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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 中予地域

 交通都市松山

 松山市は、藩政時代には松山札の辻から讃岐街道や土佐街道など五街道が四方にのびて交通の要地であったが、現在でも松山市は四国西部における最大の交通の結節地である。すなわち、鉄道・道路・海上・航空交通のいずれの面でも県内で最も発達した都市である。言いかえれぱ、総合交通体系が最も整備されていて、その意味では県内最大の「交通都市」といってもよい。鉄道では、国鉄予讃本線、ならびに伊予鉄の郊外線三線が松山市駅と高浜、郡中、横河原間をそれぞれ結んでいる。国鉄が松山市まで開通したのは昭和二年で、全国の県庁所在都市で最も遅かった。この国鉄は都市内交通よりも高松市や宇和島市などと連結する都市間交通としての役割をおもにもっている。これに対して郊外線は、モータリゼーションの進展によってその役割を相対的に低下させたとはいえ、都市内交通、とくに通勤や通学交通においていぜんとして重要な役割を果たしている。さらに、伊予鉄の路面電車が市街地を走行していて、国鉄・郊外線と合わせて一つの鉄道網を形成しているが、これは県内では唯一のものである。
 道路では四本の国道が松山市に集中しているが、一一号線(徳島市―高松市―松山市)は旧讃岐街道にあたるもので北四国の連絡道路としてあり、三三号線(高知市―松山市)は旧土佐街道にあたり四国の横断道路としての役割を果たす。また五六号線(高知市―宇和島市―松山市)は旧大洲・宇和島・宿毛街道などにあたり西四国連絡道路となっている。一九六号線(松山市―今治市―小松町)は旧今治街道にあたり、今治市や越智郡との連絡道路としての役割をそれぞれもっている。
 これらの国道の自動車交通量は年とともに増加し、とくに朝夕のラッシュ時には混雑は最高に達していて、都市交通はマヒ寸前であった。この状態を打開するため、松山東道路と松山西道路、およびこれらを結ぶ環状線の建設計画が立てられ、五六号線と三三号線、一一号線などは完成し、いずれも混雑の緩和に著しい効果を示した。環状線は一一・三三・五六号線を相互に結ぶ区間のみ完成しているが、これは都市内を通過する交通の排除に効果があるものと期待されている。これに対して一九六号線のバイパスは、工事の開始をみた段階で、そのため同線は市内で最も混雑が激しく、一日(一二時間)交通量は二万五〇〇〇台を超えている。
 バス交通は、松山市に本社がある伊予鉄が中予地域でほぼ独占的に営業を行っていて、昭和五五年における総路線長は一一三九・四㎞、運行系統数は二三二系統、年間輸送人員は二九〇〇万人余となっている。伊予鉄バスの輸送人員も、四五年から五五年の間に約二二%の減少となったが、この減少率は県内主要バス三社のなかで最低である。これは、モータリゼーションの進展によってバス離れが起こったのにもかかわらず、松山市への都市人口の集中によって減少が低くおさえられたためである。このため伊予鉄バスは、県内主要バス三社のなかで唯一の黒字経営となっている。同社は、松山市内における多数の路線の他に、特急・急行バスによる松山市と今治・新居浜・八幡浜の各市を結ぶ都市間連絡路線があって、これらのほとんどが松山市駅を起終点にしている。このため同駅は県内で最大のバスのターミナルとなっていて、昭和四四年には近代的なバスターミナルが完成した。
 松山市の港湾の特色は、港の数が多くそれらが目的別・機能別にある程度整備されていることである。三津浜港は松山藩の外港としての古い歴史をもち、内航海運の貨物港として発展してきたが、現在は渡海船・漁船・給油船などの小型船舶と、フェリーボートや水中翼船など対山陽地方を結ぶ旅客航路の港としての機能をもっている。高浜港は、その前面に興居島という自然の防波堤があって、海が静かで深いという良好な条件にも恵まれ、明治期の港湾整備を契機として三津浜港にとって代わって松山市の中心港となった。しかし、臨海部に平地がないなどの欠陥から、昭和期に入り整備された他の港湾にその機能をうばわれ、現在はおもに離島航路の港として利用されている。高浜観光港は、三津浜港と高浜港に代わる新たな旅客港として昭和四三年に完成したもので、対阪神・広島航路の港として利用され、現在では松山市の中心的な旅客港である。松山港の今出地区、吉田浜地区、そして外港は、おもに戦後整備されたもので、商港ないし工業港としての機能をもっている。今出地区はおもに木材港として、吉田浜地区は石油化学工業の原材料や製品の取扱い港としての機能をもち、外港は青果連のジュースの輸出や生活関連物資などの雑貨を扱う港として特色がある。なお松山港は、昭和一五年に高浜と三津浜をあわせて松山港と改称され、二六年に重要港湾、二九年には開港に指定された。
 松山市には県内でただひとつの空港がある。松山空港は昭和一六年に旧海軍の飛行場として建設され、その後整備が進み、四六年には中四国で最初のジェット機が就航する空港となった。同空港からは大阪・東京・福岡・宮崎など六路線が就航していて、年間一五九万人の利用者があって西日本における航空路の中継点となっている。

