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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

4 南予地域

 大洲・八幡浜地域

 大洲市は肱川中流の渡頭集落として、また大洲藩の城下町として栄えた歴史をもち、大洲盆地の中心的商業集落である・藩政時代には、本町などの肱南地区が唯一の商業地区であったが、大正時代の肱川架橋の建設や大洲鉄道の開通によって、肱北の駅前地区が新たな商業地区となった。さらに昭和四〇年の国道五六号線の改良や、四八年の大洲駅近くのフジの開店は、肱北地区の商業機能をより一層高め、商業活動における肱北と肱南の対決という新たな状況を生んだ。
 大洲市の卸売業の集積は低く、年間販売額は約一三〇億円で小売業の約二三〇億円を大幅に下回っている。いっぽう小売業では、小売中心性一一〇と約一〇%の購買流入をみていて、喜多郡の中心的な商業都市となっていることがわかる。しかし、国道五六号線の改修や八幡浜市へ通じる夜昼トンネルの開通によって、松山市や八幡浜市への購買流出も起こっていて、とくに呉服や婦人服などの買回り品では、両市へそれぞれ一〇%と三%程度の購買流出がある。
 八幡浜市は、明治以後港湾都市として発展し、後背地として西宇和の機業地を控えていたので商業は早くから発達し、「南予の大阪」と呼ばれている。同市は古くから平地が少なく人口過密であったため、他地域へ出かけて商業活動に従事するものが多かったが、合田の行商人はその好例である。合田の行商は幕末から発達し、当初はイリコを行商していたが、後に木綿や反物を船に積んで、豊後水道をこえて大分県や宮崎県を中心に販路を拡大していった。その後大阪仕入れの呉服類も取扱うようになって、販路も九州や中国から遠く北海道にまで拡大した。
 また、行商と同時に八幡浜市の卸売業も活発となって、明治から大正にかけては、九州東岸の諸地域から商品を仕入れに来ていたが、このような商業の発達に大きな役割を果たしたのが、大阪商船と宇和島運輸の九州航路あった。現在は行商はほとんど姿を消したが、フェリーで九州と結ばれているため、水産加工品を主とした商品の九州への卸売活動がいぜんとしてみられる。
 八幡浜市の卸売業の年間販売額は約四三〇億円で、そのうち農畜産物・水産物卸売業は約三九%を占める。これは八幡浜港に水揚げされる水産物や、かまぽこなどの水産加工品を取扱う卸商が集積していることによる。卸売業のもう一つの特色は、商店密度がきわめて高いことであって、人口一〇〇〇人当たりの商店数は四・九店と県内最高である。
 小売業の年間販売額は約三〇〇億円であるが、小売中心性は二一七と二七%の購買流入で県内三位である。このように購買流入が多いのは、八幡浜市が佐田岬半島の付け根に位置する立地条件によって、西宇和郡をその商圏に含むためであるが、夜昼トンネルの開通後は大洲市からの購買流入もある。小売業もきわめて商店密度が高く、人口一〇〇〇人当たりの商店数は二一店で、宇和島市と並んで県内最高である。八幡浜市の商店分布は、港を中心として栄えたため港湾に接近したところに集中し、卸商は大黒町に、小売商は新町・銀座・矢野町に集まっている。
    
 宇和島市

 宇和島市は城下町の起源をもち、明治以降は南予地域における海上交通の要地であった。昭和二〇年予讃本線が開通し同市はその終点となり、さらに予土線の開通で起終点ともなった。またバス交通は、宇和島自動車が国鉄宇和島駅を中心にして南予地域一帯にバス路線網を形成し、宇和島港は、九州航路と離島航路の基地となっている。このような海陸交通のターミナル性が同市の商業を発達させ、南予地域で最大の商業都市を形成した。
 宇和島市の卸売業の年間販売額は約九五〇億円であるが、そのうち農畜産物・水産物卸売業は約二五%を占める。これは宇和島市の水産物加工業に関連した卸売業の集積による。卸売業のもう一つの特色は、その商圏が広いことであって、南予地域を越えて高知県の幡多地方にまでおよぶ。昭和五六年に実施した調査によると、幡多郡西土佐村では、衣料品・電気製品・めがね・時計・金物・はきものなどの商品のほとんどが宇和島市から仕入れられている。また同郡十和村ではこれらの商品の約三分の一が同市からの仕入れである。宇和島市の卸売商圏が幡多地方にまで及ぶのは、この地方が高知市と地理的に隔たっていることと、宇和島市の卸商の活発な商業活動による。
 宇和島市は南予地域で最大の小売商業都市であって、年間販売額は約五四〇億円で県内四位である。宇和島の小売業の特色は商店密度と小売中心性が高いことである。商店密度は人口一〇〇〇人当たり二一店で県内最高で、小売中心性は一三八で松山市に次いで二位である。購買流入の多さは商圏の広さと関係があるが、同市の買回り品の商圏は、北は明浜町、南は津島町、東は野村町・城川町・日吉村におよび、松山市の商圏についで広い。同市の商圏はさらに高知県にまで広がって、たとえば洋服・服地の購入では、幡多郡西土佐村は九〇%、十和村は四〇%を宇和島市に依存している(図6―28)。宇和島市の中心商店街は、藩政時代は本町通りであったが、明治以降追手通り・袋町・新橋通り・恵美須町が発展し新たな中心商店街となった。

