇〇mから三六〇mの険しい山地を控えているので、冬の北西の季節風を防ぐことはできるが、夏の台風時の風波はまともにうける。海岸には防風林も防風石垣もないが、海岸に沿って並ぶ納屋が風波を防ぐ機能を果たしている。この集落には、住民の生活する居屋とは別に納屋があるのが特色である。納屋は居屋から離れて海岸沿いにあって、海に直角方向に並ぶ。幅二間から二間半の細長い中二階の建物で、海岸に面して入口がある。もともと農作物や水産加工品の格納庫であったが、台風時には、納屋がその内側にある居屋を暴風雨から守った。納屋が中二階であるのは、台風時に格納品を中二階に上げて浸水からまぬがれるためであった。
 平坦地が狭いこの集落にとっては、砂浜は重要な生活の舞台であった。砂浜は水産加工品の煮干の干し場、背後の段畑で収穫した切干し甘藷と麦の干し物、さらには三崎牛の夕涼みの散歩場所として利用された。浜の利用は海岸に近い者に優先権があり、自分の納屋の前を「浜どり」といって溝を掘って、その利用範囲を確保していた。納屋が海岸に面して入口を持つのは、この砂浜の干し場との関係である。牛の散歩はそれほど規制はなかったが、やはり納屋の前面に杭を打ち、その繋留場所を確保していたという。
 三〇〇m余りの高さの山地を背後に控えるこの集落は、飲料水を得るには比較的恵まれていたが、それでも個人井戸を持つ家は数戸にすぎず、共同井戸と、「くみじ」といわれる小川の水溜りが、飲料水を得る重要な場所であった。集落内には「くみじ」は五か所、共同井戸は四か所あって、それらは利用する住民によって管理されていた。

図7-10 内海村網代の漁村

図7-10 内海村網代の漁村