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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

3 谷底平野の集落

 生業と集落立地

 高縄山地や東宇和郡以南の南予地域では水田卓越山村が広く分布する。これらの地域には谷底平野の発達が良好で、住民は谷底平野の水田耕作を主な生業としてきた。林野の利用は、水田に投入する肥草の需要を満たすため、明治・大正年間には入会採草地として利用されてきたものが多かった。採草地以外の林野は木炭の原木として利用され、製炭業を現金収入源とする農家が多かった。入会採草地も、大正年間以降は採草地としての意義が減少したので、天然広葉樹林へと樹種の転換が行われ、木炭の原木に利用されたものが多い。
 集落住民の結合には入会採草地の利用は重要な機能をはたしたけれども、灌漑水の利用はあまり重要な機能をはたしていない例が多い。それは、谷底平野が一般に狭小なので、灌漑水路は個人または数人の共同で利用されたものが多く、集落全体が水利を通じて結合することはなかったことによる。
 集落は谷底平野の水田には接するが、低湿な水田をさけて、山麓の高燥地に立地する例が多い。住民の飲料水は、背後の山地から流下する谷水を利用するものが多かったが、一方では井戸の掘削も比較的容易であったので、井戸水に頼るものも多かった。
       
 津島町上槇

 北宇和郡津島町の上槇は谷底平野に立地する集落の典型である。集落は高知県宿毛市に注ぐ松田川の源流近くの谷底平野に位置し、その海抜高度は三〇〇mから四〇〇mの間にある。戸数は昭和三五年に九二戸あったが、五七年には五九戸に減少した。住民の生業は、三五年当時は水田耕作と製炭業であった。当時の耕地面積は水田四一ha、畑一〇haで、製炭業に従事するものは約五〇名であった。三五年以降の燃料革命の進行は製炭業を衰退させ、五七年現在は専業的製炭業に従事するものは、わずか一名となっていた。かつての製炭業を生業としていたものは、宇和島市などの都市に転出したり、残っているものは畜産業や山林労務、土木建築業の旦雇労務などによって生計を維持している。
 上槇は周囲を海抜高度六〇〇mから八〇〇mほどの広大な林野にとり囲まれている。林野の所有形態は、明治二二年(一八八九)には、国有林五一八ha(三八・四%)、上槇組持山五五六ha(四一・二%)、記名共有林一三六ha(一〇・一%)、私有林一三九ha(一〇・三%)であった。上槙組持山と記名共有林は部落有林であって、これと国有林が広大で私有林が狭小であったことが上根の林野所有の特色であった。林野の配置は、集落に接して居林といわれる狭小な私有林があり、その背後が広大な部落有林、さらにその外側に国有林があった。居林は住居に接した山であって、薪炭採取林となっていた。部落有林は明治・大正年間には入会採草地で、国有林は天然広葉樹林で、二〇年から三〇年の伐期齢で毎年集落の住民に木炭原木として払下げられていた。
 入会採草地は水田に開かれている谷底平野をはさんで南北両斜面に広がっていたが、両斜面の草山は一年ごとに交互に山焼された。山焼は春の彼岸ごろに住民総出でなされたが、個人ごとの採草範囲はおのずと決まっていたという。採草はまず五月の半ばころに、「かしき」といわれるならやくぬぎの木の葉が、田植前の水田に投入されるために採取されることに始まる。次いで牛の飼料用の草が随時採取された。牛は農耕用と肥育のために各戸一頭から二頭飼育されていた。採草の主体は八月下旬から九月上旬にかけて採取された肥草である。この時期に肥草が刈られたのは、草に実が入り、肥料効果が高かったことによる。肥草は稲刈後の水田で堆肥にされ、冬季から春先にかけて水田に散布された。また九月下旬から一〇月にかけては屋根葺き用の萱を刈るものもいた。入会採草地は大正年間に金肥が普及するにつれて、その意義が減少し、住民に私有林として随時分割され、やがて立木地となり薪炭林へと姿を変えていく。
 上槇の集落は五〇mから一〇〇mに一戸ずつ農家の点在する散村形態である(写真7―5)。散村は住居と農地が近接し、営農には便利であるが、外敵の防御には不便であるといわれている。わが国で散村成立の例をみるとほとんど治安の安定した江戸時代以降である。上槇も宇和島藩の租税台帳である大成郡録によると、慶長年間(一五九六~一六一五)以降の新田と記されているので、近世の開拓地に営農を重視して散村がとられたものと考えられる。
 農家は山麓の緩傾斜地に立地し、その背後に居林がみられる。前面のまとまりのある水田はその農家の所有地である。灌漑用水は個人で背後の山地から流下してくる谷水や谷底平野の中央を流れる河川の水を引くものが多く、水路は個人の管理下にあるものが多い。入会採草地が集落の結合の上で重要な機能を果たしてきたことに対して、灌漑水路の利用を通じて集落住民の結合が強化されることはなかった。農家と居林の間には普通畑がみられ、昭和三五年ころまでは主として甘藷が作付された。その畑と背後の山林との間には高さ一m程度の石垣が築かれているものが多いが、これは「かこい」とよばれる猪よけの石垣である。天然広葉樹林のうっそうと茂るこの地は猪と鹿が多く、特に猪は甘藷や稲穂をくい荒すものとして住民に恐れられた。
 農家が山麓線に立地したのは、そこが高燥地であること、背後の谷川の水を飲料水として引くのに便利であったこと、風害を防止しやすかったことなどによる。特にこのうち風害の防止が重要であった。第二次大戦前の上槇の住宅は草葺の粗末なもので、台風時の強風をまともに受けるとよく倒壊した。戦前にはどの家にも「せんまく」といわれる杉の防風林があったのは、風への備えである。背後の居林も防風林の機能をも兼ねていた。