 南郡の中心城辺

 城辺町は藩政時代に宇和島藩の在町としての歴史をもち、明治になって大阪商船の深浦航路が開設されて以後、南郡(南宇和郡)の海上交通の要衝として商業が栄えた。また昭和に入ってからのバス交通の発達も同町の商業中心地としての地位を高める結果になった。城辺町は狭いながらも御荘町・西海町をふくむ小売商圏の中心地となっていて、県内で都市でなくて小売商圏を形成しているただ一つの例である。それはすでに述べたように、城辺町が古くから南郡の中心地であったという歴史性と、南予地域の中心都市である宇和島市と距離的に隔たっているため、独自の商圏が形成できたという地理的条件による。城辺町が一つの商圏の中心地であることは、小売中心性が一一三となって一三%の購買流入があることからもわかる。都市でなくて小売中心性が一〇〇を上回るのは県内で城辺町だけである。しかし、同町には購買流入があるいっぽうで、宇和島市や宿毛市への購買流出も認められる。とくに呉服や洋服などの高級な買回り品では、両市へそれぞれ約一〇%の流出となっている。同町の年間商品販売額は約一三〇億円、商店数二九二店、従業者数は九一九人であるが、この数値は南宇和郡では際立って高い。
 商店街は国道五六号線沿いに約一㎞にわたって形成されているが、昭和五四年にスーパーマーケットが三店も立地したことによって顧客をうばわれ経営が苦しくなっている。

 松野町の盛衰

 松野町吉野は、かつて吉田藩が元禄七年(一六九四)に代官友岡吉左衛門に命じて建設した在町である。この地は宇和島から土佐に入る要地にあたるため、吉田藩は、政治的・軍事的目的と、予土交易による商工業の繁栄から財政上の利益を得ることなどを目的として在町を建設した。これにより吉野と高知県の北幡地方との交易が活発になり、藩政期から明治にかけて、吉野から土佐へ米・麦・臘・油などが、土佐から木炭をはじめ、しいたけ・茶・松縄などがもたらされ交易が盛んに行われた。
 当時の交通路は、吉野から谷口や奥野川、おそ越えをへて西土佐の権谷に至る街道で、馬がやっと通れるほどの三尺道であった。そのほかに杖峠越えの街道もあったが、これはおもに奥野川上組の人が権谷へのルートとして利用した。吉野から権谷までは徒歩で約二時間、十和村の地吉や古城までは三~四時間を要したが、土佐の人は朝早く家を出て徒歩で吉野まで必要な品物を買いに来たという。このような交易によって、当時の吉野には竹葉屋・麹屋などの豪商が軒を連ね隆盛をきわめた(写真6―20)。彼らは商品をおもに宇和島、一部を大阪から仕入れて、松野町はもとより主要な商店がなかった西土佐村・十和村全域にまで販路を広げ、土佐の人に″塩一つでも吉野へ行かねば事足りぬ″と言われたほどであった。吉野の商店と土佐の人とのつながりは深く、吉野の山口屋(現存)の大番頭吉福氏の話によると、土佐へ商売に行っても一度も旅館に泊まったことがなく、すべて顧客の家に泊めてもらっていたというほどであった。
 明治後期から大正にかけて、吉野に変わり松丸が松野町の中心となってきた。これは、松丸の有力な商人たちが、政治的に積極的な振興をはかって、登記所・警察署・上級小学校の設置など、松丸へ公共機関の誘致を行い、人寄せの商業基盤を人為的につくり活発に商工活動をしたためである。松野町の中心は吉野から松丸へ移ったが、予土交易は依然として続けられていた。当時の予土間の交通路はおそ越え経由ではなく、吉野川沿いに建設された県道(明治三七年松丸・吉野間、大正三年江川崎・吉野間開通)経由であった。吉野は、大正一二年(一九二三)、宇和島鉄道が近永から吉野まで延長された結果、一時的に繁栄を取りもどしたが、それも長くは続かなかった。いっぽう松丸も、昭和二八年に国鉄宇和島線(旧宇和島鉄道)が江川崎まで延長されるに及んで北幡地方との交易がおとろえた。国鉄の江川崎までの延長は、松野町とが北幡地方との交易に壊滅的打撃を与え、かわって宇和島市と北幡地方とのつながりが強くなり、新たな予土交易を生んだ。前述したように、宇和島鉄道が吉野まで延長されたが、この交通体系の変化は吉野・松丸と北幡地方との商業取引にそれほど影響を及ぼしていない。その理由は、北幡地方から吉野・松丸までに時間がかかり、宇和島市へは日帰りで往復することが不可能であったためである。国鉄の江川崎までの開通は、北幡地方から宇和島市への日帰りを可能にし、北幡地方は宇和島市の商圏に完全に組み入れられた。現在では、北幡地方の宇和島市への買物依存率は、高級な買回り品では八割を超えている。
 昔から一日は二四時間、そのうち人間が行動できる日中の時間は八ないし一〇時間とほぼ決まっている。交通体系の変化が商業取引に著しい変化を及ぼす条件とは、集落単位の商業中心が、より大きい集落や都市を中心とした一日の行動圏にふくまれることだと考えられる。国鉄の江川崎までの延長が予土交易のすがたを完全に変えてしまったのはこのよい例である。

図6-28 四国西南地域の宇和島市への買物依存率(昭和53-54年)

図6-28 四国西南地域の宇和島市への買物依存率(昭和53-54年)