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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 戦後の海上交通

 航路の回復

 第二次大戦後は船舶の不足が続き、さらに連合軍に徴用された船舶もあって、定期航路の回復は容易ではなかった。昭和二一年には、国鉄によって、松山市堀江と呉市仁方間を結ぶ国鉄仁堀航路が宇高航路の補助的機能を果たすべく開設された。開設当初は、外地からの復員兵士、統制物資を運ぶヤミ商人などでにぎわったが、競合する民間航路の開設とともに利用客は激減し、ついに昭和五七年に三六年間の歴史を閉じた。
いっぽう、民間航路では、関西汽船が戦後ただちに別府航路を再開し、さらに二三年には東京船舶・日本郵船が阪神―松山航路を開設した。同年にはさらに、宇和島運輸が関西汽船から船舶および航路の返還をうけ、大阪―宇和島―宿毛線、宇和島―別府線を再開し、また南海海運は神戸―今治間の定期航路を開設した。
 三〇年代に入って、新たにフェリーボートや水中翼船などが就航するようになって、海上航路は戦前の水準をはるかに上回り、瀬戸内海を網の目のように航路が張りめぐらされるようになった。現在県内の海上航路は、長距離フェリーで結ばれる阪神・九州航路、フェリー・水中翼船・高速艇で結ばれる中国との航路、おもに旅客船で結ばれる離島航路などがあって、総航路数は六〇を越えている(図6―13)。

 フェリーボ―卜の登場

 戦後における海上交通の著しい変化は、自動車航送船(フェリーボート)の登場と、水中翼船・高速艇による船舶のスピードアップであった。
 わが国にフェリーボートが初めて就航したのは、昭和二九年の日本道路公団による明石―岩屋、鳴門―福良間であるが、県内では三四年に昭和海運によって今治―三原間に初めて就航した(写真6―6)。その就航は、急速なモータリゼーションの進行と、車に乗ったままで海を渡りたいという利用者の要望に答えたものである。フェリー化は急速に進展し、普通旅客船はつぎつぎとフェリーボートへと転換し、現在では限られた離島航路以外はほとんどフェリーボートが就航している。その就航は、長距離フェリーとしては別府航路、東予―神戸、今治―神戸航路など六航路があって、中四国航路としては松山―呉・広島、松山―岩国・柳井、今治―三原間など八航路がある。さらに九州への航路としては、三崎―佐賀関、八幡浜―臼杵間など三航路があって、これ以外に離島航路でもフェリーの就航をみている(表6―7)。
 フェリーボートの急速な普及を統計から見ると、昭和四〇年には、その出入貨物量は移出一二一万トン、移入一二八万トンであったものが、以後急速に増大し、五五年には移出二六三九万トン、移入二六一二万トンと四〇年の約二一倍の伸びとなった。フェリーボートがこのように急速に普及したのは、モータリゼーションによる自家用車やトラックの利用が急増したためである。
 フェリーボートが登場する前には、貨物の海上輸送はもっぱら貨物船に依存していたため、発・着地の港での貨物の積みおろしを必要とした。フェリーボートが登場してからは、この作業を必要とせず、トラックが海上を走ることとなって、経費の節約と貨物輸送の高速化が同時に達成された。さらに、海上では運転手が休息をとることができるという、労働管理の面からの利益も付与されることとなった。フェリーボートの登場は、貨物輸送におけるまさに画期的な進歩ということができ、今後とも「海のハイウェイ」としての機能は維持強化されるであろう。

 船舶のスピードアップ

 自動車航送と同時に、船舶のスピートアップによる時間距離短縮も利用者の強い要望であった。この要望を実現したのが水中翼船と高速艇であって、水中翼船は昭和三九年に瀬戸内海汽船によって今治―尾道間で運行が開始され、平均時速六〇㎞で航行し、旅客船による所要時間二時間二〇分を六〇分へと大幅に短縮した。この後四一年には石崎汽船と瀬戸内海汽船により芸予航路に、さらに四八年には今治―広島間にもそれぞれ水中翼船が運行され、現在では七航路において就航している。
 高速艇は、四七年に今治―三原間に初めて就航し、平均時速四三キロで、それまでのフェリーボートによる一時間四〇分を一時間へと短縮した。この後各航路に高速艇が就航するようになって、今では今治―尾道、今治―竹原間などの中・四連絡航路以外に、離島航路でも就航している(表6―8)。

図6-13 愛媛県の主な海上航路

図6-13 愛媛県の主な海上航路


表6-7 愛媛県におけるフェリーボート航路(昭和56年)

表6-7 愛媛県におけるフェリーボート航路(昭和56年)


表6-8 愛媛県における水中翼船・高速艇の就航状況(昭和56年4月1日現在)

表6-8 愛媛県における水中翼船・高速艇の就航状況(昭和56年4月1日現在)