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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

1 昔の道路と道路交通

 古代の道路

 明治以前には、道路は各時代を通して支配者の支配体制の一部として存在しており、現在のような物資の輸送という経済活動のためのものではほとんどなかった。たとえば、古代においては律令制度の確立とともに、全国を京師・畿内・七道に分け、各街道(太政官道)を整備して緊密に都と地方の国府を連絡しようとしたが、これは中央の指令を地方に、地方の情報を中央に迅速・安全に伝え、収集することを目的としたものであった。いわば中央集権をおし進めるための交通動脈を形成しようとしたものであった。
 この時代の伊予(愛媛)の太政官道は、七道の一つ南海道(紀伊・淡路・讃岐・伊予・阿波・土佐の六か国に通じていた)に属し、国府のあった越智郡桜井(現今治市)から東に延びていて、途中には三〇里(現五里、約二〇㎞)毎に駅が置かれた。伊予では、西から越智駅・周敷駅・新居駅・近井駅・大岡駅の五駅と、大岡駅から土佐に通ずる街道の途中に山背駅が置かれていた(図6―1)。これらの駅では、馬や船を設けて官用をもって旅行する者に対し人馬や船の中継ぎをし、宿舎の便をはかり食糧の世話などをした。
 このような交通制度は駅馬の制と言われるが、この制度を利用できたのは公用をおびた官公人だけであり、一般の庶民には無縁であった。古代の道路は、中央集権化をおし進めるために整備され、経済活動のためでないため、道幅も狭く物資の輸送には不適で、もっぱら水運が利用されていた。

 近世の道路

 近世になって、徳川幕府は交通制度の整備を行い、日本橋を起点に五街道を定め、軍事上これを道中奉行に管轄させたが、地方でも諸大名の手で脇街道とか往還と呼ばれた主要街道が整備された。この交通制度の整備は比較的短期間で行われたが、それは参勤交代制によって交通制度を早急に整備しなければならないという政治上の目的によったもので、物資の輸送が主目的ではなかった。
 このような全国的な交通制度の整備の傾向に対して、伊予における街道の整備はそれほど進んでいなかった。それは、各藩とも参勤交代は陸路をとらずにもっぱら海路を利用したため、街道整備の必要性がそれほどなかったこと、また軍事上よく整備された街道は必要としないことなどによったものといわれる。
 当時の松山藩内の街道は、古町の札の辻を起点として、ここから三津・今治・讃岐(金毘羅)・大洲・土佐などの主要街道が藩内外へ出ていた。これらの多くは道幅が一間(一・八一m)以下の狭い道で、おもに徒歩であったために近道の必要から山の尾根や峠の坂道が多かった(前掲図6―1参照)。これら諸街道のうち、松山城下とその外港であった三津浜とを結ぶ三津街道は、諸街道の中で最も整備された街道であった(写真6―1)。これは、松山藩主の参勤交代が三津浜からの海路によっていたことや、城下に集められた諸物資を三津浜から船で輸送するため、途中の三津街道が整備される必要があったためである。他藩と結ぶ幹線道路の整備が遅れ、それに比べて三津街道がよく整備されたという事実は、道路が為政者の政治的目的に利用されたこと、物資輸送が近世においても海路が主であったことを物語るものである。
 この五街道以外のおもな街道としては宇和島街道と宿毛街道があった。前者は大洲から宇和島へ、後者は宇和島から土佐(高知県)の宿毛へ通じたものであったが、これらの街道の多くは道幅が一間以下の狭い道でしかも険しい峠越えの道であった。

 遍路道

 近世の道路としていま一つ重要なものは、巡礼の道としての遍路道である。四国八十八ヶ所(寺)順拝の起源は、善通寺市に生まれた弘法大師の四国巡錫にあると言われるが、現在のように正式に札所に順番がついたのは江戸期に入ってからである。県内には八八か所のうち二六の札所があるが、遍路道はこれらを順次連絡する道路で、一部では近世の街道と重複しているところもある(前掲図6―1参照)。しかし、遍路道はその名のとおり遍路のための道であって、一般庶民の日常生活や経済活動にとっては、一部を除いて他の街道ほど重要でなかった。久万町の畑野川のように遍路宿があって地方の交通の要地となったり、御荘町や久万町のように、札所の門前町から商業の中心集落として発達してきたところもある。

図6-1 愛媛県の旧街道と遍路道

図6-1 愛媛県の旧街道と遍路道