 松山市における伊予鉄道の役割

 松山市における伊予鉄道の役割は、モータリゼーションの進展によってしだいに低下している・昭和五四年に実施された松山広域都市圏交通体系調査によると、郊外電車の全交通手段に占める割合は、わずかに三・三%に過ぎず、かりに貨物車や自転車・バイク・徒歩などを除いても、全体の約一〇%である。これは乗用車の利用と比較すればきわめて低い割合で、都市交通全体からみても郊外電車の役割はかなり低い(表6―13)。しかし、通勤や通学交通によって都市交通がピークを示すラッシュ時間帯では、郊外電車の役割は様相が一変する。郊外電車の走っている国道一一号線と五六号線方向では、郊外電車の占める割合はそれぞれ四二%、三八%と極めて高く、これは自家用車の四四%、四一%に匹敵するほどである。
 したがって、都市交通全体では、郊外電車の果たす役割はそれほど高くないが、通勤や通学では郊外電車はいぜんとして重要な交通手段となっている。通勤・通学者のなかには自宅から郊外線の駅までは自転車やバイクを利用し、そこから郊外電車に乗車するという、日本版のパークアンドライドを行っている人も数多くいる(写真6―12)。

 上浮穴の中心久万町
 
 上浮穴地方の中心地である久万町は、菅生山大宝寺の門前町や松山藩の在町として、また土佐街道の宿場町として発展し、周辺山村の物資交流の地であった。松山市と高知市を結ぶ土佐街道は、同町における古くからの幹線道路であるが、明治二二年(一八八九)に四国で初めての近代的な道路として整備された。大正末期には、松山―久万間に民営バスが運行され、昭和八年には国鉄(省営)バスが同区間に運行をみて、松山市への交通が便利になった。この結果、同町は宿場町としての機能を失い、久万駅付近の旅館は減少し、また同町の商業は、松山市の商圏に含まれたために打撃をうけた。さらに四三年には国道三三号線が改良舗装され、松山市へは国鉄や伊予鉄のバスで一時間で行けるようになったので、同町の商業はさらに大きな打撃をうけることとなった。五三年の買物調査では、高級な買回り品の約七割が購買流出している。新たに改築された三三号線は、旧道に沿った街村をさけて町役場の西側を通っていて、このバイパス沿いに久万農協、森林組合、病院などが立地して新たな市街地を形成しつつある。
 バス交通では、国鉄バスの予土線(松山―高知間)がこの地域の幹線路線であって、久万町には国鉄バスの支所が設置されている。また、伊予鉄バスが久万営業所を中心にして路線をのばしていて、山村住民の足としての役割を果たしている。しかし、人口の減少やモータリゼーションの進展によって利用客が減少し、とくに四〇年以降は営業係数が悪くなって、一部の路線で便数の削減や廃止をみた。     

 郡中の変化

 伊予市郡中は、もと松山藩領であったが替え地して大洲藩領となったところで、現在の米湊の地名からわかるように、藩政時代には米の積出し港として栄えたところである。さらに明治になって、伊予郡の郡役所をはじめその他の多くの行政・商業施設が置かれ、郡内諸物資の集散地となった。明治二九年(一八九六)には松山―郡中間に南予鉄道(現伊予鉄道)が開通し、同三七年(一九〇四)には、県道海岸線(現国道三七八号線)と犬寄峠が改修された。この結果、郡中には諸物資の積出し港としての郡中港のほかに、国道五六号線と三七八号線の分岐点、伊予鉄道のターミナルの機能が加わり交通の要地となった。もともと郡中は、大洲藩の外港としての機能のほかに、伊予郡や喜多郡の山間地を後背地とする谷口集落の機能をもっていたが、明治期の交通体系の整備によって、その機能がいっそう強化された。
 しかし、郡中はその後の国鉄の南予地域への延長や道路交通の発達、さらに松山市との間の交通体系の整備などによって、交通のターミナルとしての機能を失った。かつて諸物資の積出し港として栄えた郡中港も、現在では松山港の補助港としての機能しかない。同港は昭和三三年に伊予港と改称されたが、おもに漁港として利用され、商港としての機能はあまりない。わずかに伊予三島・川之江両市へのチップや、伊予市の特産品の花がつおなど、ごく一部の京阪神への輸送などに利用されている。

表6-13 松山広域都市圏における交通手段別構成比(昭和54年)

表6-13 松山広域都市圏における交通手段別構成比(昭和54年)